ダンガンロンパの精神的続編?『ワールズエンドクラブ』とボクたちは友達になれたか。
昨年、『AI: ソムニウム ファイル』と『ダンガンロンパ』シリーズを履修したことで、“読み物”としてのゲームの魅力にドップリ浸かっていたところに、なんとも見逃せないタイトルを見つけてしまった。ディレクター・シナリオは打越鋼太郎、クリエイティブディレクターに小高和剛、そして主人公のCVが上田麗奈という推しの惑星直結みたいなゲーム、それが『ワールズエンドクラブ』である。
よもやこんな偶然があろうかと、あまりにも投げやりなお値段で売られていることから目を逸らして購入、先ほどエンディングを見届けた。これがまた、なんとも人を食ったようなゲームであり、値崩れやプレイヤーの批判を受けることも確信犯であるかのような、非常に意地悪で贅沢なゲームであった。と同時に、『ダンガンロンパ』シリーズをこよなく愛する人にこそ、このゲームが届いてほしいと切に願ってしまう。その辺りをネタバレに気を付けながら語っていけたらな、と打鍵してみることにする。
デスゲームの「否定」から始まる物語
いきなり本作の最初のトリックを暴いてしまうと、実は本作の正しいジャンルは「ロードムービー」なのである。修学旅行中に隕石の落下と遭遇した小学生たちが、目覚めると謎の空間でデスゲームを強要される―。という物騒な展開から始まる本作はしかし、呆気なくその梯子を外してしまうのだ。
打越鋼太郎と小高和剛(中澤工氏も関わっているのだが、筆者は『infinity』シリーズ未履修のため言及せず。申し訳ございません)が関わっているゲームとあれば、陰惨な命のやり取りであったり、不謹慎ながらも興味をそそるデスゲームを期待してしまうのは、これまでの軌跡を追ってきたゲーマーなら当然だ。にも関わらず、冒頭で描かれるデスゲームでは一人の死者も出ず、牧歌的な中原麻衣ボイスでいきなりの終了宣言。自分たちが鹿児島にいることを知った小学生たちは、遠く離れた故郷・東京を目指し旅をすることを決意する。
プレイヤーの期待を裏切るメタな仕掛けは、ゲームへの好感度を損ないかねない危険な仕掛けでありながらも、打越鋼太郎と小高和剛が組めば「これぐらいのことはするよな」というヘンな納得感がある。キャラクターたちがまだ小学生であるにも関わらず、クリエイターの名前を見て死を伴う残酷なシナリオを望んでしまう我々の方が不健全だし、そうした価値観にカウンターを喰らわせるゲームを遊んだばかりではないか。すなわち、デスゲームの限界に辿り着いてしまった“あのゲーム”の次に制作された本作がデスゲームを否定してみせることで、プレイヤーの目を覚まし新しい景色を見せようとしてるのではないか、というコンセプトが見え隠れするのだ。
互いが互いを疑い、裏切り合うデスゲームを経て、しかし生存のためには団結しなければならない。さらに、外の世界は文明が崩壊しており生存者がいる可能性さえも見えない。そんな世界においても幼さゆえの明るさと猪突猛進さで歩みを進めていくガンバレ組の姿は、『ダンガンロンパ』シリーズではハッキリと描かれていない景色の一つでもある。要は、一作目のエンディングのその先を取り出して一本の作品に昇華したのが『ワールズエンドクラブ』と言える。未熟なれど悲嘆に暮れることなく、東京に向けて突き進んでいく彼らの姿は、『ダンガンロンパ』シリーズにおける希望の概念に通じるものがある。希望は前に進む、そう言ってくれたのは他でもない苗木誠なのだから。
ゲームとしては未成熟
デスゲームを晴れて脱出したガンバレ組の物語は次の段階へと移り、ここからは東京を目指して鹿児島から西日本を横断する、ロードムービーが幕を開ける。
もちろん彼らは小学生なので車も運転できず、東京まで歩いて向かう、というプロットは少々無理があるし、シナリオを進める都合とはいえ「科学者の娘」「ゲーム好きで機械に詳しい」といった属性だけで小学生離れした思考や行動に出る辺りは、コンセプトを成立させる上での練り込み不足を感じずにはいられない。デスゲームを生き残るために相手を出し抜く思考を持ち合わせながら、嬉しいことがあればみんなでバンザイしたり歌ったりと「子供らしさ」とのギャップが浮いてしまっている違和感が終始付きまとう。
ゲームの基本は会話劇を読むストーリーパートと、パズル要素を含むアクションパートを交互に遊ぶことで進行する。実は、ガンバレ組の小学生たちは特殊な状況下において超能力を順次覚醒していき、その能力を活用して道を切り開いたり、敵の襲撃を防ぐといったことを要求されるのだ。
だが誠に残念なことに、本作のアクションパートは少なくとも自信を持ってお薦めすることが難しいクオリティに仕上がっている。基本的には各人の超能力を使って障害物を取り除いたり、敵を攻撃することで先に進めるというものだが、いかんせん彼らも小学生、敵の攻撃や追っ手に見つかれば一撃死、即ゲームオーバーに陥ってしまう。もちろん、即座にリトライできるため詰むということはないのだけれど、ゆえに本作は「死んで覚えるゲーム」と化しており、ポップでカジュアルな見た目のわりに正確な操作と判断が求められるやや手ごわい難易度なのである。
