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生きることは“殺す”こと。『仮面ライダーアマゾンズ』
2017年12月、映画『仮面ライダー 平成ジェネレーションズFINAL』の素晴らしさに滂沱の涙を流し、エンドロールを見届け席を立とうとしたその時、スクリーンにある短い映像が投影された。「映画化決定 仮面ライダーアマゾンズ 完結編」の特報。
この一報に驚いたのはおそらく中高生以上のライダーファンであり、劇場は少年少女の「アマゾンズってなに?」「ビルドは出ないの?」という声で溢れかえっていた。事情を知る大人の皆々様にとって、さぞ気まずい瞬間だったに違いない。いたいけな年頃の我が子を劇場に連れて行くわけにはいかない、そんな作品の映画化なのだから。
『仮面ライダーアマゾンズ』は2016年4月よりAmazonプライムビデオにて独占配信された特撮ドラマシリーズ。仮面ライダー初期の異端児『アマゾン』を原典としたオリジナルストーリーで、隔週全13話に渡り配信された。
本作の製作発表には、当時大変驚かされた。仮面ライダーと言えば日曜朝の文化として根付いているところに、あえての配信専用タイトルでの殴り込み。特報映像やキャスト陣の発言から「大人向け」であることが何度も強調され、返り血を浴びながら敵怪人を倒す新しいアマゾンの姿に唖然とし、トドメは東映の名物プロデューサー・白倉伸一郎氏による現行の平成ライダーへの過激な発言。子どもをターゲットとした地上波の番組に対するカウンターとしての『アマゾンズ』の挑戦的なコンセプトに、心が躍ったことを今でも思い出せる。
かくして配信された『アマゾンズ』は、その実、初期平成ライダーの作風を彷彿とさせるもので、いわば地上波規制から解き放たれた“無修正版”というのが個人的な所感である。
本作におけるライダー・怪人双方の総称である「アマゾン」については、『クウガ』のグロンギにおける殺人の残忍性と卑近に潜む恐怖感、異形の怪人のドラマを描いた『555』『剣』のエッセンスを受け継ぎつつ、そこに食人の設定を加えたものがその実態だ。映像の色調も彩度が抑えられたダークな印象で、赤黒い血の“ドロッ”とした感触をストレートに観る者に訴えかける。人体欠損や死体の描写も多く、映像・物語面において“日曜朝にできないこと”を可能な限り詰め込んだ仮面ライダーをやろう、という作り手の意図は、第1話の時点で敏感に感じ取ることができる。前述の白倉プロデューサーを筆頭に、メイン監督・石田秀範、脚本・小林靖子と、シリーズファンならおなじみの顔ぶれが揃うも、だからこそ平時の平成ライダー作品群との差異を意識させられてしまう。
そんな『アマゾンズ』最大の魅力は、やはりハードで陰鬱なストーリー展開である。人間に擬態し社会に潜伏する実験生命体アマゾンと、それらを産みだした巨大企業「野座間製薬」による秘密裏の駆除作戦。それを実行する“駆除班”の前に現れた、アマゾンを倒す二体のアマゾン。
本作は二人のライダー、アマゾンオメガ/水澤悠とアマゾンアルファ/鷹山仁の衝突を中心として、アマゾン討伐を任務とする駆除班の活躍とアマゾン誕生に隠された巨大企業の暗躍が並行して語られていく。家から出ることを許されず、自らの部屋を“水槽”に例える悠は、あるきっかけからアマゾンとして覚醒。その好戦的な本能に導かれ、時には抗いながらも、駆除班の一員として闘うことを決意する。
一方の鷹山仁は、アマゾン根絶のため闘うことを己に科した男。その目的のため悠を助け生きる術を与えるも、その駆除対象は悠も対象外ではなく、アマゾンに対して並々ならぬ執着を見せる謎の人物。
アマゾンの駆除という共通の目的を抱く悠と仁だったが、アマゾンでありながら駆除班の一員である青年マモル、食人本能に抗い生きようとした未覚醒のアマゾンたちと出会うことで悠に変化が生じ、その創造主でありながら身勝手な駆除を行う人間に対して怒りを募らせていく。人間とアマゾンの境界線上で彷徨う悠は、いかなる決断を下すのか。自らの命を省みずアマゾン駆逐のため闘う仁の隠された過去とは何か。二人の主義・思想の対立から生じる争いは、やがて「人間」と「アマゾン」二つの種族の生存を占う大きなドラマへと発展してゆく。
