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みんな、元気でやってたかい?『デッドプール&ウルヴァリン』

 MCU疲れ、という言葉を意識する機会が増えてきた。

 映画の連続ドラマ化を実践してきた最大手であるMCUが、今度は本当に配信ドラマ(『ホワット・イフ...?』はアニメだけど)まで始めてしまい、供給量と余暇時間のバランスの不一致が広がり、サノスを倒す以前と以後では自分の中でのこのユニバースに対する熱量は大きく差が開いてしまった。仕事の繁忙期を言い訳に、『マーベルズ』を劇場鑑賞ではなく配信で済ませてしまったことは、数年前の自分からお説教を食らうに違いない。

 しかし、だ。そんなMCUになんやかんやあってデッドプールが参戦し、さらになんやかんやあってヒュー・ジャックマンがウルヴァリンを再演する、と言われて、じゃあスマホで観ますわ、とはならないだろう。世界最速公開日はまさかの平日水曜日。普段の休日出勤を代償に手に入れた振替休日を行使し、朝イチのIMAXに駆けつけるやいなや、そこには事前の予想を遥かに超えるカオスが展開していた。

※以下、『デッドプール&ウルヴァリン』の重大なネタバレが含まれる。

 おなじみのマーベルスタジオファンファーレを茶化して始まる『デッドプール&ウルヴァリン』は、それはもう、とてつもなく、変な映画である。

 事前の一番の関心事であるはずの「どうやってウルヴァリンを出すのか」については、MCUではおなじみとなったマルチバースを、最早説明は不要と言わんばかりの省略具合でお出しする。そこに『ロキ』で登場した組織TVAが加わり、今回の冒険の目的とヴィランが設定される。ウェイドは自分の世界の剪定を防ぐため、アンカーとなるローガン=ウルヴァリンを別宇宙から連れ出してくる(ヘンリー・カヴィル!君もマーベルにおいでよ!)。

 ヒュー・ジャックマンが再びローガンを演じる。それは何よりも喜ばしいことだが、ヒーロー映画を公開順に追ってきたナードな観客たちの胸中には、『LOGAN』の記憶はまだ比較的新しい。当然この映画を観ていないはずがないウェイドも、わざわざ“あの”ローガンが眠る墓地へ赴き、墓を掘り返す。MCUの外側で脈々と続いてきた映画シリーズの中で、ウルヴァリンの旅は一度終わっている。そんなことは製作側も観客も百も承知の上で、“あの”ローガンが出てくるわけではないですよ、と(遺骨を武器にしておきつつ)敬意を払う。そうした儀式を経て、満を持して、デッドプール&ウルヴァリンの珍道中が始まるのだ。

 しかし驚くべきことに、この映画においては「ヒュー・ジャックマンがウルヴァリンを再演する」ですら、前フリに過ぎないのである。すでにご覧になった方は、あの光景を観てどうリアクションされただろうか。驚きのあまり声を上げただろうか。逆に声も出ず震えていただろうか。あるいは、誰が出てきたのかピンとこなかっただろうか。

 クリス・エヴァンスがキャップではなくジョニー・ストーム / ヒューマン・トーチとして出演している、というとんでもない奇襲をかけてきた本作は、ここを境にハイコンテクスト具合がどんどん高まっていく。そもそも、『X-MEN』や『デアデビル』などのマーベルヒーロー映画を制作・配給していた20世紀FOXという会社がディズニーに買収され、各シリーズも展開が止まってしまった、という現実世界での出来事を観客側が把握していて当然というリテラシーが求められるヒーロー映画、聞いたことがない。みなさん平然と受け入れてますが、これ凄いことですよ。

 かくして、この映画はいつの間にか20世紀FOXヒーロー映画の同窓会にシフトチェンジしてしまうのだ。ジェニファー・ガーナーのエレクトラ、ウェズリー・スナイプスのブレイド、「企画が頓挫し映画が作られなかった」チャニング・テイタムのガンビット、そしてダフネ・キーンが再びX-23としてカムバックする。果たしてこの映画、いまの文明が完全に滅びて、次文明の歴史学者がいざ鑑賞に至る時、この文脈にノれるのだろうか。いや、MCUだけ追ってきた人だって、今劇場にいるかもしれない。じゃあ、このコスチュームの人たちは、どう受け止められているんだ……??

 つくづく、『デッドプール』もとんでもない映画シリーズになったなと、一介のファンながら、感慨深くなってしまう。一作目なんて制作のGOサインが中々下りず、ヒーロー映画としては予算もかなり少ない規模ではあったが、起死回生の大ヒットを飛ばし、ライアン・レイノルズにとってもライフワークに近い当たり役となった。そんな赤スーツの彼が、映画会社の諸事情に揉まれ、MCUという大きな舞台の中で、第四の壁を破るというメタ要素がある故に、今回の大役を拝命するに至ったのだ。その役目とは、「20世紀FOXというレガシーにちゃんとお別れをする」というもの。

 正直、「破天荒」を宣伝でもフィーチャーされることの多いデッドプールが、こんな大人の事情にまみれた映画になるなんて、という想いも、確かにある。どんなに悲惨な状況に陥ってもユーモアを忘れず、真実の愛の元に帰ってきた一作目。迫害され、虐げられてきた子どもを守るために取った究極の利他的行為が、ヒーロー論としての正しさに着地した二作目。比べると今回は、果たすべきタスクが広大すぎて、ウェイド・ウィルソンの映画という印象は薄い。どうしても、華やかなゲストやカメオに目が行ってしまう。

 それでも。それでも、だ。今回ウェイドが救ったのは、大人の事情によって我々の記憶から消えつつあったヒーローたちの歩みであり、そんな彼らの銀幕での活躍に心躍らせていた“あの頃の”私たちだ。スパイダーマンが、X-MENが、デアデビルが、ブレイドが。まだ「アメコミ」の概念を知らなかった私にその文化を知らせてくれたのは、映画の中でキャストが演じるヒーローの姿であり、私にとっていつまでもウルヴァリンはヒュー・ジャックマンの声と顔をしているし、どれだけ代替わりしてもトビー・マグワイアのスパイダーマンは特別なのだ。

 まさか、2000年代のアメコミヒーロー映画を観てきたことの肯定を、デッドプールがしてくれるなんて、事前に予想できるはずがないじゃないか。言いたいことがないわけではないが、こんな暖かい気持ちにしてもらえただけで、鑑賞料金以上のものをもらって、胸いっぱいだ。

 ありがとう、デッドプール。ありがとう、ローガン。そして、大好きだった無数のヒーローたちへ、ありがとう。元気でやってたかい?またどこかのマルチバースで会えたら嬉しいな。またね。

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