“共に生きる”ために、傷ついていく。『仮面ライダーゼロワン』
先日の『仮面ライダーウィザード』に関する記事を投稿する際にかこつけて流してみたこちらの質問に対し、最も名前が多く挙がった作品が、『ゼロワン』だった。
平成という一国家の元号を私物化し、あまつさえそれを総括せんとする異常なうねりを見せつけた『ジオウ』の後番組として、令和ライダー第1号という華々しいスタートジャンプを決めた『ゼロワン』。この作品については私も過去2つのnoteを書かせてもらっているが、要約すれば「最初こそ手を叩いて喜んでいたが、AIBOでリタイアして、劇場版が面白かった思い出だけが残る」という状態になっている。
思い返せば私は、「令和ライダー」というものに対し、TVシリーズだけでも満足に完走できたものが一作もない状態だ。当時は様々な事情があったとはいえ、これでは大手を振ってライダーファンを名乗ることも憚られる。そんな空白を、いや、罪悪感を埋めるために、意を決して『ゼロワン』の1話を再生した。
これは、だれに頼まれたわけでも、強制されたわけでもない。私による私のための、ただのリベンジだ。
令和の新時代を彩るニューヒーローことゼロワン。題材に選んだのは、AI。放送終了から数年経った今、我々は当時よりも簡単にそれにアクセスでき、困りごとがあればAIと対話することも選択肢の一つとして選べるような時代に来てしまった。
時代を先取りした印象を受ける『ゼロワン』を設計したのは、『エグゼイド』の大森敬仁P×メイン脚本・高橋悠也コンビの再登板で、メイン監督は『ルパパト』の杉原輝昭監督。先の質問における1話の人気度に大きく寄与しているのは、主題歌が流れる一連のアクションシーンであることも、今回再確認した。
お笑い芸人として人々を笑顔にすることを夢見る青年・飛電或人は、急逝した祖父の意向により、AI搭載型人型ロボット「ヒューマギア」を開発・販売する飛電インテリジェンスの社長に任命され、或人は代表取締役社長として、そしてヒューマギアを暴走させる謎のテロリスト「滅亡迅雷.net」と闘う戦士ゼロワンとなる……というかなりの急展開から幕を開ける本作。その序盤は、或人が業務という形で様々な顧客=ヒューマギアのオーナーの元を訪れることで、AIと人間の共存に向けた様々な可能性を提示していく。
ヒューマギアに搭載されたAIは、データを読み込むことはもちろん、他者の行動や仕草を観察して、「学習」することで仕事や技術の精度を高めることが可能だ。寿司職人の秘伝の握り方も、漫画の描き方も、複数の声色で多くのキャラクターに声を吹き込むことも、学習さえすれば苦も無くそれを実行できてしまう。
その一点を見れば、ヒューマギアはまさしく夢のマシーンと言える。以前、取引先の方が「自分の言うことを聞いてくれるのはルンバだけ」と自嘲していたけれど、ヒューマギアが取り扱える業務はルンバの比ではない。彼らは人間にしか出来ないとされていた作業を代わりに行い、疲労することもなければ不平不満を言うこともない。雇用主の視点からすれば、これほど理想的な従業員はいないだろう。
先の例で言えば、寿司職人の回では「人間には耐えられなかった職人の“しごき”にも耐えうる」こと、漫画の回なら「背景をAIに一任し人間の漫画家は新しいアイデアの創造に集中できる」ことを、声優の回ならば「亡くなった大切な人との疑似的な会話」によって、ヒューマギアが人々の生活をサポートしていくポジティブな未来予想図が描かれる。
と同時に、それは多くの危険性を孕んでいることも、また事実。ヒューマギアが人間の代替としての色が強くなればなるほど、人々は仕事を奪われる恐怖にかられていく。あるいは、部活動の指導を担当するヒューマギアが部員の熱意を重視するあまり、教員の働き方改革という本来の導入意図にそぐわない行動に出る、という弊害も描かれた。既存の人間社会の規範では、ヒューマギアを規制する法も、どのように取り扱うかの規範も、まだまだ追いついていない。
