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草葉の陰で、シーザーが泣いている。『猿の惑星/キングダム』

 つい先日、猿が強制労働させられているという共通点を持つ『ゴジラxコング 新たなる帝国』の感想にも書いたけれど、私はリブート版『猿の惑星』三部作が大好きだ。

 アンディ・サーキスをはじめとする"エイプ”役者陣の卓越した演技力とモーションキャプチャーの精度、CGによる豊かな表情の表現力をもってして、一作目の時点で「人間ではなく猿に感情移入させる」という高いハードルを超えるのみならず、二作目三作目と進むにつれて「人語を介さない猿側のみでドラマパートを進行させる」という試みが強化されていった同シリーズ。この映画を観る時、私は人間の愚かさ矮小さを学び、猿たちの救世主となるシーザーの誇り高き魂に惚れ込んで、同種殺しにより原罪を背負い、良くも悪くも人間らしく散っていく様に、涙した。

“キング”コングになるために。『ゴジラxコング 新たなる帝国』

 CGの進歩によって成し遂げられた「人間を憎み、エイプに感情移入する映画」の発明により、私は“シーザー”の勇姿に喝采を送り、彼の存在そのものが神格化され物語が閉じる様を観て、落涙した。

 各作がジャンルを変えながら、それでいてシーザーの波乱万丈な人生(猿生?)を追いかけ、やがて一つの神話となる。その物語に一体何を付け加えようというのか。当初「シーザーの息子が主人公」とアナウンスされていたはずが、紆余曲折あって赤の他人の若猿が主人公となった第四作を確かめずにはいられず、公開初日のレイトショーに駆けつけて、今頭を悩ませている。

 シーザーの死から数世代先の未来。よりヒトに近づいたエイプは人間の負の歴史を辿り、ヒトは知能を失ったまま生存している。そこで出会った少女“ノヴァ”は、共存の架け橋と成りうるのか。

※以下、本作のネタバレが含まれる。

 今作でも度々言及される、「エイプとヒトは共存できるのか」という問いについて。リブート二作目の『新世紀』においては「個と個(シーザーと主人公マルコム)の調和は出来ても、種と種(エイプとヒト)の共存は果たし得ない」という落とし所だった。人間に虐待を受けたコバはヒトへの憎悪を捨てきれず、ドレイファスも最後まで地球の支配者の座を明け渡そうとはしなかった。その結果、両方の種は仲間を減らし元いた場所を去らねばならず、ヒトと心を通わせた経験のあるシーザーにとっては苦い経験として胸に刻まれた(そして三作目にしてヒトへの信頼は裏切られる)。

 そんなシーザーの死から数世代を経て、『キングダム』の世界は様変わりしていた。「エイプはエイプを殺さない」という最大の掟を、あろうことかシーザーの名を騙りながら破り続ける暴君プロキシマスは、逆らう者を容赦なく殺し、恐怖と暴力で弱者を支配する。シーザーの偉業はわずか300年で形骸化し、その仲間思いの魂は残念ながらノアの世代には受け継がれていない(形骸化の理由は「本がないから」とラカが語っていた)。

 本作では若きエイプのノアが旅の途中で出会った賢者ラカによってシーザーの存在を知り、その精神性を受け継ぐことで暴君の作り出した圧政に反逆する、という構図が取られている。それと同時に試されるのが、同じく言語を話し理性を持つヒト、"ノヴァ”=メイを信じきれるのか、ということ。

 ところが、このメイの存在こそが、ノアと観客を大いに悩ませるのである。身の安全を守るため「話せる」ことを秘匿し続け、プロキシマスではなくノアを信用する素振りを見せ、王国の破壊に乗り出すメイ。最初こそ脆弱で、エイプが支配する世界ではまず一人で生きられないような脆さを感じさせていた彼女だが、映画が進むにつれそのイメージはかなり揺さぶられていく。

 プロキシマスが開けようとしていた「扉」の先に何があるかを知り、しかしその正体を協力者であるはずのノアたちにも明かさず、その企てがバレるやいなやトレヴェイサンを躊躇なく殺害するのである。このシリーズにおいて同種殺しはとくに大きな意味を持ち、シーザーがヒトに堕ちたのもコバの殺害がきっかけである。思えば、冒頭でノアが手に入れた卵を割ったのも彼女であった。つまり、メイは油断ならない、悪しき生き物の性質を背負った存在であると、そのようなバランスで描いている。

 恐らく、メイは人類存続を賭けた重大なミッションを受けて、キングダムに足を運ぶことになったのだろう。その道中、自分の身を守ってくれて、かつ賢いノアと出会った。メイは、ノアを利用することを選んだ。自分たちが生き残るために必死であるからこそ、価値あるものは利用する。当然の摂理だ。なぜならメイは「エイプに支配されながらも人類復興を諦めないポストアポカリプス映画の主人公」だから。

 この物語は、プロキシマスの打倒を通じてノアが精神的に成長し、イーグルに認められ、新しい"home”を守る長の立場に就くまでの、通過儀礼を描くものである。名前がノアで、そしてクライマックスの舞台が舟となれば、彼が導き手となるのは自然だろう。

 その一方で、ノアの方舟を襲う洪水のきっかけを作ったのは、信用ならない人間メイであり、これは神の裁きなどではない。ただしこの場合の“信用ならない”とはエイプ視点のもので、人類全体を思えば「エイプの支配から脱却し人類が復興する」ための切実な行いであり、非道な裏切りも彼女なりの大義名分あってのことだ。

 本作は、ノア(エイプ)とメイ(ヒト)のそれぞれの立場からすれば、ハッピーエンドである。ノアは新しい集落を作り上げ仲間たちと一族の系譜を守り抜くことが出来、人類は仲間と出会い復興への希望が見えてくる。しかし、このシリーズは繰り返すように「エイプに感情移入する」映画であり、その視点に立てばメイは許しがたい裏切り者であり、同時にシーザー三部作では出来なかった新しい視座を与える存在として、この第四作のカラーを決定づけたキャラクターと言えるだろう。共存の可能性を少しでも期待したノアの心は裏切られ、自分たちの種が生き残ろうとする意思が勝利する。

 個と個の調和さえ打ち切った本作は、シーザー三部作の流れを経た作品であるからこそ衝撃的であり、その一方でただ甘いだけの希望を提示しなかった分、誠実という気がしている。人間同士でさえ醜い争いが絶えないと言うのに、地球の覇権を奪われた種とそう簡単にはわかり会えるはずがない。プロキシマスは古代ローマ史を好んだと言うが、それはすなわち彼は人類の歴史の暗部から学びを得たということで、人類の愚かさを客観視させる彼の王国と圧政こそ『猿の惑星』の真骨頂であり、それを再び繰り返す可能性を孕んでいるのが、人間という種なのだ。

 同じ空を見上げ、しかしそこには深い断絶がある、ノアとメイ、エイプとヒトの関係。これを悲劇と呼ぶか自然の摂理と受け入れるかは観た人全員に委ねられたであろうけれど、一つだけ願うとすれば、天国のシーザーにはこの結果を見せたくないと、私の中の小さな親心がそう叫んでいる。

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