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総評『ウルトラマンティガ』混沌とした時代を明るく照らす、人間賛歌の物語。

 『シン・ウルトラファイト』目当てで加入した、ウルトラサブスクでおなじみ「TSUBURAYA IMAGINATION」、そのまま退会することなく続けてはいたものの、折角ならオタク・インプットに役立てたいと思い立ち、令和なのに『ウルトラマンティガ』を全話視聴してみました。

 個人的なウルトラ原初体験であるティガ。物心つくかつかないかの時期に放送が始まった新時代を築くニューヒーローは、土曜の夕焼けや晩御飯の匂いとセットで思い出せる、望郷の彼。すでに好物を恐竜や怪獣といった巨大生物にシフトさせていた幼少期に、ブラウン管を通して描き出される光の巨人と大怪獣のスペクタクルは眩しく映り、未だに好きなウルトラマンを選べと言われれば即座に「ティガマルチタイプ」と返せるくらいには、衝撃的な体験でした。

 ところが、「作品としてのウルトラマンティガ」を意識して向き合ったのは、今回が人生初のこと。不朽の名作として論じられながら、幼さ故に覚えてはいないし理解も出来ていなかったため、云わば今回の視聴は「既知なのに初見」という世にも珍しい視聴体験。とくにドラマ面や作品メッセージを自分なりにまとめた、全話総括になります。ずっと憧れていた、大好きなヒーローとの「再会」に、是非お付き合いいただければ幸いです。

 ウルトラマンティガ。履修が20話を越えて気づいたのが、各エピソードのバラエティの豊かさ、ひいては現行の地上波ウルトラシリーズである「ニュージェネレーション」とのそもそもの構成の違いである。

 50話近くを有する大河ドラマの趣がある平成三部作と2クールで完結するニュージェネ、話数におよそ二倍の開きがある以上、描けるドラマの厚さにも当然差が生じる。そのためニュージェネでは、ウルトラマンサイドと対立するヴィランを早々に登場させ、その対決を縦軸として進行させつつ、個々のエピソードをこなしていく。『オーブ』ならジャグラス・ジャグラー、『ジード』ならベリアルや伏井出ケイといったキャラクターが序盤から暗躍して、何度も剣や拳を交えながら争い、時に共闘し、そのエモーションを高めていく。24話という話数でストーリーを語りきる必要があるため、連続ドラマとしての進行速度を上げるべく方向転換をしたのが、ニュージェネの特徴の一つと言えるだろう。

 対する『ティガ』は、物語構造は昭和ウルトラマンのそれを踏襲している。各話ごとにユニークな怪獣や宇宙人が登場し、ウルトラマンがそれを打ち倒す。そのフォーマットの下、地球の原生生物から宇宙人の挑戦、悪魔に鬼に妖怪にと様々な敵が登場し、防衛軍にあたる「GUTS」の隊員たちも全力でその退治にあたる。物語のテイストも牧歌的なものから死傷者多数のハードなもの、SFやコメディに振り切った話数もあれば、怪獣と闘うことの正当性や人間の愚かさに頭を悩ませる硬派なものまで、1話ごとに全く異なるワクワクと余韻を与えてくれる。

 子ども向けを子供だましにしないための真摯な番組作りは、新時代のウルトラマンを盛り上げようという作り手の熱意が伝わってくるし、かと思えば名監督・実相寺昭雄を招聘して作家性ゴリゴリの演出を突然放り込んでくるなど、旧来の円谷特撮ファンへの目くばせも抜かりない。

 ウルトラマン、というより円谷特撮ならではのバラエティ豊かなオムニバス劇を、52話という潤沢な話数で展開させていく『ティガ』は、全話を振り返るとひと時も退屈したことがなかった。序盤こそ不自然なシーンや演技が目立つものの、早くも3話にして人気怪獣キリエロイド(とキリエル人)が登場し、ティガから人々の信仰を奪おうとする宗教戦争が描かれた。『大怪獣のあとしまつ』公開時に特撮ファンの間で比較対象として扱われた第5話『怪獣が出てきた日』は、わずか20分弱の尺にも関わらず怪獣の死体処理という難題に付随する各種問題を描き切った。実質三部作として扱うべきクリッターとガゾート周りの物語は、進むにつれて人間が自身の生活を守るために他の生物を排除する傲慢さを浮き彫りにしていく。