※以下、本作のネタバレを含む。
その対立軸の中でも興味深いのが、捕食する者・される者の転換である。もし人間が食物連鎖の頂点でなくなったら?という思考実験は幾度となく繰り返されてきたし、脚本の小林靖子女史がアニメ版のシリーズ構成を手掛けた『進撃の巨人』序盤の恐怖に近いものを感じる。他の生き物を殺し、喰らうことで生を維持してきた人類が、その上位種によって“喰われる側”に突如変貌してしまう恐ろしさ。または、その理不尽さに対して異議を唱える権利は最初から与えられていないという現実。強い者が弱き者を喰らう、そんな自然の摂理から逃れられないことを、壁の外から巨人が現れて初めて悟るのだ。
もちろん、被捕食側になることを恐れるのは人間として当然の心理であり、どんな残酷な方法であれアマゾンを駆除しようとするその姿勢に、共感してしまうことは責められない。しかし、アマゾンとて生命体であるのなら、人を喰らう行為の根底にあるのは「生きたい」という本能に従った結果でしかない。その純粋な願いを、ただ一方的に拒絶する権利が、果たして人間に許されるのであろうか。それこそ、『アマゾンズ』が描き出した我々人間が持つ傲慢さ、驕りの象徴のように感じられる。
クライマックス、自らをアマゾンと規定し、大規模駆除作戦「トラロック」を生き延びたアマゾンたちを率いて人類の元から去った悠は、目覚めた食人欲求に苦悩するマモルに対して「アマゾンが生きてちゃいけない理由なんて分かんない!!」と叫び、生きるための捕食を許容してみせた。ネット配信でしか描きようもないこの結論は、彼が人間とアマゾン双方の倫理を持ち合わせた唯一の存在であるからこそ導かれたもので、その是非を争う役割が悠と仁に託されている。人として生きようとする未覚醒のアマゾンを守り、人を辞めたアマゾンを狩る生き方を選んだ悠。言い方を変えれば守る対象を“選り好み”する生殺与奪の思想を批判し、自分を含めた全てのアマゾンを殺すことを固持し続ける仁。
意見をたがう悠とマモルをパシャり📸人とアマゾン、両者の間にある溝は、もう元には戻らないのか?!明後日5/19(金)配信開始の#7「THE THIRD DEGREE」、物語もいよいよ「第3段階」なんだぞん!!#アマゾンズ pic.twitter.com/Juiqj8KPrs
— 仮面ライダーアマゾンズ (@rider_amazons) May 17, 2017
生きるために他の種の命を喰らうこと。それは全ての生命が生まれた瞬間から持ち合わせた、生存のためのシステムである。この場において、相手を悪と断じる正邪二元論で問いただすことに意味はなく、もはや「生きたい」という意思のぶつかり合いでしかない。思想で解決できないのなら、闘うしかない。
そしてその対立の勝者をあえて描かなかったところに、人間社会の倫理を飛び越えた、神の視点を感じ取ることができる。生命としてどちらが正しいか、他の種の生存のために自らが犠牲になること、その是非を裁く権利が人類にはないことを、本作は示して見せた。多様化する正義の対立を描き続けた平成ライダーの土壌から生まれた、最もショッキングかつ普遍的な“生”の在り方を描いた意欲作『アマゾンズ』は、命のやり取りの壮絶さを観る者の心に植えつけて、一旦はその幕を閉じた。
続いて2017年に配信されたシーズン2では、「生きたい」という願いが引き起こした新たなアマゾン事件を描いている。
シーズン1より5年、人に感染しアマゾン化させる「溶原性細胞」が確認され、新たに生まれたアマゾンと政府・野座間製薬の共同出資による新組織「4C」の闘いが密かに行われていた。一方で、かつて4Cから脱走した青年・千翼(ちひろ)もアマゾンネオとしてアマゾン狩りを続けていた。そんな中、千翼は4Cの隊員の少女・イユに「初めて食べたいと思わなかった人間」として惹かれていくも、イユはアマゾンと化した父親に殺された後に蘇生された、死体アマゾンであった。イユを人間として扱わせるため4Cに復帰した千翼だが、溶原性細胞の身元が自分であることが発覚する。時を同じくして、溶原性細胞による人間のアマゾン化を食い止めるため駆除班は再結集し、悠と仁も千翼を追うようになっていく。
