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夢叶わぬ者たちへ。『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』


前置き

 このテキストは、「ブログクリーンアップ Advent Calendar 2024」のために、かねてより放置していた下書きを、この度全部消して改めて書き直したものになる。

 企画趣旨には、こう書かれている。“今年のブログ、今年のうちに。”と。師走、一年を振り返り総括する季節に、何かやり残したことはないか。そう考えた時、1月からずっと完成しないまま寝かせている下書きが、バッチリミロー!と言わんばかりに自己主張してきた。思い出の中でじっとしていてくれ……と思ったが、そうはいかないらしい。

 それは、『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』の感想記事だった。昨年、この作品を楽しむために『仮面ライダー555』を見直し、三本のベルトにちなんで三つの記事を投稿した。放送当時は小学生、それから20年を経て社会人をやらせてもらっている身で、不意打ちにやってきた正統続編をどう受け止めるべきか。まずはその基礎体力を作るために名作を振り返っていたのが、2023年のこと。

 それを経て、2024年1月14日(日)、期待の新作の完成披露舞台挨拶付き先行上映をライブビューイングで見届けた帰り、心にあるのは困惑……いや、はっきり言ってしまえば「怒り」で煮えたぎっていた。クライマックスのとある台詞が、どうしても飲み込めなかったからだ。その想いをその日のうちにスペースで聴いていただいたこともあったが、一夜経って、一ヶ月経って本上映が始まっても、そのモヤモヤは治まらず、文字数は一向に増えなかった。

 別に誰に頼まれたわけでも、メディアに寄稿する文章でもないのだから、終わらせる義理などない。でも、これを出し切ってしまわないと、心地よく2025年を迎えられない。心に残ったキャッシュを整理しない限り、ずっと処理落ちしたままなのだ。故に、今回のアドベントカレンダーは渡りに船だった。書いて出すだけで褒められ、読んでくださる人がいる。漬物を漬けすぎて腐臭を放ちかけていたこの下書きも、ようやく成仏できよう。

夢叶わぬ者たちへ。

 まずは、大人向けの仮面ライダーのことを思い出していきたい。地上波放送、いわゆるニチアサ枠では出来ない表現を追いかけ、ゴア描写や食人といったショッキングなテーマを扱った『仮面ライダーアマゾンズ』や、人間と怪人の距離感を人種差別に置き換えた『仮面ライダーBLACK SUN』が、直近ではその系譜にあたるだろう。

 では本作『パラダイス・リゲインド』が何をもって大人向けと言えるのかというと、根底にある「老い」のテーマにあると考える。本作は現実時間と同じように、作中の時間も20年が経過した世界を描いている。オルフェノクの王を倒した巧たちは啓太郎の店でクリーニング屋として働いていたが、ある日を境に巧は失踪し、真理たちはオルフェノクを庇護する活動をするようになっていった。

 20年とは、生まれたての人間がいつしか成人に認められるほどの年数だが、当時10代や20代であっただろう巧や真理たちにとっては、中年に差し掛かるか否かというレベルの重みを持つ。それは演者当人の経年も含めて、彼ら彼女らが子どもたちの羨望を一身に受けるフレッシュなヒーローやヒロインではなく、人生の酸いも甘いも噛み分け生きてきた(この表現を使うのは本当に憚られるのだが)おじさんやおばさんの物語に変化したことを、観客も受け止めなければならなかった。

 乾巧は自身の夢を持てなかった代わりに他者の夢を守るために闘い、やがてはオルフェノクとしての自分も受け入れ、最後は自分の夢を言語化するに至った。真理は美容師を目指し、鍛錬を続けていた。そんな二人の夢は、この20年の空白の間に砕け散っていたことを、本作は残酷にも描き出す。自らの灰化=死を止められない巧は洗濯物を汚してしまい、真理は少女時代の夢を象徴する美容室を、外から眺めることしかできない。

「俺に言わせればな、夢ってのは呪いと同じなんだ。
 呪いを解くには、夢を叶えなきゃいけない。
 でも、途中で挫折した人間はずっと呪われたままなんだ」

 海堂が放ったこの言葉に、巧と真理は囚われていた。夢の守り人であった怪人が、ただまっすぐに夢を追っていた少女が、夢破れその思い出を断ち切れずにいる。『555』の時計の針を進めるにあたって、20年間を確かに生き抜いてきたキャラクターたちの疲弊と諦観を、しっかりと描写する。あの巧が真理に「疲れた」と吐露するシーンの切なさは、身体の節々に不調をきたしはじめる年齢に差し掛かった自分には、痛く刺さるのだ。

