感想『ウルトラマントリガー』原典解釈のすれ違いによる悲劇と、新たなる希望。
ウルトラマントリガー。こんなにも賛否の割れるウルトラマンに出会ったのは、生涯初めてのことだった。土曜朝、最新話が放送される度にタイムラインは困惑の色に染まり、放送も後半に近づくにつれ話題にする人も減っていったように思えた。もちろん、これは私の観測範囲の話で、世間全般の評価ではない。とはいえ、こうして全25話を遅まきながら走りきった今、その世評にもどこか納得してしまうような、そんな所感を抱いている。
『ティガ』を受け継ぐ令和の光。新時代を切り開く引き金となった『トリガー』がどんな作品であったのか。すでに語り尽くされた感もあるし、放送終了から時間が経ってキャスト・スタッフの舞台裏にまつわる証言が関連書籍などでチェックできる今、それを参照せずに語るのもおこがましい話なのだが、『ティガ』を観た直後に『トリガー』に触れた感想として、書き残しておきたいと思う。またしても最後までお付き合いいただければ幸いである。
ウルトラマントリガーの立ち位置とは何なのか。情報が解禁された際によく見かけた「ティガの神髄を継ぐ」という宣伝文句は、これが続編なのかリブートなのか全くの別物なのか、その辺りの明言を避けた差し障りのないキャッチコピーにしか見えなかった。ただ、全25話の放送を終えた今、トリガーとは「ニュージェネのフォーマットでティガをやる」という試みだったのだと、そう落とし込んでいる人も多いのではないだろうか。「NEW GENERATION TIGA」の副題に偽りなしの、現代向けに創られたティガなんだと。
ニュージェネのフォーマットについては、先日の『ティガ』の記事で自分なりのまとめを書いたので、ここでセルフ引用してみる。
ヴィランとの対立を縦軸に置いた連続ドラマとしてスピーディな話運びをしていく現行の「ニュージェネレーション」シリーズ。原典となる『ティガ』がバリエーション豊かな敵やシチュエーションを用意できたのとは異なり、2クールの放送枠で収めなければならない『トリガー』は、光と闇の対立という要素が大きく扱われた劇場版『THE FINAL ODYSSEY』を参照することで、令和版ティガへのコンバートに挑んだ。闇の三巨人はリファインされ、ティガダークはトリガーダークに。世界観も地続きのものではなく別世界であることを9話で明かし、ティガの要素を継承しつつも続編ではない、というバランスに落ち着いた。
ウルトラマンのメインターゲットは子どもたちである、という当たり前を前提にしつつ、『ティガ』との直接的な続編関係にしなかったのは、正解だと思う。実に16年ぶりとなるTVシリーズ作品として送り出された『ティガ』と、総集編番組を挟みながらもコンスタントに新作が作られ続けるニュージェネの流れを汲む『トリガー』とではファンの取り組み方も変わってくるし、ウルトラマンとは何か?怪獣を倒すこととはどういうことか?を自問しながら闘う『ティガ』を再演するのは、このコロナ禍の時代において制作陣も望むところではなかったことが坂本浩一監督の口から明かされている。
とはいえ、である。自ら「ティガの神髄を継ぐ」と銘打った以上、私のような意地悪な人間はどうしても『ティガ』との比較をしてしまうし、実際にそういうファンも多かったからこそ、『トリガー』は賛否両論の激しく分かれるウルトラマンだった。『ティガ』は名作であるがゆえに神格化され、その分扱いには注意が必要である。お隣……ではないのだが『クウガ』に対する東映の手付きとファンの軋轢の歴史があったからこそ、そこに慎重さを求めてしまうのは避けられなかった。
