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読書感想文『遠まわりする雛』

 『古典部シリーズ』四作目は、彼らの一年間の歩みの中の「変化」と「変えられないもの」を見つめる、そんな短編集である。

※以下、本著のネタバレを含む。

 春夏秋冬、古典部への入部から文化祭までの慌ただしい日々を真ん中に据え、その間の、あるいはその先の季節の物語が収められた短編集。どのお話にも解くべき小さな謎があり、愛すべき(この言葉が自然と頭に浮かぶようになってしまった)古典部の面々が頭を悩ませて、人の死なないミステリーが紐解かれてゆく。しかし重要なのは、彼らの人間関係の変遷、個人の価値観の変化にあると思う。

 どれを切り取って語るかは非常に悩ましいけれど、大きな流れとして二篇を挙げるとしたら、まずはやはり『手作りチョコレート事件』だろうか。摩耶花が里志に渡すはずだったバレンタインチョコの盗難事件。盗まれた責任を感じるえると、失意の内に部室を去っていく摩耶花。奉太郎は下手人を突き止めるに至るが、その真相は彼にとっても墓まで持って行く秘密の一つになってしまう。

 以前『クドリャフカの順番』の感想にて、里志が摩耶花の告白を受けない理由について自分なりに考えてみたのだけれど、勘所を若干外していたような気がする。

 なるほどそれを踏まえると、里志が摩耶花の告白をやんわりかわし続けていることも納得がいく。摩耶花は、同人誌即売会に出店する経歴があるほどには、自作で漫画を描き続けてきている。自分で何かを創作することが出来るというのは、出来ない人間にとってはそれだけで羨望の対象たり得る(ソースはこの私)。里志にとっては摩耶花も、自分にしか創造しえない領域を持ち、完成に導ける技術がある。そんな彼女に並び立つ資格がないと、里志は一線を引いたまま接しているのだろう。

読書感想文『クドリャフカの順番』

 里志が抱えているのは、自分では何も産み出せず、奉太郎のように特別な資質を持っているわけではないことへの劣等感だと考えていた。そこに付け足すとすれば、「勝つことにこだわりたいけれど勝てないから、一番になることを最初から諦める」という文言になる。何においても一番に、専門家にはなれないという諦観から、広く浅くをモットーに色んな知識を吸収し、自分を主人公ではなく“データベース”であると自嘲する。奉太郎というホームズに並び立つワトスンは自分ではないと思うことで、傷つくことを意識的に避けていたのであろう。

 その自意識は勢い余って、摩耶花からの想いを受け取る自信を喪失させてしまう。彼の、長きに渡る独白を青臭いなどと揶揄するのは簡単だが、当人にとっては切実なもので、福部里志という人を聡明な若人だと思っていた自分にとっても、この情けない姿は衝撃的であった。奉太郎は、彼に胸の内を開示させてしまったことに狼狽え、親友といっていい彼の気づかなかった一面を知る。それでもなお、里志に思いを寄せる摩耶花の根性というか、真っ直ぐさは眩しい。前作に続いて、彼女の株は上がる一方だ。

俺はやつに言うべきだろうか。「すまん、俺は福部里志のことを何も知らなかった」と。

文庫版,p343

 もう一つこの短編で注目すべきは、珍しく怒りを露わにする奉太郎の姿だ。彼は当初、えると摩耶花を代理して里志を殴ることも厭わないといった風であったが、チョコを巡るあれこれが里志と摩耶花とで通じ合っていたことを知るとなお、事情を知らないえるを巻き込み、責任を感じてしまったことへの怒りを唱えた。彼の中で、千反田えるはもはや“省エネ”の対象ではなくなっている証拠である。

 いや、本著最初の短編『やるべきことなら手短に』の時点(古典部に入部してから約2週間ほど)で、すでにえるのことを一目置いている節がある。彼女の猪突猛進な好奇心の特性を知り、回避できないと知るやいなや、飼いならす方に思考を転じる。自分の生きる指針を揺るがす存在として、千反田えるの存在はこの時からすでに奉太郎の人生を(いい意味で)脅かす存在であった。実際この出会いと『氷菓』事件を皮切りに、いくつもの事件を解決して他者と触れ合う中で、奉太郎は歴史に葬られるはずだった人の想いを悟り、知りたいという気持ちが芽生えてきた。その変化を促したのは、一番はえるであることに異論はないはずだ。

 しかしその日、神山市の水梨神社の境内で、春のある日、午前十一時四十五分前後、十二単を着て歩く千反田を見たとき。
 なぜ自分が「しまった」と思ったのか、どうも、うまい言葉が出てこなかった。

文庫版,p388

 生き雛祭りに手伝いで参加することになった奉太郎。十二単を着て、化粧をしたえるを見て、かくも動揺する思考がいじらしい。元より言語化に優れ、年齢不相応な機転とユーモアに溢れる彼が、学校での姿とがまるで違う同級生の姿に、この慌てようだ。ニヤニヤせずに読めようか。

 しかし、えると二人きりになっての会話で、奉太郎は再び“何も知らなかった”ことを悟る。文理選択、間近に迫った自身の将来を見据えた選択を迫られた時、えるの判断基準はどうすれば地元に貢献できるか、という尺度であった。

 「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々もだんだん老い疲れてきています。山々は生前と植林されていますが、商品価値としてはどうでしょう?わたしはここを最高に美しいとは思いません。可能性に満ちているとも思っていません。でも……」
 腕を下ろし、ついでに目を伏せて、千反田は呟いた。
 「折木さんに、紹介したかったんです」

文庫版,p406-407

 千反田えるには能力がある。持てる学力と勤勉さと、その好奇心を保ち続けさえすれば、彼女はどこでも通用するはずだ。だが、彼女には守るべき世間体と家の名前がある。親や周囲から向けられた期待がある。“豪農千反田家”の重みが、彼女に羽ばたくことを許さない。そういえば、今回彼女が重責を果たしたのは「生き雛祭り」という。飛べない、何たる皮肉だろうか。

 恐らく両親に打ち明けたこともないであろう、えるの今の認識と、これからの展望。ほわほわしたお嬢様のような彼女にも、守るべきものがある。それに対し奉太郎は、上手く言葉を紡げない。里志がバレンタインチョコを割るに至った心境を、この時我が身をもって体感するのだ。覚悟が、どうしても定まらない。10代の若者であれば当然だろうけれど、それにしたって千反田えるのそれは重すぎる。それに並び立とうなどと、容易く口に出せようか。

 クライマックスの会話の、少しズレた応酬が切ない。えるにとっても奉太郎は、バレンタインの何気ない会話を汲み取れば大切な他者であることは言うまでもない。そんな彼にえるは本心を語り、春=次の季節に向かう心づもりをしている。一方の奉太郎は、未だ冬の寒さに囚われている。歩幅が、すでに噛み合っていないのだ。

 どちらが合わせるか、あるいは合わないまま崩壊するのか。その余韻をぶった切るようにあとがきへと移り、古典部の最初の一年が終わるのである。これからは第二章、それぞれが少しずつ変化と向き合わなければならない季節がやってくる。部活、青春をテーマとした作品であれば、いつかは終わりが訪れる。あぁ、愛しの古典部ともずっと一緒にはいられないのだと、私の心にも凍えるような隙間風が届いてきた。

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