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映画を作るって大変だ。『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』

 本作を観るにあたり、そもそもあの『ジョーカー』に続編があっていいのか!?という懸念を抱きながら、映画館に向かった。製作が発表された時も、レディー・ガガが出演すると聞いた時も、予告編が解禁された時も、ずっとその思いが頭から離れなかった。あの続きが描かれること、何が現実で何が妄想なのかを紐解かれることが、果たして必要なのかと。

 鑑賞後、少なくとも私にとっては、この続編は必要なかった。でも、この作品を必要としている人が、世界には無数にいるのだろうな、とも思った。長いこと生きてきて、こんな感想に巡り合ったのは初めてだ。

※以下、本作のネタバレが含まれる。

 私にとって必要がないと思った理由を開示すると、本作『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』は5年前の前作の正当続編で、時系列もその後であるのに、描いているテーマは全く同じなのでは、という着地に至ったからである。

 アーサー・フレックの物語は我々のよく知る“あの”ジョーカーとは繋がらないこと。彼はバットマンの永遠の好敵手たりうる悪のカリスマではない、ただの一人の男であるということ。善悪や現実と妄想の境目もすべて「主観」によるものでしかないこと。前作で描かれ、観客の心を著しくかき乱したこれらの要素は、本作『フォリ・ア・ドゥ』でもミュージカルやアニメーションといった形で再演される。

 冒頭、ホアキン・フェニックスが極限まで痩せた肉体で体現したように、アーサー・フレックは心も身体も衰弱した、弱い人間としてむき出しに晒される。かつて、革命のアイコンとして喝采を浴びたジョーカーと同一人物であることが信じられないくらいに、本作は彼の弱者性にフォーカスする。アーカムの薄汚い独房で暮らし、ジョークをせがまれても頑なに返さず、看守から笑いものにされつづける現実。これは、自らのジョークで笑わせようとして失敗し、一方で彼の挙動不審な振る舞いが他者から嘲笑される、一作目のアーサーの姿を思い出させる。

 そんなアーサーの人生に訪れた一筋の光がレディー・ガガ演じるリーなのだけれど、彼女もまた「ジョーカー」に心酔した狂信者の一人でしかなく、アーサー・フレックという一人の人間と、真に向き合ってくれる存在ではなかった。誰もアーサーを省みない、というのは彼個人の切実な怒りと悲しさであり、その規模が福祉の断絶というレベルまで到達したことがアーサーに引き金を引かせた要因の一つなのだけれど、今作においてもそれは変わることはなかった。誰も、アーサーの物語には振り向かない。"ジョーカーの続編”を期待して映画館に向かった我々も、共犯者であるかのように。

 誰もアーサー・フレックの心に(ゲイリーを除いて)向き合おうとしない。弁護士はジョーカーをもう一つの人格であるかのように振る舞えとアーサーに指示し、検察側は彼の責任能力を追求する。誰もが「ジョーカー」の存在を定義し、理屈を欲している。彼は社会の不寛容が生んだ犠牲者か、持たざる者たちの旗頭か。そんな議論が空中戦を描くにつれ、当のアーサー自身が折れてしまう。

 アーサーは、弁護士を解任してまで望んだ自身の最終弁論を棄却する。彼は、「ジョーカー」という象徴を降りて、自らの罪を認める。これで、アーサーはジョーカーから解放されるはずだった。ところが、世界はそれを許さない。法廷を爆破した“何者か”によって、アーサー=ジョーカーの図は狂信者たちにより強化されていく。

 逃走の果て、唯一の拠り所にしていたリーでさえも、ジョーカーではなくなった自分の元から去っていく。クライマックス、ただの男になったアーサーは、その“報い”として名もなき囚人に刺され、命を落とす。映画は、アーサー・フレックの死の表情を映し続ける。半ば強制的に、一人の男の無惨な死と、向き合わされる。

 アーサー・フレックは、コミックの世界を彩るヴィランにはなれなかった。ただ一人の、悲しい背景を持つ、人殺しに過ぎなかった。ジョーカーとはただの「偶像」に過ぎないことを(しかし一作目でも描かれていたことでもある)、138分かけて繰り返し強調し、アーサーの死をもってその夢から覚まさせる。ノック ノック。

 最初は、ここまで丁寧にやる必要があるのか、とさえ思った。一本の続編映画を撮ってまで、前作の用法用量を正しく説明してあげる必要があるのか、と。だが、インターネットを通じて世界を覗いてみれば、こうする必要があったのだ、とも思ってしまう。ヒース・レジャーが演じた“彼”に共感して、銃を乱射した男が出てきたり、前作の読み解きを介して他者を攻撃する輩が、残念ながら無数にいる世界なのだから。

 映画とは、娯楽であり、エンターテイメントだ。フィルムの中では、倫理的に許されない光景を喜んだり、悪人や犯罪者に感情移入させられたりすることもある。映画とは、自由であるはずだ。

 一方で、自らが撮った映画の熱狂に対し、それを落ち着かせるような続きを撮らねばならない、という状況が訪れることもあるらしい。映画を作るというのは、大変だ。虚構を虚構として受け止められない人々のために、デトックスを自分たちで行わなければならないからだ。『What The World Needs Now Is Love』の歌詞が、観る人の心を救うはずだという、そんな期待を添えて。

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