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総評『ウルトラマンダイナ』浪漫を背負って宇宙を飛ぶ、大好きのダイナ。

 『ティガ』『トリガー』を経て、『ウルトラマンダイナ』を観た。ティガの世界観を引き継ぎ始まった続編は、放送当時幼かった私にとって二人目のウルトラマン。生まれ育った家を家庭の事情で去ることになった際、旧家から持ち込んだ家庭用VHS(3倍録画だ)にはダイナが録画されていて、その回はホラー色が強く不気味な雰囲気と劇伴が強く印象に残っていたのだけれど、今回の履修でそれが第22話『ツクヨの兵士』であったことが判明。なぜこの回の録画だけ残っていたのかは定かではないが、漠然と心に残っていたダイナ=怖い作風?という先入観を、今回の履修で払拭することができた。

 むしろ『ウルトラマンダイナ』とは、まだ見ぬ明日、その先への未来へと前進し続ける人間の勇気を称え、背中を押してくれるような明るいヒーロー物語であった。それはまさに、前作『ティガ』と共通するテーマを内包し、1995年以降の日本に蔓延したであろう閉塞感や不安に打ち勝とうとする気持ちを鼓舞するような、そんなウルトラマンだったのではないかと、こうして混迷を極める令和を生きる身なればこそ思ってしまう。

 もちろんこれもまた推測でしかないし、数え切れないほど世に出されているスタッフ・キャストの証言を読まずして『ダイナ』を語る行為にどこか後ろめたさを感じなくもないのだが、最終回を観た直後にしか出力できない文章ということで、どうかお許しいただきたい。

21世紀――――
人類は大いなる試練を乗り越え、今、
様々な未知なる世界へと進出していた。
純粋な憧れと探求心に満ちた地球人類の旅立ち。
人々はそれを、ネオフロンティア時代と呼んだ。
だが、それは同時に新たな恐怖の目覚めでもあった。

ウルトラマンダイナ #1 / 「新たなる光(前編)」より

 まず『ダイナ』を語るにあたっては、『ティガ』の続編という属性についてどうしても触れなければならない。3つのタイプを切り替えて闘うウルトラマン像という新機軸を打ち立て、一話完結で怪獣退治や宇宙人の侵略に対抗するというお約束のフォーマットを維持しつつ、ウルトラマンとして闘うことの意義や人々を守るために暴力を振るうことについて葛藤する、奥深い物語の連続が印象深い『ティガ』は、全編を通して「ウルトラマン」を相対化する試みだったのでは?というのが個人的な読み解きであった。

 昭和シリーズの頃から漂っていたやや牧歌的な雰囲気は薄く、シリアスな問題意識を孕んだ物語は目の肥えたファンの関心を鷲掴みにし、その高い完成度が醸し出す複雑な余韻こそ『ティガ』という作品の人気を裏付ける要因に思える。

 その成功を受け、単体で独立したロードムービーという初期案から「ティガの続編」へと様変わりしたという経緯を持つ『ダイナ』は、その世界観を受け継ぎつつも、しかし全く別の味わいを持つ作品として放送がスタートした。本作のカラーを最も象徴するのは、前後編たる1話と2話における主人公アスカ・シンのキャラクターと振る舞いである。経験も浅く無鉄砲で自信家な面が際立つアスカは、火星でのスフィアの襲撃を受けた際、リーフラッシャーを手に入れウルトラマンダイナに変身する力を手に入れる。

 光の巨人となりて、怪獣と闘う力を手に入れたアスカ。驚くべきは、アスカはその事実を2話の時点で受け入れ、ウルトラマンとして闘う理由を自分の中で腹落ちさせている点にある。『ティガ』が一年かけてその理由を手に入れるドラマであったことに対し、アスカはわりと初期の段階でウルトラマン=誰かを守る力、という意識を働かせ、番組の終わりには『君だけを守りたい』と歌い上げる。

