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王道が「無難」に思えてならない超大作『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』

 『ピープルVSジョージ・ルーカス』というドキュメンタリー映画がある。これは、『スター・ウォーズ』という一本の映画に人生を変えられてしまった者たちの記録であり、創造神ジョージ・ルーカスへの感謝と、度重なる作品の改変への恨みと怒りによって構成された、制作者とファンの対立を浮き彫りにするユニークな作品であった。

 関連商品を収集するために巨額の費用を投じた者、映画を研究するあまり劇場公開版と特別篇でのオープニングロールの流れる秒数が異なることに気づく者など、一本の映画が「聖典」として崇め奉られ、神格化していった歴史を体感できる、後追い世代の自分にとっても大変興味深く鑑賞。

 そして2019年の今、仮にこの第2弾が製作されるとしたら、ファンが賞賛と敵意を向ける相手とは、巨大エンタメ帝国ディズニーになるのだろうか。世界を驚かせたディズニーによる買収と、創造神ルーカスの離反。聖典に新たなページが書き加えられることに、世界のファンはどのような反応を示したのだろうか。そんな記録が後年製作されることを密かに祈っている。

遠い昔、はるか彼方の銀河系で…。

死者の口が開いた!
かつて銀河を闇で支配しようとした皇帝が、復活を果たした。
レジスタンスは最後の決戦に向けて、
暗黒面が集結する地への情報を探す旅に出る。

 本題の前にどうしてもこの話から始めなければならないのだが、私はスター・ウォーズ弱者だ。劇場公開版と特別篇の違いを明確には答えられないし、ハンとグリードどっちが先に撃ったかについても自論は持たない。スピンオフのアニメや小説、ゲームなどは目を通してさえもいない。作り手がカノン(正史)として打ち出した実写映画と、『ローグ・ワン』『ハン・ソロ』しか観ていない程度のファン。

 だからこそ、生まれて初めてリアルタイムで追いかけることのできたこの「続三部作」には思い入れがあって、その完結は寂しく感じていた。予告編が公開される度に大騒ぎになったり、おもちゃの情報でうっかりネタバレを踏んで落ち込んだりといった公開までの緊張感もそうだが、何より公開初日の劇場の盛り上がり、有名なファンファーレが鳴り響く時の感動と拍手は、かけがえのない映画体験だった。映画の公開そのものが「祭り」として現象化していくあの熱狂は、とくに今年は『アベンジャーズ/エンドゲーム』と併せて二度も体験することができ、大いに楽しませてもらった。

 そんな事前の期待値を抱き臨んだ本編は、なるほど確かにうまいこと着地していた。『フォースの覚醒』であらゆる謎を後の作品に投げ渡したJ.Jが、自分でその尻拭いを必死にやり遂げている様子がひしひしと感じられたし、ファンサービスや冒険譚もたっぷり盛り込まれていた。ただ、それだけで喜んでいいのだろうかとも思うのだ。

※以下、ネタバレを含む

 本作のメインストーリーは、王道な冒険譚に仕上がっていた。復活し、ファースト・オーダーやスノークを用いて再び銀河を闇に染めようとしていた皇帝パルパティーンがついに表舞台に登場し、カイロ・レンを暗黒面に誘う。カイロ・レンはこれを受け入れるが、実はレイと協力して皇帝を倒し、銀河系の支配を我が物にしょうと画策。レンはレイをダークサイドに引きずり込むため、なぜ彼女が強大なフォースを持つのか、その謎にまつわる「家族」の真実を打ち明ける。

 惑星ジャクーでたったひとりで生きてきたレイは、両親との再会を願い、ガラクタ集めとして生活する「特別ではない」出自の人物として描かれてきた。だが、本作はそれを大きく反転させる。レイは皇帝パルパティーンの孫であり、レイを手に入れるためにその両親を殺したのも皇帝その人であるということ。自らのルーツを求めフォースの修行を続けていたレイは、暗黒面に堕ちた自分の幻影に悩まされ、カイロ・レンの闇への誘いがそれをより深くしていく。