このシーズン2は、イユとの交流を経た千翼の「生きたい」という願いの芽生えと、それが許されない人間社会の現実を交互に描く、ほとんど救いのない陰惨な物語だ。アマゾンを狩ることしか生きる術を与えられなかった不憫な少年が、食物としてではなく「人間」として関わりを持ちたいと願った「死体」との逃避行。イユの存在が千翼の生きる理由になっていくように、イユにとっても千翼の存在が人間性を取り戻すトリガーとなっていく。心と身体の痛みを共有したとき、それは世界を生きるための「救い」に変わる。
しかし人類には、そんな生き方を許容する余裕など持ち合わせていなかった。被創造物が創造主の制御を逸脱した時、決まってその対処方法は「排除」である。溶原性細胞の感染源と成り得る千翼と、戦闘兵器として使い者にならなくなったイユは、あまりに非情な手段で命を脅かされる。また、その目的は違えど、同じアマゾンの悠と仁にも命を狙われることになり、千翼は誰からの庇護を得られぬまま闘い続けていくしかなかった。
それでも、千翼の「生きたい」という意思は変わることはなかった。その発露として用意されたのが、おそらく最初で最後になるであろう、主人公(ライダー)による人間の大殺戮シーンだ。地上波放送はもちろん、全てのヒーロー番組における最大のタブーを犯し描かれた地獄絵図には、創造主に否定され生きることを許されなかった被創造物の、悲哀という言葉では足りないほどの怒りと苦しみが描かれている。
されとて、それも我々人類が生き残るために行ってきた行為と、何ら変わりないことも事実である。前シーズンがテーマとした「喰らう」という行為には、自らが生きるために他の命を奪うことが前提として存在している。自分たちの「生きたい」のために、他の生命の「生きたい」を犠牲にし続けている。そのため、生きるために人を殺したアマゾンたち、そして千翼と、アマゾンたちを殺し続けてきた人間たち。その行いは生命の歴史の繰り返しであり、上記のシーンはその営みのグロテスクな一面を抜き出して描いたに過ぎない。千翼やイユに同情や憐れみを抱くこと、彼らに銃を向けた登場人物を批判する権利を、我々は持ちえていないのである。
シーズン2の主題歌「DIE SET DOWN」には、こんな歌詞が含まれている。
この世に生まれたことが 消えない罪と言うなら
生きることがそう 背負いし罰だろう
生きるために他の動植物を喰らうこと、それは法律や倫理で明文化されるまでもなく、当たり前の行為である。ただしそれは、その裏で犠牲になった命が確かに存在することも否定できない事実である。『アマゾンズ』シーズン2はまたしても、人間が生きるだけで背負うことになる“業”をあぶり出し、観る者に突き付けた。その鮮烈さを「仮面ライダー」という枠で描き切ったこと、その点に恐怖すら感じるほどに、衝撃的な物語を紡いだのだった。
イユを抱きしめる千翼をパシャり📸 千翼とイユの悲痛な想いは、だれかに届くぞんか!?登場人物一人一人がそれぞれの想いを胸に、最後の“狩り”へと突き進むぞん♪ #アマゾンズ pic.twitter.com/muWAvmhcOi
— 仮面ライダーアマゾンズ (@rider_amazons) June 29, 2017
人間対他種の、終わらない闘いを描いた『アマゾンズ』は、18年春の劇場版で完結を迎える。現在(18年1月8日)、あらすじもキャストも未公表の映画版では、どのような対立が描かれ、そして「生きること」についてまた考えさせられるのだろうか。あるいは、映像配信の規定を超えるショッキングな描写が用意され、劇場が阿鼻叫喚となるのか。期待と不安に苛まれながら、ただ飢えた獣のように公開日を待つしかないのだった。
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