 これは制作サイドの意向として『ティガ』の再演にならないよう配慮した面もあるだろうし、元野球選手という過去もそれに寄与したことだろう。マウンドでは孤独に思えるピッチャーも、その実は同じ球場に集うチームメイトとの運命共同体であり、一人の力では勝ち得ないことをアスカは知っている。ダイナになったことで増長するもやがて内省する話が3話、その成長の証として野球を諦めた旧友を導く展開が5話に用意されるなど、アスカはいい意味で気負わず落ち込まない、明るく前向きな主人公として造形されている。

 本作の作風も(いい意味で)尾を引かない、陽性でコミカルな着地をするエピソードが多く見受けられた。怪獣や宇宙人が現れ、スーパーGUTSがこれに対処にあたるもアスカが乗る戦闘機が被弾、墜落しあわや戦死か……と思ったところでダイナが現れ敵を倒し、その後アスカがひょっこり戻ってきて「心配かけやがってこの野郎〜」と言わんばかりに仲間に追いかけ回される。『ダイナ』の話の〆として印象深いのはこのパターンだったし、実際に数えたわけではないが最も多様されたオチになるのではないかと思われる。

 大型の生物と闘うという危険な任務を生業としていながら、死の匂いが廃された雰囲気を感じる『ダイナ』はカラッと明るく、視聴者に答えのない問いを投げかけるエピソードも皆無というわけではないが『ティガ』よりも少ない。小中和哉監督が作劇面でこだわったとされる、“志のA級である『ティガ』に対し心意気のB級”というコンセプトを受けての、重すぎない話運びこそ『ティガ』と『ダイナ』を分かつ最大の特徴として挙げられるだろう。

無論、この場合のA級とB級とは、作品の質を表す目的で用いた表現ではないことをご理解いただきたい。なお、この発言の出典元は講談社発行の「ウルトラ特撮PERFECT MOOK vol.22 ウルトラマンダイナ」によるもの。

※筆者注

 本作の明るい作風を支えた要素として、「スーパーGUTS」の隊員一同は前作同様に愛すべきキャラクターとして一年間を盛り上げている。皆を導くヒビキ隊長を家父長として、責任感の強いコウダ副隊長としっかりものでエースパイロットのリョウはそれぞれ長男長女、真ん中にカリヤとナカジマを挟んで、若く経験の浅いアスカとマイを末っ子に見立てられるように、彼らはまるで家族のように深い連帯感で結ばれている。とくに自信過剰で独断専行気味なアスカをたしなめつつ、部下への熱い信頼を見せ彼らを犠牲にするかのような指令には真っ向から立ち向かう、理想の上司として余りある頼もしさが憧れを掻き立てるヒビキ隊長。

 その下で各々が得意分野で任務にあたり確実な戦果を上げる描写は会社組織としても理想形であり、作戦が終われば並んで肩組んでと体育会系のノリがよく似合うスーパーGUTSは、旧GUTSとはこれまた異なる関係性で視聴者の愛着を積み上げていった。

 時系列としても『ティガ』のその先に位置する本作の重要な点として、「ネオフロンティア時代」と呼ばれる時代の在り方は作品テーマの大きな骨子となっている。

 ティガと邪神ガタノゾーアの闘いから7年、強大な闇を退けた人類は、自らの開拓精神を地球のまだ見ぬ世界へ、そして宇宙へと向けていた。そもそも、『ティガ』の作品設定において地球平和連合「TPC」は世界から紛争を根絶させ、人類は手と手を取り合い共存していくフェイズへと移行している。エネルギーや資源を巡って争う必要の無くなった人々の視野は今の生活圏内の外へと向けられるようになり、新天地の開発と地球平和の維持を目的とし組織は肥大化。GUTSは「スーパーGUTS」へと名称を変え、ライドメカも掘削を得意とするガッツディグや万能潜水艦ガッツマリンを有するようになり、怪獣退治の専門部隊という側面だけでなくネオフロンティアの精神を象徴するかのような組織へと変貌を遂げていた。

