第99回 もっと自由に生きられたら

1、不登校ってなんだ

教育委員会にいると「不登校」児童生徒数というものが無機質にやり取りされていて嫌な気持ちになります。

現場の先生はもちろん真摯に子どもに向き合っているんでしょうけれども

役場の事務仕事になると急に「課題」として数字の増減だけ見ているような気がします。

もちろんその子ども達にもそれぞれ事情があって一様ではないとは思いますが

たまたま住んでいる半径◯圏内の、たまたま同じ年に生まれた人たちだけの集団に押し込められて、最大公約数的な教育を義務として受けさせられる。

そこに適応できない人が一定数いたって当然じゃないかと正直思います。

自分が中学生だったときは逆に「登校しない」というのが怖くて休めませんでした。

後ろ指を刺されるのではないか

自分がいないうちになにか大事なことが決まっていて置いてけぼりになってしまうのではないか

という強迫観念のようなものになぜか支配されて、心を殺して優等生を演じていました。

あの頃の自分になにか伝えられるとしたら

「死ぬこと以外はかすり傷」という現代のインフルエンサー達の言葉を伝えてあげたいです。

2、はぐれもの

いつから日本はそんなに堅苦しい国になったのでしょう。

私の大好きな中世は、悪党とか婆娑羅とか型にはまらない人物が活躍しているような、なんだか自由な雰囲気があふれているように見えます。

もっとも最近の研究では悪党という言葉は訴訟用語で、相手方を悪く言うために使われる言葉で、実態は怪しいということらしいです。(呉座勇一『戦争の日本中世史』

それでも家柄で出世コースが決まる蔭位の制があった古代や、身分制度が厳しい江戸時代と比べるとチャンスがあったように思います。

ただ、少なくとも現代と圧倒的に違うのは情報へのアクセス。

世界はこんなに広くて、色んな考え方があって、自由に生きられるんだということを知識として持てる層は限られていたでしょう。

3、多様性社会の実現にむけて

近代の学校制度は幅広い層に等しい教育を施すという題目からすると充分な成功を収め、戦前は優秀な兵隊を養成し、戦後は企業戦士を養成する下地を作ってきました。

ただ、平成の時代にあってはさまざまな課題が浮き彫りになってきたと言えるのではないでしょうか。

学校の“勉強”よりもネットを通じて得られる情報量の方が圧倒的に多くて

学校で出会える人間関係よりも、不特定多数の中から共感できる人物を探し出せる。

そんな時代に学校の役割はなんなのでしょうか。魅力はどこにあるのでしょうか。

幸い我が娘は楽しそうに小学校に通っていますが、

自分が今小学生で、Webに常にアクセスできる状態にあったら、学校に行っていただろうかと考えてしまいます。

現実社会がもっと多様性に寛容で、可能性に満ちていないと、見向きされなくなってしまうような気がします。

それが人間社会の新たなステージなのかもしれませんが。

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