第1472回 飢饉より恐ろしいものは
1、読書記録348
今回ご紹介するのはこちら。
藤木久志2018『飢餓と戦争の戦国を行く』
本書のキモは8年ほどかけて作られたという中世の飢餓をひきおこす災害に関するデータベース。
平成5年、1993年の冷夏による東日本の大凶作に衝撃を受けて調べ始めたといいます。
中世の記録や古文書に旱魃、長雨、疫病や飢饉に関わる記事を見出して年表風にしたもの。
7000項目余りのデータベースから1150年から1600年までの450年分が本書に掲載されています。
これを一覧すると、毎年どこかで災害が起こっているような印象を受けます。
私たちはつい「最近は異常気象で」とか「地震が多いよね」と今が特殊な期間であるような気になってしまいますが、意外とそうでもない、という実感が湧きます。
2、中世の実態
この災害データベースをもとにさまざまな話題が展開されているのですが、
個人的に強く興味が惹かれたものをいくつか紹介します。
飢饉の時の対応について。
中世の人々ももちろん、日照りや長雨を契機に飢饉が起きた時にただ天を恨んで手をこまねいていたわけではありません。
鎌倉幕府の法律の中には飢饉の際には本来の土地所有者に関わらず
山野河海を利用して糧を得ることを認める、というものがあります。
現代顔負けの土地所有権が争われていた時代。
そんな中でも飢えた流民たちが野山で芋を掘り、川で魚を取って命を繋いでいることを見逃す、というのです。
また、飢饉の際に都市部に難民が集まってくることに著者は疑問を抱きます。
なぜ生産地が消費地より先に飢えるのか。
著者が立てた仮説は、中世の都市周辺の村々はプランテーションであった、というもの。
都市に物産を供給することで経済が成り立っており、自給自足の村ではなく、地域ごとに決まったものをつくるモノカルチャー経済になっていたのではないか、というのです。
つい70年ほど前の終戦直後は都市が飢えて農村に買い出しに行く、という形でしたが全く逆の構造です。
これは近世社会の成熟で農村が自立できるようになったからでしょうか。
それとも近代化で農村も豊かになったからでしょうか。
現代で飢饉が起こるようになったらどうなるでしょうか。
さまざまな思考が呼び起こされる事例です。
続いて展開されるのは戦場での略奪の話。
応仁の乱を例にとると、戦場には多くの商人が群がっており
足軽が掠奪した品を買い漁っては転売して財をなしていたというのです。
京都の東寺では宝物を郊外の三宝院に隠していたのに掠奪されてしまいますが、信者が市場で売られていたものを買い戻して寄付してくれたという事例も紹介されています。
モノだけではなく、ヒトの掠奪も目を覆いたくなる事例ばかりです。
16世紀には九州の戦場で生け取りにされ、東南アジアにまで売られた日本人も多く、マニラでは治安が脅かされるのではないか、と危惧されるほどの大集団だった、との記録もあります。
一方で江戸時代初期の長崎平戸の町人別帳の分析研究が紹介され、
そこには「生国高麗」と記された女性たちが数多く見られるとのこと。
年齢を勘案するとこれは文禄慶長の役で生け捕りにされてきた人々であることが想定されます。
3、戦争は飢餓より恐ろしい
はしがきには「七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな」ということわざが掲げられています。
このことわざは著者が妻から教えられたといいます。
戦争は今もこの世界で続いています。
歴史に裏付けられた教訓を思い起こすことが求められます。
巻末の解説を執筆した清水克行氏が宮本常一の『庶民の発見』を引きつつ、能登の時国家の例を挙げ、地主の存在が「社会保障の役割を果たしていた、と肯定的に評価しています。
飢饉や天災が起こった時、皆が同じような規模で経営している村はよわい。
時国家が毎年種籾を付近の村から預かり、モミ種まで食い潰すことのないよう管理する。また飢饉の時は子供を時国家に売って食い繋ぐ。
現在の価値観では別な評価をされてしまいそうですが、本書で描かれた中世社会の有様を見ると、確かに必要な構造であるようにも見えます。
現代を相対化するためにも歴史は有用である、そう思わせるところがありますね。
本日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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このnoteにコメントでもいいので、ぜひ気軽にお問い合わせください。
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