その観点で言えば、『トリガー』は『ティガ』を令和に置き換える作業において、なんだか間が抜けているのである。ニュージェネだから、変身アイテムはよく喋るし、防衛隊には友好な宇宙人がいるし、他のウルトラマンとも共闘する。繰り返すが話数も限られているし、玩具の発売スケジュールに沿って(おそらく『ティガ』当時よりも厳しく)物語を展開しなければならない都合上、『ティガ』の全てを余すことなく継承しろと文句をつけるのはナンセンスである。それはわかっているが、完成した本編はいくら何でも「NEW GENERATION TIGA」がおざなり過ぎるところが、どうしても看過できなかった。
『トリガー』のコンセプトは、『ティガ』の衝撃を今の世代の子どもたちに与えたい、とある。裏を返せば、私達はトリガーを観て、ティガの魅力を再発見することができるはずだ。その目論見はしかし、悲しいくらいにすれ違っていく。もしや、公式と私の間でのティガ感が全く異なっているのではと不安になってしまうくらいには。
まずはデザイン。これまで銀と赤を基調としていた昭和シリーズとは一線を画す、パープルのラインが加わったティガのデザイン。トリガーはそれを踏襲しつつ、そのカラーリングを反転させパープルの色味を増やすことで、ティガらしさと新しさを兼ね備えた、オーブのスペシウムゼペリオンとは異なる翻訳が素晴らしい。小顔なマスクも相まって立ち姿の格好良さはティガを彷彿とさせるし、夜に映える美しいデザインはしっかりと原典を受け継いでいると言っていいだろう。
ただ、その美しいものに剣を足さざるを得ないのが、令和の事情である。これは誤用と承知の上で言わせてほしいのだけれど、ティガを受け継ぐウルトラマンが剣で闘うのは、私にとっては"解釈違い”を引き起こしてしまう。己の身体一つで敵に立ち向かう勇ましさや必殺技の発射ポーズの流麗な動きに対し、剣は無骨な印象を与えその神秘性を削いでしまうような印象が否めないからだ。剣にハサミに弓にと形態を変える武器、遊びのバリューとしては素晴らしいものがあるために、これが他のウルトラマンの武器だったらと思わずにはいられない。
次にストーリー。前述の通り話数がそもそも二倍の開きがあるし、『ティガ』をそのままトレースすることが最初から意図されていない以上、単純に比較しても齟齬が生じるのは致し方ない。ただ、『ティガ』のモチーフを扱うのならしっかりリスペクトしてほしいと思ってしまうのも、ファンの人情なのである。
『トリガー』はティガの劇場版『THE FINAL ODYSSEY』を引用しており、これによって光対闇の構造を明確にしている。トリガー・マルチタイプへの変身の口上が「未来を築く希望の光!」なら、トリガーダークは「未来を染める漆黒の闇!」と叫ぶ。彼らは自らを光/闇と定義し、対立することを前提としてそれを表明する。超古代文明を滅ぼした者は闇の巨人と呼ばれ、エタニティコアの力で世界を闇に染めようとする。
さて、この構図は果たして『ティガ』を踏襲していると言えるだろうか。『ティガ』における「光」とは、人間の可能性や未来を信じる心、あるいは他者を思いやったり愛すること、その象徴として描かれてきた。ティガから受け取った希望で立ち直った者もいれば、人々から光を与えられなければティガはそもそも闘えないのだ。闇との対立が表立って描写されたのは邪神ガタノゾーアや劇場版くらいのもので、「人は誰でも光になれる」に着地するための積み重ねを、『ティガ』は全52話かけて紡いでいった。
一方の『トリガー』は、光に対し「エタニティコア」として可視化させ、光と闇の陣営で奪い合う”モノ”として配置した。カルミラがメガロゾーアになったように、手にした者の心次第では闇を増幅するものという意味ではマサキ・ケイゴの顛末とも呼応するし、ユナ/ユザレの意思に応えトリガーに力を与える描写もあり、効能としては大差がない。むしろ、光とは誰もが持つものとして描かれた『ティガ』とは違う表現を選んだことに着目すべきなのだが、あろうことか『トリガー』は最終回でティガの復活劇を再演させ、ミツクニの口を借りて「同じだ」と言い切ってしまう。あの、全然同じじゃないです。