 だが、地球には、そして宇宙には、想像を絶する危険が数多く存在する。第4話『決戦! 地中都市』では地下開発を推し進めると怪獣に出くわすというプロットであり、万物の霊長を気取る我々に水を浴びせるかの如く、未知の生命体がこの地球にも存在していることが示される。深海には全長が150m以上ある海蛇怪獣、巨大な吸血怪獣に人の死や国の滅亡を予言するとされる不吉な鳥、果ては人々の恐怖を映し出す植物までもが現れ、生息圏内を広げようとする人類の前には必ず障害が訪れる、というのが『ダイナ』の基礎原理のようだ。

 そして、ウルトラマンシリーズ第2作『ウルトラセブン』がそうであったように、本作は宇宙人が敵となるケースも多く見受けられた。そのほとんどは地球侵略、あるいは人類やダイナに挑戦状を仕掛けるような相手が多く、宇宙に進出したことで「知られてしまった」地球という星の安寧は今、脅かされている。外界へと足を伸ばすこととは、外敵を招くこととのセットである。人類の恒久的平和を成し遂げたTPCのある世界にとっての敵とは、この宇宙に無数に存在する生命体全て、ということになってしまう。

 そんな世界において、実に興味深い疑念を抱く登場人物がいた。第33話『平和の星』に登場する、スーパーGUTSに批判的な記事を書いたことのある記者ハスミは、スーパーGUTSが怪獣や宇宙人と闘うために日々軍備を強化していく流れに対し、TPCの平和維持組織という側面と矛盾するのでは、と指摘する。対するヒビキ隊長は、スーパーGUTSは戦闘集団ではないという前提の元に、とはいえ「人間が前へ進もうとする時、新たな未知へ挑もうとする時、そこには避ける事の出来ない戦いがある」と答える。

 実はここに、『ティガ』同様に内省的な、『ダイナ』だけでなくウルトラマンという作劇フォーマットへの相対的な批評の目線が織り込まれているところが、実に「らしい」と思う(該当回の脚本は長谷川圭一)。フロンティア精神とは実に前向きな思想ではあるが、開拓には「侵略」という仄暗い要素と表裏一体であることは、歴史が証明している。平和維持を担う組織が軍拡を広げ、自分たちの領土を広げるために他の生命体の領地や命を奪ってしまうのではないか、という疑問。このエピソードでは、実のところヒビキ隊長と娘の物語に収束していくのでこの問題提起は深堀されることはないのだが、ネオフロンティア構想の行き着く先に待つのは、もしかしたら「ノンマルト」や「超兵器R1号」かもしれない、ということを描いてもいる。

 では、人類がまだ見ぬ可能性に向かって歩いていくことは、過ぎた行為なのだろうか。断罪されるべき所業なのだろうか。そうしたテーマの総決算となるのが、あの有名な『最終章三部作』である。

 この最終章でアスカやスーパーGUTSが闘うことになる二つの思想。その一つは、「奇跡を信じられなくなった科学の暴走」だ。

 TPCでもタカ派とされるゴンドウ参謀は、ダイナの正体がアスカであることを知る。そして彼は秘密裏に造り上げた人造のウルトラマンである「テラノイド」を起動するため、アスカから光のエネルギー=ダイナへと変身する力を奪ってしまう。

 前作『ティガ』において、私たちはダイゴの物語を通じて「人間は誰もが光になれる」ことを知ったし、劇場版『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』はあの奇跡が“夢じゃなかった”と、かつて光となりてティガと共に闘った子どもたちが知ることで、信じる心がティガ&ダイナという奇跡を呼び起こした感動巨編であった。しかし本作は、光になれなかった大人の目線を通じて、力の暴走による悲劇を描く。