 その一方で第21話『出番だデバン!』のように怪獣そのものが可愛らしいエピソード、第27話『オビコを見た!』や第29話『青い夜の記憶』のように切ない余韻を残すエピソードもあり、とにかくジャンルの幅広いティガ。話数の多さはいわゆる「主役回」の充実にも繋がり、我らがGUTS隊員のパーソナリティはかなり手厚く描写されていた印象を受ける。これにより隊員一人一人の個性を浮き彫りにするだけでなく、彼らがチームワークを発揮して作戦にあたり、時には気の抜けた雑談を交わすなどして、疑似家族のような暖かさを強調したことは、後述するダイゴが「なぜウルトラマンとして闘うのか」の動機にも説得力を与えている。

 こうしたバラエティ豊かな作風の中で、仮に12話を1クールと区切った際、『ティガ』の2クール目以降は視聴者の思考を促す問題提起を次々と打ち出していった。キリエル人との再戦となる第25話『悪魔の審判』では、キャッチーな言葉に先導されやすい民衆の愚かさと、ティガが人々の心の光を受けて復活する様子が描かれ、ウルトラマンといえど無敵の超人ではない、主題歌の歌詞を借りるのなら「一人きりじゃ 届かない」ことを強調した。第28話『うたかたの…』はクリッター三部作の完結にして、「なぜウルトラマンとして闘うのか」という問いに主人公のダイゴが直面し、一つの答えを得る。かと思えば第30話『怪獣動物園』では怪獣と動物の違いに焦点を当て、人間に害をなす巨大生物を無条件で殺害することへの疑問符を投げかける。間をあけて38話『蜃気楼の怪獣』では「怪獣出現の際の民衆の動きを観測するために存在しない怪獣の噂を流す」という人間まで現れる始末。

 キリエル人との闘いでは人々の信じる心がティガを復活させ、その一方で人間が怪獣を殺す是非と弱き心が怪獣を呼ぶのではという問題が提示される。これらのエピソードが連続する中盤から後半にかけては、それこそ『セブン』のような簡単に答えを出せない深い問いを投げかけ、ある種の「ウルトラマン論」にまで波及している印象を受けた。ウルトラマンはなぜ闘うのか、毎話怪獣を“殺す”というシリーズのお約束のフォーマットにメスを入れながら積み重なっていく物語は、ダイゴにウルトラマンティガとして力を振るうことの意義を突き付けてくる。

 怪獣も一つの生命として描き、時に慈しみの視線さえも感じさせるエピソード群、とくに小中千昭、川崎郷太、太田愛(敬称略)の脚本回に共通する問題意識は、『ティガ』という番組を通じてウルトラマンそのものを相対化する試みだったのではないかと、考えてしまう。人々を理不尽な脅威から救う神的な存在たるウルトラマン。その在り方に「?」を投げかける作品全体の意識の高さは、個人的には嫌いな表現だが“大人の鑑賞に堪える”クオリティを保っている。

 それに呼応するかのように、第39話『拝啓ウルトラマン様』では常人ならざる能力ゆえに人間社会では孤立するしかなかった超能力者の青年キリノを、同じく超人的な能力を持ちながらも人々から愛され求められるティガの影として登場させつつ、ティガであることを打ち明けられないが故に孤独に傷つき悩む等身大の人間・ダイゴの姿を切り取った。