呪いからの解放

 それを踏まえると、本作に設けられた衝撃的な展開も、ある意味では「救い」にも思えるようになっていった。

 真理のオルフェノクへの覚醒。流星塾にいた人間として、いつかは避けられなかったそれは、胡桃玲菜によって人工的に早められてしまう。その本能に逆らえず人を襲う衝動に抗いながら、人間としての真理は、自分の異形化に戸惑い、恐怖していた。オルフェノクの味方として振る舞っていても、自身の身体の変容は恐ろしいし、何より彼女の中にもオルフェノクへの差別・排他意識は存在することの、何よりの証明であった。

 しかし一方で、身体が軽い、と覚醒したての彼女が語った通り、何やら憑き物が落ちたようにも見えるのは、彼女が人間としては一度死んだ、ということは無縁ではないだろう。真理は普通の人間としては生きられなくなった代わりに、人間であったころの執着を手放すことができた。美容師になりたいという夢も、オルフェノクを守るために自分を犠牲にしなければならなかったことも、それら全てから降りたのではないかと、そう思うのだ。

 オルフェノクとなって簡単に自死できない代わりに、自分の身を自分で守ることも、殺させることもできる。そして何より、元よりオルフェノクであった巧の痛みを知り、ようやく彼女はTVシリーズにおける彼の苦悩に思い立ったのだろう。恋仲というわけでもなかった二人が、同じ種としての身体と悩みを共有し、身体を交わす。彼女の脳裏には、木場や澤田の顔が思い浮かんだのかもしれない。

 故に、初見時あれほどまでに怒り狂った「あんたもオルフェノクになっちゃいなよ」発言も、真理の吹っ切れ具合を思えば、あながち“ない”発言ではないのかもしれない(無神経なのは変わらないが)。真理は20年に渡る旅の果て、ようやく呪いから解放された。叶わぬ夢に後ろ髪を引かれる人生は、無理矢理にではあれど終わりを迎えた。

 そう思うと、いつスマートブレインの追手が襲いかかり、いつ死ぬかも、どこに行くのかもわからない巧と真理。このモチーフは、『パラダイス・ロスト』のあの結末の再演といえるのではないだろうか。そんなことに、年の瀬になってようやく気づいた自分である。

列車は必ず次の駅へ
では舞台は?
あなたたちは?

 本作のキャッチコピーは「夢の続き 見せてやるよ―」である。しかし、巧と真理はもう夢見る少年少女ではなく、夢破れたことを受け止める中年である。では、夢の続きとは何かというと、20年越しに続編が作られ延命した『仮面ライダー555』そのものが「夢」だった、とそう結論付けたい。

 『555』の登場人物、物語、ガジェット、首が折れる音、その他数え切れないほどある作品の魅力や要素を20年間変わらず愛し、あるいはネタ的に消費してきた我々に対して、草加や北崎をサイボーグ化させてまで登場させ、そもそも絶滅が運命づけられていたオルフェノクを狩るためにスマートブレインが政府と手を組んでいる設定にしてまで、この作品を用意した。白倉大首領によって夢を見せられているのは、俺たちだ。実人生を重ねられるような舞台設定にしてまで、この作品はまだ夢を追いかけさせようとしている。

 商業的な理由をさらけ出すなら、本作が話題になって玩具が売れれば、があるのは言うまでもない。言うまでもないが、それを隠して新作を展開し、我々は諸事情を見て見ぬふりして作品を楽しむのがライダー、ひいては特撮作品の常であろう。夢破れた中年の織りなす物語をありがたく食す我々は、夢ならば醒めないでと駄々をこねるに過ぎないのかもしれない。それほどまでに、『仮面ライダー555』とは強固な憧れであり、夢だったのだ。自分だって、携帯電話を初めてほしいと思ったのは、ファイズフォンをドライバーにセットしたあの瞬間だったのだから。

 本作はクライマックスで、スマートブレインの社長は替えが効く存在であることを草加スマイルファンサ込みで見せつけた。つまり、オリジナルキャストさえ揃えば、夢の続きはいつでも見せてやるぞ―。そう受け取る余地すら感じられた。それをいつまでありがたがっていられるかはわからないが、仮面ライダー555新作!と言われて、配信まで待つか、などという態度は今後も取れるはずがあるまい。

 悔しいけれど、まだ自分は夢に浸っていたいように思える。そしてその度に、「安易に続編なんか作りやがって……」と知った風な口を叩くのだろう。なにせ、短い付き合いでもないし、感情移入できるくらいにはこちらもおじさんなのだ。その気になれば高額な玩具も買えるんだぞ?という変な自負と共に、たっくんと真理の平穏をこの世界から祈ろうと思う。