「何故お前がウルトラマンなんだ!?
お前のような未熟者が、品位の欠片もない粗暴者が
何故ダイナなんだと聞いているんだ!!」

ウルトラマンダイナ #49 /「最終章I 新たなる影」より

 自らの手でコントロールできない光の巨人よりも、掌握できる強大な力を。迫りくる外敵に備えるためか、あるいはより強大な力を求めてか。ゴンドウ参謀の凶行はテラノイド起動という念願を叶えるが、その夢はスフィアに取り込まれゼルガノイドと化し、ダイナまでをも失うという、最悪の結果を招いてしまう。

 ゴンドウ参謀の思惑、そしてテラノイドが迎える顛末は、先の『平和の星』での問題提起が最悪な形となって実を結んだ結果と言えるだろう。人間の飽くなき探究心、あるいは自らが脅かされるかもしれないという恐怖は「ウルトラマン」という未知の神秘の解明と掌握に乗り出し、過ぎた力を得てしまう。

 そしてそれが一度手中を離れれば、為す術もなく攻撃を受けるしかない。ウルトラマンと同等の力を持つ存在が、兵器利用されない確証などあるのか。誰がそれを管理・運用するのか、そこに公平性はあるのか。そういった倫理的問題をすっ飛ばして起こってしまった「鹵獲」による反撃に対し、手をこまねいているだけのゴンドウ参謀。彼は人の心の中にある光を信じられなかったがために歪み、自らの命で禊を果たすことになってしまう。

 そしてもう一つのダイナたちに立ちはだかる思想とは、「進歩の否定」である。

 作中何度か登場した「スフィア」なる宇宙生命体。彼ら(と呼ぶべきなのだろうか)の目的とは地球人類の宇宙進出を阻み、自分たちとの合一化を迫る、というものだった。

「人類よ、その者達の中へと同化せよ。
その者達もかつて、おまえ達と同じ様な人間であった

限りある命におびえ、互いに争い、
ついには自らの星をも破滅への危機へと追いやった

だが彼等は克服したのだ。
人を、あらゆる有機物、無機物を、
ついには惑星自体も一つに融合し完成させた、
完全無欠の生命体。
それが私だ。

まだ間に合う。地球が滅び去るその前に、
私はおまえ達を迎え入れよう

私こそ地球の歩むべき、『未来』だ」

ウルトラマンダイナ #50 /「最終章II 太陽系消滅」より

 個の生命の意思を捨て、合理を極めることで争いを無くした一個体の完全生命。TPCの掲げる恒久的平和が矛盾の下に成り立っている事実と、活動圏内を広げることにより脅かされる宇宙のバランス。そういったものを見据えるスフィアは、一つの全なる意思による統一をすれば平和が訪れると、人類という種に投げかける。

 作中でナカジマ隊員が呟くように、スフィアの思想はある一面で正しい。人類が平和であり続けることと、個々人の意思を尊重すること、あるいは怪獣や宇宙人との闘いを続けていくこととは、避けられない矛盾の中に混在する。『ダイナ』が明るい作風を貫いたとはいえ、この世界には「怪獣災害で両親を失った子供達の施設」が存在する(第7話『箱の中のともだち』)ように、悲しみや憎しみを抱いて生きている人がいるのも事実である。そうした不条理な想いをしないように、むしろ全てが合一することが正しいのではないか。

 そんな諦めに対し、『ダイナ』は力強いメッセージを投げかける。剛速球の真っ直ぐストレートボールは、スフィアの押し付けがましい善意を押し返すほどの力を持っていた。

ヒビキ「でもそれは生きてるって言えるのか?」
ナカジマ「えっ?」
ヒビキ「死がなくなる代わりに夢もロマンもなくした世界。
本当に俺達が目指した未来なのか?」
ナカジマ「でも、それは…」
ヒビキ「不完全でいいじゃないか!矛盾だらけでも構わねえ!人の数だけ夢がある。俺はそんな世界の方が好きだ!!