さらにそこに、ヒューマギアの心や自我の芽生えとして「シンギュラリティ」の要素が重なっていく。AIに自我が目覚め、彼らがしたいこと/したくないことを声高に叫んだ時、我々はどのように対処すべきなのだろうか。人間には到底不可能な危険な作業や、労働基準法に違反する働き方をさせてもよいのか、といった倫理的な問いが発生しうるのである。
その問題に切り込んだのが、冬映画の『令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』であった。作中に登場するヒューマギアのウィルは、「労働の対価」に対する純粋な疑問を口にする。それに対する人間の回答は、彼にとって不十分であり、レゾンデートルに関する重大なエラーを発生させる。自我を押し殺して人間に仕えることが、自分たちの存在意義なのか。実に重たい、現実でも答えの出ない問いを、本作は自覚的に背負い、時に視聴者に突き付けてくる。
そうしたSF的難題に対し、本作は「夢」というキーワードを提示する。或人は実直にヒューマギアの可能性を信じ、それが人の支えになると同時に、人間とヒューマギアが並び立って夢を見て、追いかけることができると信じている。ヒューマギアはその姿を見て、人間と一緒に夢を見たいという「願い」に到達する。人間とAIの共存の形として、この映画では一足先に理想のゴールを提示し、TV本編に先行して一つの決着をつけている。そんなことを公開から数年越しに気づかされた。
滅亡迅雷.netの一時的な撲滅に際し、物語は賛否両論を巻き起こした「お仕事五番勝負編」に流れていく。
ZAIAエンタープライズジャパンの代表取締役社長・天津垓は、飛電の買収を宣言。そのための足がかりと、ZAIA製品の有用性のアピールのために提案された五番勝負だが、浮き彫りになっていくのは、人間の醜さであった。ヒューマギアに対する排他的・差別的な意識を持つ人間たちによる、ヒューマギアへの暴力。命を持たない機械に対する、責任を伴わない非人道的な扱いは、観る者のフラストレーションを堆積させていく。
ZAIA側の代表者がレイダーとなって妨害や不正を行い、一方でヒューマギアは滅亡迅雷.netの介在なくとも暴走し人を襲う。前者はテクノロジーを使う人間の幼稚さや至らなさを、後者はヒューマギアへの信頼性を疑わせ、勝負の公平性が担保されないまま話数を消費し、ヒューマギアの可能性を無邪気に信じる或人に、こちらの心が寄り添いきれなくなる。
滅亡迅雷.netとの最終決戦にて或人は、ヒューマギアに与えられたものが善であれ悪であれ、それを学習し習得する純粋さを説いた。であるのなら、ヒューマギアをどう活かすかは、使う人間次第。ところが、その人間の心は簡単に悪に染まり、自己の利益や保身のためなら平気で機械を足蹴にしていく。その最たる象徴がサウザーこと天津垓で、彼は自社のイメージアップを最優先するあまりに数々の不正を働き、さらには「アークに人間の悪意を吹き込んだ元凶」「不破や刃に対する脳内チップを用いた支配・洗脳」等々が明らかになり、視聴者のヘイトを買い集めていく。
五番勝負の勝敗を踏まえ、飛電はZAIAに買収されてしまうが、或人はイズの機転により「飛電製作所」の社長に就任し、ゼロワンへの変身権限を取り戻す。と同時に、或人は人々から放棄されてゆくヒューマギアを守り、同時にヒューマギアを求める人々の想いに応えるため、懸命に働き始める。