あとがき

 改めて、自分が“心スッキリ”になるためにここまでお読みいただいた方、今年の内にケリをつけるきっかけをくださったアドベントカレンダー主催者の木本 仮名太さんに、お礼申し上げます。ありがとうございました。

 前日12/10のアドベント担当は、虎賀れんとさん。数年前、彼に「あなたはアイカツスターズ!ですよ」と宣言した日が懐かしい。これは「アイカツスターズ!という作品をもっと知ってほしい」という善意と「長文アウトプッターにスターズ!を観せて吐き出されたテキストが読みたい」の下心が1:9だったわけですが、いつしか彼はスターズ!全100話をチャプターごとに分割して感想を投稿、その一つ一つが当然と言わんばかりに1万字を超えており、アタシはとんでもねーモンスターを生み出しちまったのかもしれねー……と顔面西城樹里になっています。

 12/17(火)、主催者様から感想文を頂戴しました。アドカレ参加作品の全てに丁寧な感想を残されていく木本 仮名太さんですが、その工程を著しく遅らせたのは私と私が選んだ題材にあり、申し訳ない限り。

 それはそれとして、実際に本編を鑑賞され、その上でご自身の感想まで投稿いただいたので、関係各位にはこれでチャラということにしていただきたい(?)。

と、何か父がエンタメを摂取しようとしているところをかぎつけたのか寝室から娘が飛び込んできた。PG12を3才児に見せるのは憚られ、「明日、ドラえもんを一緒に観る」という約束でどうにか娘を再び送り出す。


ブロクリ2024参加作品を読む:11日目
(ツナ缶食べたいさん「夢叶わぬ者たちへ。『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』」)

 そういえば、『パラダイス・リゲインド』はいきなり人間の手術シーン、臓器モリモリ取り出しシーンから始まる作品である。御息女に癒えぬトラウマを植え付けてしまいかねない事態であり、仮名太パパの臨機応変な対応に深謝する他ないこちとら独身男性、肝を冷やす。

 さて感想の感想ですが、私が「老い」をテーマにこの作品を飲み込んだことを踏まえ、井上敏樹という人の作家性、『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』を踏まえ“されど人生は続く”という言葉で結んでおられるのが流石で、20年を経て制作されたことの意義を一度の鑑賞で飲み込まれた読み解きに、自分にはない深みと経験値を感じてしまう。

 されとて、私は本作を良作だとか、傑作などと大きい言葉を使う気にはなれなくて、それはやはり随所に感じる作りの甘さがそうさせるのだけれど、あえて本稿には省いた。そこを的確にすくい上げるのが仮名太スタイルであり、読んでいて再び心スッキリに至れたのであった。

 ラー油ネタや「一発ヤッておけば〜」などに顕著なのだが、海堂をコメディリリーフに、あるいは極端なことをあけすけもなく言うキャラとして使うのは、違和感があった。海堂が茶化すのは主に自分の本心を隠すためで、ああいう物言いはしないよなぁと思ったし、生きるか死ぬかの瀬戸際でラー油がどうこうって、脚本なのか現場で挿入されたものなのか判断つかないが、これをおかしいと思う人はいなかったのかと、そう思うのだ。

 そういえば、完成披露上映のその日の夜に、とある方とスペースで感想を語り合った際、北崎が変身しそうな間や編集が幾度となくあったことを「ドラゴンオルフェノクチャンス」と呼んでキャッキャしていたわけだが、ネクストデルタは思いつきもしなかったし、実際にそれがあったら作品への好感度もちょっと変わったかもナ、と思う夜である。

 翌12/12(木)にはWing/手羽崎さんより、ギターに関する記事が到着しました。

 私は以前、ギターが弾けなかったというだけで一本の記事を書いたことがあり、その経験からギターそのものへのトラウマがありつつも、やはり憧れは捨てられない、そんな距離感で生きている。ギターを弾く人を見ると格好いいなぁと思うし、中学の文化祭でバンドをやってチヤホヤされる、みたいなものを一回くらい経験してみたかったのである。

 じゃあ新しい趣味にギター、いいんじゃない?と記事を読んでみる。がしかし、楽譜が目に入った途端に、脳がインプットを拒み始める。何なら、ちょっと怖いとすら思い始めている。楽譜が読めない(読みたくない)という致命的なバグを取り除かない限り、私がギターヒーローになる日は訪れないだろう。あぁ、ゴメンな、キラキラした青春、送らせてあげれなくて。

 以上、余談でした。涙を拭いて寝ます。

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