 だが、レイはそれに屈することなく、皇帝との最終決戦に挑む。圧倒的な闇の力に一度は倒れるも、歴代のジェダイの声に後押しされ、レイはついに悪しき祖父を打ち倒す。かつてルークが、ダース・ベイダーとなった父アナキンと闘い、親子の情によってそれを乗り越え銀河に一時の和平ともたらしたように、レイもまた乗り越えるべき「父的存在」と対峙し、それを果たすことで物語が終焉を迎える。旧スター・ウォーズが持っていた神話的物語構造を今一度引用し、大団円をハッピーエンドに着地させる。驚くほどに筋の通った、確かに「SWらしさ」に満ちた物語を作り手は用意してみせた。

 また、皇帝までの道のりはミレニアム・ファルコンやスピーダーを駆使した宇宙旅行で、色んな惑星やユニークな生き物が生活する様子が見受けられる。『最後のジェダイ』ではあまり見られなかったフィンとポーのバディ感が今回大きく取り上げられ、その一方で二人はそれぞれの「お相手」にも巡り合う。ランド・カルリジアンとチューイが再会を喜び合うのも嬉しい。そして何より、撮影前に心臓発作で亡くなったキャリー・フィッシャー=レイアをどのように弔うかについては、切り貼りの映像ながらも納得のいく形で、非常に愛とリスペクトを感じさせる結末になっていた。これ一つを取り出しても本作を賞賛するに値するものになっているのは間違いない。

 ファンが観たかったもの、とくに『最後のジェダイ』で巻き起こった批判を作り手が重々受け止め、それを出来る限り盛り込んだ上で風呂敷を畳む。とくに、キャストの年齢を鑑み再演が難しいキャラクターたちには、最後の花道を用意して締めくくる。仮にこれらがJ.Jを筆頭に本作を任されたスタッフ一同に科せられた課題だとすれば、およそ100点満点の回答を示せていたのではないだろうか。

 ただ、その「王道」すぎる冒険譚の地盤は、やたらグラグラしていて今にも崩れ落ちそうだ。『スカイウォーカーの夜明け』単体で観れば綺麗に舗装された道でも、三部作として連結したときその道のりは急に歪なカーブを刻んでいるように思えてならない。

 決して出来がいいとは言えなかった『最後のジェダイ』だが、それでもあのラストはディズニー傘下になってからの新たなスター・ウォーズ神話の一つの大きなテーマを予感させる印象深いものだった。旧世代を象徴するルークは若き世代を導くことでその命を終え、レイは「何者でもない」という事実、そして夜空を見上げる名も無き少年を映して幕を閉じるエンディング。スカイウォーカー家の物語であることを前提としたこれまでのスター・ウォーズから、『ローグ・ワン』というステップを踏んでからの「血筋」の物語からの脱却を予感させる。権力のある男性から見初められることを至上の喜びとしてきた旧態依然なプリンセス・ストーリーを自ら否定してきた現代ディズニーらしい姿勢に、続くEP9への期待を大いに掻き立てられたのも懐かしい。

 ところが、実際に完成し公開されたEP9に、そういった要素はあっただろうか。ディズニーが自ら設けた新しさに、それらしい答えが用意されただろうか。否である。レイの出自はやはり特別なものに改められ、あの思わせぶりに登場した少年のその後は描かれない。辛うじてフィンにもフォースの目覚めを予感させる描写を散りばめつつも、明確な説明は避けた。

 結局のところ、「SWらしさ」に作り手が囚われてしまったために、前作からのバトンを無視して、三部作としての完成度を損なってでも今回の着地をスムーズに済ませることを優先したのだろう。スカイウォーカーの物語としてしっかりと完結させ、その血筋にとらわれない新しいスター・ウォーズは、他の作り手に先送りする。それが今回の決着のさせ方だ。さしずめパルパティーンも、この三部作の風呂敷を綺麗に畳むために掘り起こされた亡霊だったと言えよう。

 その結果、「王道」は「無難」へと、ネガティブな印象に転換してしまった。確かに面白かった。所々泣かされたし、新世代3人の友情を感じさせるチーム感、アダム・ドライバーの演技、可愛らしいBB-8など、色んな映画と比べても出来が良くて魅力も沢山あった。なのに、これだけ全世界を騒がせたSF超大作の完結編が、あの『トイ・ストーリー4』と同じ年に公開されたディズニー映画が、こんなに無難な出来栄えで本当に良かったのだろうか。かつての子どもたちにとって『新たなる希望』が聖典に成りえたように、この続三部作が今を生きる若者たちの人生を一変させるようなスゴい作品になっていただろうか。

 この問いに頷くことが出来なかったことをただ一人、残念に思えてならないのだ。

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