光と闇の対峙をメインとしつつ、トリガーダーク=イグニスとの友情を介して闇を単純な悪として断罪することを避け、ケンゴが闇をも抱え込むことで真のトリガーになるという展開を通じて、勧善懲悪では割り切れないからこそ清濁併せ呑む現代らしい在り方を示した『トリガー』という番組。そのクライマックスで、『ティガ』最終回の最もエモーショナルな部分の、その上辺だけを掬って再利用する手付きには、ハッキリと「NO」の一言を掲げたい。市井の人々を描写することなく、トリガーと民衆の関係性をボカしたままでは、人々が光となりてトリガーに力を与える展開に何一つ説得力を与えないのである。積み重ねのない奇跡には何の感動も宿らないということを、よりにもよってティガの精神性を継ぐ番組でやってしまった。
ガゾートの扱いにも疑問を抱くが、何しろこの最終回で「ティガらしさ」をなんとか埋め合わせしようとする作りに半ば唖然としてしまい、TVシリーズ完走後は困惑したものだ。「ティガの神髄を継ぐ」とはティガをトレースすることとイコールではないはずだ。にも関わらず、最も志の低いやり方で原典を踏襲する手付きに、ため息が漏れてしまった。
また、話数の少なさが及ぼした影響として、「GUTS-SELECTメンバーの描きこみが足りない」ことも挙げられるだろう。『ティガ』におけるバリエーション豊かな物語はGUTSメンバーの主役回の充実にも寄与し、各隊員のパーソナリティの描きこみが濃くなると共に、GUTSという組織の家族にも似た連帯感が話数を重ねるごとに深まり、それがそのままティガ=ダイゴのウルトラマンとして闘う理由にも直結するという、テーマそのものを支える柱ともなっていた。
対するGUTS-SELECTだが、物語がケンゴ・アキト・ユナの三人を中心とするあまりに他の隊員の掘り下げがほとんどなく、作戦時の役割だけが浮き彫りになるという「逆GUTS」状態に陥ってしまったのが、致命的だった。
面倒見のいい熱血漢で筋トレ好きの操縦担当テッシン、普段はクールだがファルコン操縦時はテンション高いキャラになるヒマリ。こちらの2名は描写不足のせいでこのような「記号」でしか表現するしかなく、両者共にアニメ的なキャラクター付けが強すぎてとても"対怪獣部隊に所属する社会人”には決して見えない。メトロン星人のマルゥルは科学者・技術者枠をアキトが担っているしわ寄せで、時折怪獣の情報を言う役、以外の収まりが見当たらない。真面目な表情でシリアスな笑いを届けてくれたタツミ隊長も、ケンゴ=トリガーに気づくような素振りを見せたものの、特段それがドラマを盛り上げることが無かった。
GUTS-SELECTの面々は一見すれば個性豊かでありながら、個人の解像度は最終話を経ても一切変化せず、ケンゴやユナが自らを犠牲にしようとすれば怒りを露わにするが、その根底にあるものは友情なのか大人としての責任なのか単なる職業倫理によるものなのか、ハッキリ断言できる動機を見いだせない。味付けの濃いキャラ付けは、彼らの人間としての実在感を奪うだけでなく、GUTS-SELECTという組織に視聴者が愛着を抱く隙間すらも欠かせてしまった。ケンゴがしきりに言う「みんなを笑顔にしたい」という言葉にもイマイチ実感が乗らないのは、この辺りの失敗も大きいと睨んでいる。
『ウルトラマンティガ』を継承する物語を、限られた話数と玩具販促にリンクしたスケジュールで制作する。そこから生じる原典との不和が、話数を重ねるごとにどんどん広がっていき、結果としてティガらしさとニュージェネらしさとの間でどっち付かずに陥ってしまった『トリガー』という作品。そこには、私自身が『ティガ』に感じた魅力のほとんどが欠けていたり、希釈されたりしていた。作り手が子どもたちに届けたい『ティガ』の魅力と私が感じていたそれが、全く異なるものだったからだろうか。ニュージェネという枠に押し込めた際に削ぎ落とされたものに、私が執着しすぎていたからだろうか。こうして、自分が思うティガ像との不一致により、『トリガー』とは付き合い方を上手く定められないまま、最終回を迎えてしまった。