ウルトラマンダイナ #51 /「最終章Ⅲ 明日へ…」より

 ヒビキ隊長の言葉は、合理とは正反対の、感情や生理に最も近い理念であり、それこそスフィアが「理解不能」と言っても仕方がないもの。しかし、『ダイナ』は合理ではない。人間が明日へと抱く希望、未知へと向かっていく気持ち、それら合理とは合致しない矛盾をこそ「」と言ってのける。その痛快さこそ『ダイナ』の真骨頂と言えるのではないか。

 ウルトラマンとは、いや、ウルトラマンダイナとは、人間が前へ前へと進んでいく希望を鼓舞する、そんな存在なのだ。人々の夢と希望を乗せて闘う、ダイナミックでダイナマイトで大好きのダイナ。そんな希望の主たるアスカは、『ティガ』とはまた違った光の可能性を見せてくれた。

 アスカ・シン。彼がパイロットを目指したのは、試験飛行中に消息を絶った父親の背を追うためでもあった。父の死を疑い、その帰りを待ち、成長して自分も追いつこうと努力する。本作の開拓精神を象徴するかのような主人公は、ダイナとして幾度となく闘い、誰かを守り、空を飛び続けた。

 最終章においてアスカは、名曲「君だけを守りたい」を引用する形で、窮地に陥ったリョウの命を救う。それは愛なのか友情なのか、その感情の明言し難さを物語るように、リョウにこんな言葉を返す。

リョウ「君だけを守りたいなんて、正義の味方の台詞じゃないわよ…」
アスカ「かもな……。でも俺は、俺だから」

ウルトラマンダイナ #50 /「最終章II 太陽系消滅」より

 『ティガ』が人々の希望、すなわちを受け取るとなったのに対し、ダイナはアスカという一人の人間の意思に寄り添い続ける。ヒーローが公私問わず「正義」の名のもとに闘い弱きを救う者であるとするのなら、ダイナはより「私」に振り切った決断を下した。

 そしてスフィアの思想を払い除けた最終決戦の後、ダイナはブラックホールに飲み込まれ、スーパーGUTSと離れ離れになってしまう。有名なオチ、知っていたとはいえ、目の当たりにすると動揺を隠せない。だが、それは絶望なんかではない。アスカはその先の光の中で父と再会し、同じ空を飛ぶことができた。そしてスーパーGUTS一同も、アスカの背中に追いつけるよう自分たちを鼓舞する。

 たとえ矛盾していても、まだ見ぬ未知の可能性に立ち向かっていく。それを象徴するかのように、ダイナ=アスカとスーパーGUTS、ひいては人類の挑戦は続いていく。見え方によってはバッドエンドにも思える「主人公が帰還しない」結末も、 筆者個人はとても『ダイナ』らしいな、と感じている。別れの寂しさはあれど、物語の決着として父カズマの背に追いついたアスカの姿には納得があるし、何より希望を鼓舞し続けたダイナの背を見てきた彼らが、前向きな姿勢を崩さないからこそ、作品のカラーを最も鮮烈に印象付ける結末になったのだと思えたからだ。

マイ「星、ウルトラの星……」
ナカジマ「ウルトラの星、か……」
ヒビキ「俺達も行こうじゃねえか。アスカに追いつけるようにな!」

ウルトラマンダイナ #51 /「最終章Ⅲ 明日へ…」より

 人はどこまでも飛べる、この広大な宇宙のどこへだって。そんな「」を守るために闘ったダイナ=アスカの物語は、これにて一区切り。この結末への受け取り方にはかなり賛否が割れたと聞いたことがあるが、その後の彼には様々な作品で再会することができる。宇宙を旅する光のヒーロー、ウルトラマンダイナ。彼が遠い遠い宇宙でたくさんの人を守り闘っている、そのことに想いを馳せながら、筆を置きたいと思う。

 ありがとう、大好きのダイナ。

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