その難しさに拍車をかけているのが、キャラクターたちの操作感。言葉で説明するのも難しいのだが、基本的に移動速度が遅く、例えば歩くためにスティックを倒しても、実際に彼らが動き出すまでの間にコンマ何秒かの遅延があって、気持ちよく動かせないのだ。その他、独特な慣性が働く停止時の動きや超能力が発動するまでの無防備な一瞬に被弾したりと、思い通りに動かせないモヤモヤがストレスを誘引する瞬間が何度もあり、ストーリーを読み進めたいと思う気持ちに待ったをかけられるアクションパートの完成度はお世辞にも高いとは言い難い。もっとも、この難しさは意図的なものらしいのだけれど。
問題はそれだけに留まらず、このアクションパート中はキャラクターの切り替えが存在しないのである。ガンバレ組は個々人が全く異なる超能力に目覚めるのだが、それらは彼らの個性を表現するものであり、かつパズル要素を解いていくための重要なアクションとなるのである。ところが、アクションパート中は全ての場面で操作するキャラクターが固定化されており、目の前の謎解きに対して解法がゲーム側から“与えられる”状態に陥るため難易度が低下しているし、「みんなで力を合わせて東京を目指す」というコンセプトをアクションパートに落とし込めていないという評価になってしまう。
愛すべきガンバレ組の彼らを動かせるアクションパートは、本来ならプレイヤーからキャラクターへの愛着を育てる大事な工程になるはずだった。だが、本作ではその役割を十分に果たせず、結果として「未完成」な印象を植え付けてしまう。トライ&エラーを繰り返せば越せるだけの絶妙な難易度よりも、この問題の方が根深くて残念に思えてならない。
『ワールズエンドクラブ』とボクたちは友達になれたか。
褒めたいんだか貶したいんだがよくわからない状態になっているが、冒頭に述べた『ダンガンロンパ』シリーズをこよなく愛する人にこそ、このゲームが届いてほしいという一点だけでも、本作を広めたいと思わずにいられないのが『ワールズエンドクラブ』というゲームの個人的な到達点である。
デスゲームを否定する第一幕、東京を目指す過程で崩壊した世界の謎を知っていく第二幕、そして第三幕にして最終章は全ての真相が明かされる回答編に突入する。各所に散りばめられた謎が一つの線で繋がり巨大な陰謀と敵の正体が明らかになるカタルシス、ルート分岐を活かした打越ゲーならではの構造など、シナリオの面白さはやはり健在。そして浮かび上がってくるのが、『ダンガンロンパ』が成し得なかったゲームとプレイヤーとの“交流”への言及なのである。
以下、本作と『ニューダンガンロンパV3』の
重大な展開の一部に触れる記述がございます。
未プレイの方の感動や驚きを削いでしまう可能性があるので
注意してお読みください。
以前の記事で私は、『ニューダンガンロンパV3』のとある展開を「ゲームから我々への一方的な追及である」と表現した。対話ではなく、ゲームからの一方的な責め立て。残酷で刺激的なフィクションを安全地帯から一方的に享受し、キャラクターに愛着を持つ一方で彼らが悲惨な運命を遂げることを期待したり、それをもって作品への評価を左右させる神様の傲慢な視点への、痛烈な批判精神。クリエイターからのメッセージが直球過ぎるあまり、『ダンガンロンパ』という人気シリーズの寿命さえも削り取ってしまった大胆な自殺は、ゲームと我々の断絶とも言うべき事件であった。
『ダンガンロンパ』において私たちは、コロシアイを抜け出したい、生きたいと願うキャラクターたちの「敵」であった。だから、私たちとダンガンロンパは手を繋げなかった。作品を愛していても、その中に生きるキャラクターを殺したのは作り手であり、他の誰でもない私たちである、という罪の意識と共に思い出されるのが『ニューダンガンロンパV3』という異端の最終章なのである。
そんな断絶の後に世に出た『ワールズエンドクラブ』は、我々プレイヤーが物語に介入すること対し、とてもポジティブな言葉が用意されていた。本作の目的はあくまでも、ガンバレ組を東京に帰すこと、ひいてはガンバレ組を生かすことなのである。同級生を死刑台に送る『ダンガンロンパ』から、幼く脆い小学生たちの命を未来に繋ぐ『ワールズエンドクラブ』へ。物語の結末を終え、とあるキャラと二人きりになったプレイヤーに投げかけられた言葉こそ、本作の本懐と言えよう。『ニューダンガンロンパV3』で傷ついた我々の心を癒し、“ゲームと私たち”を仲直りさせることこそ、『ワールズエンドクラブ』が目指したハッピーエンドだったのだ。
我々プレイヤーに投げかけられた、「友達になろう」という親愛の言葉。それを紡ぐキャラクターのCVが誰なのか、にとてつもない意味が込められていて、私は思わず涙してしまった。そこには、賛否を招く結末でプレイヤーの心を傷つけてしまったクリエイターからの懺悔の意があるような気がして、その温かさに涙腺を刺激されてしまったのだ。たとえゲームが終わっても、ガンバレ組と私たちは友達でいられる。ようやく私たちは対等に、対話をして、握手をできるようになった。陰惨なコロシアイから逃れて、みんなで手を取り合う物語へ。キャラクターたちの笑顔を守りたいという我々プレイヤーの願いは、『ダンガンロンパ』の犠牲を経てようやく叶ったのである。