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読書感想文『氷菓』

 土曜日。おそらく7〜8年振りに、地元の図書館に立ち寄る。東京に住んでいた頃合いに利用者カードの有効期限が切れてしまい、後回しにしていた更新を突如思い立って実行したのである。ちなみに外は雨が降っていて、とにかく寒かった。

 今の今まで躊躇っていたのが馬鹿らしくなるくらい更新手続きはあっという間に終わって、さぁお楽しみの図書館巡り。サブスクに慣れきってレンタルビデオ店のお世話になることも無くなったことを思えば、これまた数年ぶりくらいとなる「ジャケ借り」をやるのだ。新書の棚、気になっている作家のコーナーを一通りチェックして、ある特集コーナーが設けられていることに気づく。「返却されたばかりの本」と手書きで書かれたPOPが添えられたワゴンには、本棚に戻される前の書物が久しぶりの実家の空気を吸っている頃だった。その中に、見覚えのあるお名前を見つけた。

 木本 仮名太さんのブログでお見かけした、米澤穂信さんのお名前。わずか200ページの、他の文庫本と比べてもスリムなそれが、なぜだか妙に目立っているような気がする。思わず手にとって、裏表紙の紹介文に目を通す。どうやら、この『氷菓』がデビュー作とのこと。

 きっと、運命に違いない。更新したてホヤホヤのカードといっしょに、貸出カウンターに持っていくことにした。

大人気シリーズ第一弾! 瑞々しくもビターな青春ミステリ!

何事にも積極的に関わらないことをモットーとする奉太郎は、高校入学と同時に、姉の命令で古典部に入部させられる。
さらに、そこで出会った好奇心少女・えるの一言で、彼女の伯父が関わったという三十三年前の事件の真相を推理することになり――。
米澤穂信、清冽なデビュー作!

https://www.kadokawa.co.jp/product/200108000110/

 省エネをモットーに生きる高校生・折木奉太郎は、海外を飛び回っている姉の手紙に従って、「古典部」へ入部する。それは、部を存続させるための名前貸しのようなものであったが、意外にも部室には先客がいた。清楚を絵に書いたような少女・千反田えるは、その見た目とは裏腹に気になったことがあれば知らずにはいられない、好奇心の猛獣(by奉太郎)であった。

 米澤先生のデビュー作ということで、トリッキーな語り口や難しい表現もなく、主人公の一人称と会話劇で基本的に進行していくため、かなり軽快に読み進められる。“青春ミステリ”というキャッチコピーの通り、殺人などの血生臭い事件は起きないし、10代の少年の自意識や周囲に対する視野のいい意味での幼さや乾ききっていないタッチが地の文を形成していくところは、自分の浅い読書歴と照らし合わせた中ではやはり新鮮だ。

 折木奉太郎という少年の、字面から感じられる若干の冷たさと、周囲に対する見下しのような態度は大人としていかがなものかと眉をしかめつつ、でも10代の自分もそういうところがあったし、一方で彼の常人離れした洞察力や土壇場の度胸、先輩や先生にはちゃんと敬語が使える社会性など、探偵役としての能力も相まって読み終える頃にはちゃっかり好感度が高くなっている辺りが巧い。一線を引いていたはずの周囲の熱にあてられて、省エネの人生から隣の芝生へ一歩踏み出し、一つの目標(文化祭)に向かってエネルギーを注ぎ込む。姉の手紙が予言書であったかのように、彼が彼なりの青春を歩んでいく、その予感と共に物語は締めくくられる。

 ところで、読んでいる最中は折木奉太郎くんの台詞を内山昂輝氏の声で脳内アフレコしていたのだけれど、調べたところによるとTVアニメ版で彼の声優を担当されていたのは中村悠一氏でありました。納得。

 折木奉太郎の青春の萌芽が瑞々しく育っていく一方、それを奪われた者の存在が明らかになっていく。正しくは、当時を知る者の「記憶」でしかないのだけれど。

 千反田えるの伯父、関谷純。神山高校を去り、インドで消息を絶った彼が一体どのような人生を歩んできたのかを、本作は描かなかった。薔薇色の青春を歩むことも、同級生と卒業の喜びを分かち合うことも許されなかった関谷の心中を、米澤先生は「説明」することを避けた。その代わり、彼の行いを英雄譚として祭り上げ、美化した上で蓋をした者たちの行いを“欺瞞”と、福部里志の口を借りて断ずる。

いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。

一九六八年 十月十三日
郡山 養子

 犠牲いけにえになった関谷純の人生は、他者によって英雄譚、すなわち「物語」にされてしまった。学校の伝統を守り抜き、学び舎を去った英雄。仮にこの物語が国語の教材になって、「この時の登場人物の心情を答えよ」という問題があったとしたら、どうだろう。問題があるということは、模範解答があるということになる。関谷純ではない、他の誰かが定めた登場人物関谷純の心情の模範回答。物語に「される」ということは、暴力性を帯びているのかもしれない。刺激的なゴシップが飛び交う2020年代においても、本作(初版2001年)は切実な訴えとして刺さる。古びれないものこそ、古典と呼ばれるのだろう。

 それを思えば、『氷菓』という文集の題名に込められた想いも、関谷の口から明言されたものではない以上、奉太郎の想像であることには変わりない。口当たりのいい「物語」にしてしまったという意味では、これもまた欺瞞なのかもしれない。ただし、奉太郎らが必死になって情報をかき集め、推理の上で導き出した「答え」は、少なくとも千反田えるを救うものではあったのだろう。伯父の言葉を受けて流れた涙の意味を思い出したいと、そう願い続けてきた千反田えるの謎は、奉太郎との偶然(あるいは謎多き折木姉の策略)の出会いによって紐解かれる。物語から受け取った感情は、他者の改変も介さない、彼女だけのものである。遺体のない墓の主も、これで救われたのなら何よりだ。

 そういえば、謎や疑惑が解消しすっきりすることを表す言葉として、「氷解」という言葉があるではないか。それも織り込み済みでタイトルを思いついたのだとしたら、米澤穂信先生にしてやられた気分だ。心地いい敗北感と共に、シリーズの続刊を求めて再び図書館を訪れることを、ここに予告しておこう。

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