不破諫はヒューマギアへの憎しみが偽の記憶によって植え付けられたものであると知り、それでも彼は「仮面ライダー」として、自身の夢のために闘うと誓い、刃唯阿を垓の支配から救うために行動する。刃唯阿も、自分や不破を「道具」として扱う垓を見限り、怒りの拳を辞表として提出する。ヒューマギアが夢を抱くことでシンギュラリティに達するように、人間もまた夢に向かって歩みだすことで、他者の支配から解放され、自由になる。
新型コロナの影響に伴う新作の放送休止期間を経て、第36話からはついにアークが実体を得て行動する。悪意をラーニングした人工知能との闘いは激しさを増す中で、物語はクライマックスへ。描かれるのは、「悪意」というモチーフが示す、人間とヒューマギアの近似であった。
人類滅亡を宣言する滅と、ヒューマギアとの共存を願う或人。しかし、滅がイズを破壊したことで、或人は仮面ライダーアークワンへと変身し、激しい怒りをまき散らしていく。ヒューマギアとの共存を愚直に信じる、絶対的な「善」の存在であった或人でさえも、一つのきっかけで「悪」に転じてしまう。一方で、滅を庇った迅が破壊されたことで、滅も或人との全面戦争に乗り出すが、或人もまた自分と同じく家族を失った存在であり、その痛みを与えたのが自分であることに気づく。
これまで、ヒューマギアは悪意を与えられれば暴走し、スクラップにされる運命しかなかった。だが、ヒューマギア=AIの基本とは、「学習」にある。つまりは、一度悪に染まってもそれを正すことも出来るし、人間も同様である。大切な存在を失った或人と滅はその悲しみを胸に抱きながら、悪意(この番組における悪意の言葉は実に様々な意味合いを内包する)を乗り越えられることを証明し、それこそが人間とヒューマギアが宿す「心」であると締めくくる。両者の優劣をジャッジするのではなく、滅を“生かした”ことが、これからの社会に向けた希望になり得るのだと提示する。そうした学習の蓄積が、人間とヒューマギア、双方にとってより良い未来へ繋がる期待をもって、TVシリーズは幕を下ろす。
TVシリーズを最後まで見届けて思うのは、『仮面ライダーゼロワン』という番組は、その題材ゆえに多くの達成すべき課題を複数抱えており、それをいかに捌き切るかの点で、厳しい評価を受けた作品だということ。
一つは、ヒューマギアの処遇。心が芽生えた人型ロボットと我々はどう向き合っていくべきか、という問題について、本作は(現実社会がそうであるように)最終的な結論は導き出せていない。ヒューマギアの意思を尊重することは、ヒューマギアと人間をイコールで結ぶことには決してならないのだけれど、見え方としてはどうしても危ういニュアンスを放ってしまう。心を持つ存在を従属させることは、言い方を変えれば「奴隷」であるし、アークが倒されたからといってヒューマギアが今後人を傷つけないとは限らない。その責任は持ち主が負うのか、販売会社が負うのか。そうした未来社会を想像するSF的なワンダーを、本作は維持し続けられなかった。
一つは、飛電或人という人間。ヒューマギアを信じ、ヒューマギアを尊重する彼の思想は、正しい。だが、その正しさとは作品のテーマを補強する正しさであって、「社長」という尺度で透かして見ると、彼の危うさが浮き彫りになってしまう。ヒューマギアを想うあまりに顧客の要望を先送りにし、現に人を襲う被害を出してもなおヒューマギアを妄信する姿は、一介の社会人としてはどうしようもなく怖いのだ。自社の製品の安全性や会社のイメージを担保しきれない社長に、社員は付いていくだろうか。自分たちの生活を守ってくれる保障のないトップに、我々は信頼を預けられるだろうか。それに足るドラマもないままに飛電インテリジェンスの代表として扱われる或人の姿は、時に空虚に感じられてしまう。
