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後の祭り。『セプテンバー5』

 1972年9月5日早朝、ミュンヘンオリンピックの選手村にて、銃声が鳴り響いた。パレスチナ武装組織「黒い九月」が、イスラエル選手団を人質として立てこもり事件を起こしたのだ。競技の生中継のため現場近くにいたABCテレビのスポーツ局は、事件現場の生中継を敢行する。テロリストの要求とは、人質は無事解放されるのか。全世界が固唾を飲んで見守る中、世界初のテロリズム生中継が始まった。

 平和の祭典であるオリンピックを脅かすテロリズム。その最前線に居合わせたテレビクルーが、戦慄の一日を報道する。放送スタジオの様子は慌ただしく、事件現場を複数のアングルから捉えたカメラを切り替え、無線や電話から流れてくる情報を統合しながらキャスターに指示を出す。他の局には不可能な「生中継」という唯一無二にして千載一遇のチャンスが降ってきたテレビクルーは、何としても世紀の生放送を成功させたい。一瞬たりとも止まることの許されない当時の緊張感を、撮影・編集・美術が合わさって構成し、観る側の心拍を急かしていく。

 そんな忙しない状況においては、どうしても見落とされてしまうものがある。それは「倫理」であったり、「真実」であったりと、観た人の頭の中ではそうした言葉が並ぶであろう。誰もが通信機器やカメラを持ち歩くことが当たり前ではなかった時代の、情報の「精度」とはどのように保証されるのか。無線から流れてきた言葉は、翻訳された声明は、正しく伝わっているのだろうか。手元にある情報と映像を繋ぎ合わせることで生まれたものは、「編集」されたストーリーに過ぎないのではないか。そうした思いつきが頭を巡っても、しかし刻一刻と変わる状況が、熟考する暇を与えない。その果てにあるのは凄惨な史実という、どうにも覆すことのできないものであった。

 本作を観終えた時、感想をまとめるのに手間取ってしまった。その理由を考えていて思いついたのは、映画の中に勝者が一人もいないから、という気づきである。

 史実がそうなのだから、ということもあるだろう。同胞の解放を求めたテロリスト側の要求は受け入れられず、事件は最悪の結末を迎えてしまう。オリンピックが担う平和の象徴を汚されたという意味では、ドイツとその国民が受けたショックは計り知れないだろう。そして映画の主人公たちである中継グループの面々は、激動の一日を終えた時に残るのは途方もない虚無であったことは、ジョン・マガロの横顔を映すラストカットが示している。あまりに惨たらしい結末の前に、報道は何も出来なかった。いや、むしろ、という自責の念が、あの日あの場にいた全員に共有される。勝利の美酒の味は、一瞬の内に消え去ってしまった。

 ラストのテロップによれば、この生中継を全世界9億人の人々が見守っていたという。当時のテレビクルーの必死の仕事は、世界に絶望を撒き散らしたに過ぎないのかもしれない。本作から伝わってくるのは、報道倫理に対する警鐘や理不尽な暴力に対する怒りではなく、圧倒的な「虚しさ」に尽きる。では、どうすればよかったと言うのだ。その答えは、今の私には導き出せない。

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