何も悪いところばかりでは無かった。『Z』で坂本監督が披露し今回も採用された、アオリのカメラアングルから始まるワンカットでのアクションシーンはド迫力だったし、辻本監督肝いりの第9話『あの日の翼』におけるガッツウイングの参戦に燃えないファンはいないだろう。ティガ要素の扱いで言えば、第19話『救世主の資格』におけるティガ登場シーンの神々しさたるや、涙が出るくらいだった(もし仮に最終回でティガを出していたら、もっと冷静ではいられなかったと思う。悪い意味で)。
『トリガー』ならではの魅力だって、もちろんあった。「ウルトラマンになれなかった男」としての劣等感から生じるケンゴへの敵視と、ユナへの淡い想いを抱えながらも闘いの中で成長を遂げ、ツンデレ込みでケンゴとのバディを形成していったアキトの成長物語。飄々とした性格のトリックスター的立ち位置ながら、闇を自覚し内包したままヒーローになる、本作のテーマ性を一身に背負った美味しすぎるイグニス。トリガーへの恋慕を公言し、トリガーを奪った(と思い込んでいる)ケンゴに対し激しい憎悪を燃やすカルミラの、感情丸出しの演技の凄み。
よもや、『ティガ』からの引用が薄い、あるいは独自の部分の方が面白い、愛おしいとさえ思える『トリガー』のことを、私は好きなのだろうか、嫌いなのだろうか。もはや自分の気持ちに整理が付かないレベルの毀誉褒貶に自分を追い込む始末。25話まで見守れば愛着も湧くが、それと同じくらいの失望と期待外れがセットになっているのが、私と『トリガー』の関係だった。
ところが、ここで筆を置いてはならないと思ったのが、TVシリーズのその後を描く劇場公開およびTSUBURAYA IMAGINATION独占配信の長編『エピソードZ』を観てから。
これには本当に騙され、驚かされ、感動した。まず、「Z様と共闘するからエピソードZかぁ」などとボンヤリ考えていたが、それは実は隠れ蓑で、本当のZとはザビル=イーヴィルトリガーだったとは、予想外だった。
GUTS-SELECTの新隊長トキオカとして前線に立ち、ケンゴ復活にも貢献した物腰柔らかな青年の正体は、かつてユナと共に地球星警護団として一緒に闘っていた超古代人・ザビル。仲間思いで正義感に溢れる彼は、闇との闘いに疲弊する中、突如トリガーダークが光の巨人に変貌し、闇の巨人を封印させる光景を目の当たりにする。
今まで自分がやってきたことはなんだったのか。トリガーダークがトリガーへと変わりケンゴが生まれたその裏で、「影」に染まっていくザビルの心。光があれば影が生じるように、トリガーがトリガーであるからこそザビルの心は変質し、暗い願望が光を歪んだ形で取り込んでしまう。そこから生まれたイーヴィルトリガーは、その容姿のみならず出自までもティガ44話『影を継ぐもの』におけるイーヴィルティガを再演する。
しかも、イーヴィルティガ=マサキ・ケイゴの場合は、光を取り込んでの自身の進化を目的としていたのに対し、ザビルの目的は「自身の力で光の巨人になること」である。言ってしまえば、「ウルトラマンになりたい」「愛する人や仲間を守りたい」という、ともすればヒーローに最も近い思想を持っった人物でありながら、力を渇望するあまりユナやケンゴを利用し、セレブロという危険な存在を世界に持ち込んでしまう。誰かを守るために闘った者が、力を求め悪しき力に染まりかけてしまうというプロットは、『THE FINAL ODYSSEY』におけるティガダークの悪夢のシーンをも連想させ、ザビルはケンゴ=トリガーの影であると共にティガ=ダイゴのアナザーとしての一面も併せ持つ、「NEW GENERATION TIGA」の名に相応しい再構成が施されたヴィランである。