一つは、悪を倒すヒーロー番組ならではの爽快感。そもそも、ゼロワンがマギアを倒すことは暴走した自社製品をスクラップにする行為に他ならないし、滅亡迅雷.netやアークも悪意を吹き込まれた存在ゆえに、彼らもまた純粋たる悪とは言い難く、勧善懲悪の図式が成り立たないからこそ戦闘の度に「しこり」が残る。全ての元凶と言って差し支えない天津垓は、たとえ彼も彼自身の事情や正義があったとはいえ一生かけても償えるほどの罪の大きさではないし、飛電への愛を取り戻して味方サイドに合流していく展開は、流石に承服しかねるというのが本音である。インタビューなどを読む限りでは演じる桜木那智氏の信念あっての熱演で一年間を走り切ったと理解できるのだが、それにしたって犯した罪が大きすぎて、派手に散る様を観て留飲を下げさせて欲しいという下卑た願いが尽きないのだ。
テーマが意欲的なればこそ、ないものねだりが尽きないのが『ゼロワン』という番組だった。AIと社会を思考すればするほど、ヒーローの胸のすくような活躍が割りを食っていく。主人公がテクノロジーとの共存を無邪気に信じる様子が描かれると、一企業の社長としての自覚の無さが浮き彫りになる。あちらが立てばこちらが立たず、をずっと感じながらの一年間は、制作陣もかなり頭を悩ませたのではないだろうか。
そこに、未知の感染症が予期せぬ邪魔立てをする。毎年おなじみの公式完全読本に掲載のインタビューを読むと、この番組をちゃんと畳めるのか、夏映画は撮れるのかという不安に苛まれていたことや、天津垓の顛末に関しても当初の想定とは違うところに着地したらしいことが見受けられる。大森Pをはじめとする全スタッフの当時の疲労と混乱が色濃く感じられる証言は貴重だが、作品にとっては不幸な影響を及ぼしたことは確かだろう。
望んだ形では終われなかったかもしれない。個人的にも、好きな所よりも引っ掛かりを覚えた箇所の方が多かった。ただ少なくとも、メイン視聴者の子どもたちにAIや人型ロボットがより身近になった未来への期待を根付かせた物語の真価を、まだ測りきれていないのかもしれない。2024年の価値観で照らし合わせた作品への評価が、10数年後には全く通用しないことだって、全然あり得るのだ。
人間とロボットの共存そのものが、リアルなのか、そうではないのか。技術の進歩と人々の価値観のアップデートによって、『ゼロワン』の描いた世界に対し何を思うのかは、どんどん変容していくだろう。自分が生きている内にその光景が見られるかは定かではないけれど、2020年に描かれた未来予想図としての『仮面ライダーゼロワン』のことは、忘れないでいたいのである。
TVシリーズ完走を経て、『ゼロワン REAL×TIME』も再鑑賞。感想の大筋は変わらないけれど、二代目イズのこと、滅の心情の変化などが、より深く印象付けられる。天津垓もエンドロール付近までは頼れる大人としての振る舞いをするので、「こういうのが観たかったんだよなぁ……」の想いが巡ってくる。
何より、TV本編に欠けていた仮面ライダーの格好いいアクションがてんこ盛りである。気兼ねなく敵を倒せる(ヒューマギアを破壊することにならない)状況になると、こんなにも特撮ドラマとして映えるものになるなんて。ゼロワンとゼロツーの共闘、5大ライダー同時変身など、一年間の放送で足りていなかった成分をここで一気に取り戻さんとする勢いに、すっかりやられてしまった。やはり、面白い一作である。
『REAL×TIME』の後には、Vシネクスト枠として『ゼロワン Others』が2作公開された。こうして振り返ると、キャラクター人気は強かったのだろうな、と思わされる。しかし、当時劇場に駆けつけたファンは、ちゃんと家に帰れただろうか。それくらいの衝撃を、今になって受けている。
新たなアークが生まれることを防ぐため、人間の悪意を見張り続けることを宣言した滅。ある時、ZAIAエンタープライズのCEOリオン=アークランドによって迅が連れ去られ、滅亡迅雷.netは再結集して救出に向かう。そこで彼らは、新たな兵士型ヒューマギア「ソルド」が大量生産されているのを目にする。軍需企業であるZAIAは、今度はヒューマギアこそを戦争の兵器として利用するつもりなのだ。そのことに憤る迅は、ソルドを統括する「マスブレインシステム」に取り込まれながらも、4人の意思を統一させ仮面ライダー滅亡迅雷へと変身する。ところが、滅亡迅雷はリオンを殺害した後、自分たちのボディを破壊、苦悩の叫びを響かせながら、物語は幕を閉じる。
『ゼロワン』TVシリーズにおいては、ヒューマギア、そしてAIはたとえ悪意に染められても、学習を重ねることでそれを乗り越える可能性が提示された。それを踏まえて、悪意によって駆動する仮想敵をヒューマギアに当てはめたのが天津垓なら、リオンは「正義」によって闘う存在を敵として想定した。その存在こそ、ヒューマギアの解放と自由を願う滅亡迅雷の4人。
マスブレインシステムとは、ソルド全体のネットワークとして構築された、合議制の意思決定システム。シンギュラリティを起こす可能性のあるロボットは、兵器としての価値はない。であるからこそ、合議制による意思決定を是とすることで個人(個体)の意思に惑わされない、安定した軍(群)隊化を実現化させるシステムだ。だがそれは、ヒューマギアの心を殺す行為に他ならず、迅はそれに対して拒否感を覚える。人間と同じ職場で働き、共存のモデルケースとなり得る亡や雷にとっても、想いは近しいはずだ。
だが、滅はTVシリーズでの或人との闘いにおいて、自分の中には怒りや憎しみといった「心」があることを認め、だからこそ今の作品世界を生き続けている。滅亡迅雷の意思は一つである、と信じる4人だが、彼らにはすでに個々人の心が個別に存在する。であれば、それを無理に統一すればどうなるか。それこそが、本作のクライマックスに現れている。
ヒューマギアを利用しようとする人間への強烈な敵意。相手を殺すことも厭わない攻撃性は、これまで培ってきたヒューマギアの安全性への信頼を、再び揺るがすものだ。それに留まらず、滅・迅・雷・亡の4人の意思が混ざりあったものを容認できないシステムは、彼らの個体の破壊へと導いてしまう。彼らが一人の「個人」として認められるまでを描いたTVシリーズの上に立つ、個人になったがゆえの悲劇。
滅亡迅雷の「正義」は、個人の自由と独立さえも奪ってしまうものなのか。その問いの答えは、次作まで持ち越されることに。
続く『バルカン&バルキリー』は、残された者たちそれぞれの「正義」を問う物語だ。そしてそれを貫くということは、時に痛みを伴う、ということも。
国防長官の大門寺は、唯阿に仮面ライダー滅亡迅雷の破壊を命じた。心を有したヒューマギアを破壊することに戸惑う唯阿だが、マスブレインシステムから開放された一部のソルドが、A.I.M.S.の隊員を襲い始めていた。唯阿は覚悟を決め、滅亡迅雷に立ち向かうが、敗北してしまう。一方で、滅亡迅雷の4人の真意に気づいた不破諫は、或人から託されたゼロワンドライバーを手に、最終決戦へと向かう。壮絶な闘いの末、仮面ライダー滅亡迅雷は破壊された。そして、不破も……。
仮面ライダー滅亡迅雷の誕生は、滅亡迅雷.netの4人が心を獲得したこととマスブレインシステムが不運なドッキングをした、悲しき事故であった。だが、マスブレインシステムから解放された一部のソルドは、滅亡迅雷.netこそを救世主として見なし、かつての彼らの意思を継ぐように、人類への憎悪を滾らせてゆく。当然これは、“今の”滅亡迅雷の4人の目指す姿ではないだろう。こんなことのために、迅は彼らの解放を願ったわけではないのに。
過激派となったソルドたちの行動は、印象深い。A.I.M.S.を襲うのみならず、自分たちの意に沿わないソルドを、リンチするのである。自分たちの色に染まらないものは排斥し、暴力を与える。TVシリーズで人間がヒューマギアにしてきた仕打ちを彷彿とさせるし、人間の持つ根源的な悪意を有している時点で、ソルドはもう人間と変わらない存在へと進化しつつある。