イーヴィルティガの物語を再演するのなら、当然ケンゴも自分の「光」について、考えを巡らせる展開が待っている。人が影に染まったイーヴィルトリガーに対し、ケンゴはそもそもトリガー(光)が人間の形をして、顕現するものである。ここで大事なのは、本作のキャッチコピーが「影を継ぐもの、光を繋ぐもの」になっていること。
マナカ・ケンゴとしてこの世に生を受け、人として生きてきたこと。彼はスパークレンスを介してトリガーに"還り”、闘う中でGUTS-SELECTに、イグニスや闇の巨人に出会った。そして今、彼が紡いできた絆が、その実を結ぼうとしている。誰かを笑顔にしたいと願ったケンゴを、GUTS-SELECTの仲間は必死の想いで救う。かつて「ウルトラマンになれなかった男」だったアキトが体を張ってスパークレンスを掴み、ユナはエタニティコアへと赴き、GUTS-SELECTはナースデッセイが失われても闘うことを止めなかった。そう、ウルトラマンは一人で闘っているわけではなかった。
「一人きりじゃ 届かない」からこそ、手を伸ばす。ケンゴが歩んできたこれまでの交わりの中で「光」は伝播して、ウルトラマンの力になる。なぜトリガーは人の形でマナカ・ケンゴを生み出したのか。その答えは、光とは人と人との「繋がり」の中で育まれるものだからだ。"人であり、光である”とはダイゴもケンゴも共通するところだが、光→人の順を経たケンゴが人として紡いだ絆によって救われることで、TVシリーズに残された謎に回答するのみならず、『ティガ』と『トリガー』とを同じメッセージで結ぶところまで到達したのである。「だから、僕は人間として生まれた!ウルトラマンになれるだけの、ただの人間なんだ!!」
人間がウルトラマンとなって闘う意義を問うた『ティガ』は、絆を拠り所として、人々から光を受け取った。そして今、ウルトラマンが人の形をした『トリガー』が、人である意義を「絆を結び、光を繋ぐため」と定義した。この瞬間、初めてトリガーは真の意味で『NEW GENERATION TIGA』になったと思う。原典の再構築とリスペクトを忘れず、そのメッセージを今の子どもたちに繋いでいくこと。それら全てを成し遂げた本作は、『ティガ』の真髄を受け継ぐ「本当に観たかったトリガー」の姿をしていた。そのことが何よりも、嬉しかった。
『ティガ』を直近で浴び、その高い完成度のあまり彼を神格化してしまったからこそ、『トリガー』とは上手く付き合えないでいた。ときには、本気でガッカリもした。何なら、怒ってもいた。だからこそ、最後に一瞬だけ、トリガーとティガの光が重なる瞬間が、嬉しかった。
『トリガー』は確かに不器用だったし、決して完成度が高いとは胸を張って言えない部分も多い。とはいえ、特撮もドラマも熱量の高い現場だったのだろうとは本編から伝わってくるし、『ティガ』の衝撃を再現する、というハードルの高すぎるお題に真正面から取り組み、赤点だらけでも最後に満点取りました!みたいなところが今ではとてつもなく愛おしいと感じる。観て良かったし、来年は『トリガー&デッカー』なんて映画が公開されたら、きっとスマイル全開で映画館に向かうだろう。
そう、それこそ今、副題こそ添えられていないが「NEW GENERATION DYNA」とも呼ぶべき『デッカー』が放送中である。こちらは未履修だが、ニュージェネ×光の巨人とも言うべき一連のシリーズに期待を抱けるようになったのは、先陣を切った『トリガー』の功績あってこそだ。
まだ希望の光は心の中で灯っている。その暖かい光が途切れぬことを祈りつつ、次は『ダイナ』に会いに行こうと思う。トリガー=ケンゴに再び会える日を、心待ちにしながら。
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