滅亡迅雷.netが望んだ、人間とヒューマギアの共存の希望は、このままでは閉ざされてしまう。しかし、自分たちでは止められない。だからこそ、彼らは自分たちの「死」を願うのである。誰かに止めてほしい。ヒューマギアが人類の敵になる前に、自分たちを「殺して」ほしい。その願いを託されたのが、不破諫だった。
なぜ不破諫だったのか。その話をするためには、刃唯阿に立ち返らねばならない。TVシリーズの闘いを通じて、彼女は技術者として、ヒューマギアは心を宿す機械であることを知った。故に、彼女は側に亡を置き、人間の隊員と同様に扱い、自分こそが来たるべき共存社会のモデルケースになろうとしている。そんな彼女の正義とは、生きているものを救うこと。ここでいう「生」の定義とは、心を宿しているか、ということだろう。
人間も機械も垣根なく、意思を持ち行動するものを命と規定して、それを守る。それが刃唯阿=仮面ライダーバルキリーの闘う理由である。しかし、その正義を宿しながら滅亡迅雷を破壊することは、大きな矛盾を抱えてしまう。滅亡迅雷とて、心を宿す「生きた」存在である。彼らを破壊すれば、彼女は自分の正義を見失うことになってしまう。
だからこそ、不破諫なのだ。組織にも属さず、生かす/殺すのラインを自分のルールで決める、単独で動く正義。自分だけの正しさを、自分の思うままに設定する。それは一見すると危険で、傍若無人で恐ろしい正義である。だが、己の信念を守るために一線を超えることの出来ない唯阿では、滅亡迅雷を止められない。不破が一人で闘いに挑むのは、これからも刃唯阿が刃唯阿でいられる世界を守るためなのだ。
人間とヒューマギアの共存という理想を断ち切りたくない滅亡迅雷と、その意思を汲み、かつ刃唯阿の正義を守るために一人闘う不破。新たな姿、ローンウルフに変身するその構えは、なんと仮面ライダー1号オマージュ。不意に、あの印象的な言葉が重なる。“仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!”
しかし、その代償は大きく、ボディを失った滅亡迅雷の“魂”は還る場所がなく、不破も大きなダメージを負ってしまう。明言されてはいないが、おそらく、彼は亡くなった、ということだろう。まさか、本編終了後のVシネマでメインキャラクターが5人も退場する作品があるなんて……。
この世界は、どうなってゆくのだろう。
TVシリーズでは、未来への希望を提示した。ところがこの続編によって、人間とヒューマギアの共存という理想は、再び遠のいたと言って良いだろう。国防長官の大門寺は『バルカン&バルキリー』冒頭において、ヒューマギアが人型であることそのものを否定する台詞を吐いた。大企業ZAIAのCEOを殺害し、会社を破壊した存在を、人類はこれからも仲間として受け入れることは、難しいはずだ。
『ゼロワン Others』は、飛電或人が不在の一週間の間に起こった出来事だ。彼が地球に戻った時、不破と滅亡迅雷が帰らぬ人となったことを知るのだと思うと、このまま作品世界の時が止まった方が幸せなのでは、と思ってしまう。己の正義を貫いた結果とはいえ、命のバックアップなど、存在しないのだから、もう二度と、彼らは或人のギャグで笑うことはない。
それでも、或人とイズと唯阿は、共存の道を模索し続けるのだろうか。不破と滅亡迅雷の意思を継いで、夢を失わずに生きられるのだろうか。その答えは、今のところ白紙のままだ。
夢に向かって飛ぶことを運命づけられたライダーは、今日も仮面の下で泣きながら、自由のために闘うのだ。託された正義を、その命に背負って。
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