 イーヴィルティガ回こと第44話『影を継ぐもの』では、同じ光を身に纏いながらも、その光によって狂ってしまったマサキ・ケイゴを通じて、正義の巨人・ティガも一歩誤れば破壊の化身に堕ちてしまっていた可能性を直視させる。その人の素質や心根によって正義にも悪にも転じうる力は、人間の清廉さと危うさの表裏一体だ。しかし、物語はその複雑さを受け入れながらも、ウルトラマンティガがマドカ・ダイゴであること、いや、人間であることを尊いものとして決着させたことに美しさが宿っているのだと、今回の視聴で確信に至った。

 第45話『永遠の命』では、古代文明の滅亡した理由が明かされる。強い幻覚作用を持つ巨大植物ギジェラの花粉によって、古代の人々は夢の世界に耽溺し、争いのない世界で光の巨人はその意義を失う。光の巨人は人々を守る神的存在ではあったが、その基本スタンスは「人類の選択には干渉しない」であり、滅びに向かって突き進む古代人を残して地球を離れた。そして現代、蘇った光の巨人・ティガは、人間・マドカダイゴでもあり、彼の意思によってウルトラマンティガは駆動する。

 繰り返される怪獣や宇宙人の出現。傷つき、悩み、時に人間に裏切られることもあった長きに渡る闘い。それでも彼がティガであり続けたのは、大切な人を、愛する人を守りたいという、とてもミニマムでささやかな、一人の人間の願いによるものなのだ。ウルトラマンという絶対の正義に則るわけでも、型通りのヒーロー論でもない、「GUTS」という仲間(家族、と読み替えてもいい)を守るために、ダイゴはティガになる。ダイゴは人を愛する心を持っていたからこそ、悪(イーヴィル)には染まらなかったのだ

 『ウルトラマンティガ』は、バラエティ豊かなエピソードの集合体という話をした。が、その全52話を繋ぐ物語の縦軸とは、GUTSという「仲間」を描き切った珠玉のエピソードの連なりなのである。

 シリーズ初の女性隊長イルマは仕事と育児の両立で苦悩し、ムナカタ副隊長は優れた判断能力で現場を引っ張るもその実下戸だったり、ホリイ隊員は天才的発明で仲間をサポートする。射撃のエキスパートことシンジョウ隊員は妹や子どもたちとの触れ合いが印象的で、若きヤズミ隊員は拙いながらも現場での任務で急成長を遂げていく。そして、ダイゴへの想いや怪獣を含む生き物全般への優しさを見せ、思いやりの光でダイゴに希望を与えたレナ隊員。

 彼らはただウルトラマンに守られる脆弱な人間などではなく、自分たちの武器や創意工夫で怪獣や侵略者たちと闘い、人々の安寧を守るために命を削る戦士たち。そんなGUTSが諦めずに困難に立ち向かうからこそ、ウルトラマン=ダイゴは彼らを「守りたい」と思う。そのことに気づくまでを丹念に描いていく『ティガ』、あくまで「ウルトラマンの力を持つ一人の人間として」のダイゴの在り方を「光」と呼ぶ本作は、最終章でそのエモーショナルを爆発させる。

 超古代文明を滅ぼした邪神・ガタノゾーアとの決戦に敗れ、石像に戻ってしまったティガ。人類が再び滅亡の危機に瀕するその時、人々の決死の想いがティガに光を与え、光そのものを思わせる神々しい姿となってティガは蘇る。人類の進歩の象徴たるマキシマ・オーバードライヴが、一度闇に堕ちたマサキの協力が、世界中の子供たちの祈りが、ダイゴを愛するレナの心が、光となってティガに届く。人間・マドカダイゴがウルトラマンであることに重きを置いた本作は、その結末として「人は誰でも光になれる」に着地する。

 穿った見方をすれば、1995年は大災禍やテロが人々を襲い、理不尽な暴力は世紀末の閉塞感を加速させていったという。そんな世の中においても、人間の意志や想いの強さを信じ、絶望を跳ね返す力があることを訴えかけたクライマックスは、誰もが誰かの希望=ウルトラマンになれるという応援歌だったのかもしれない。希望の光を受けて、それを人々に還すことで、『ウルトラマンティガ』の物語は幕を閉じる。

 『ウルトラマンティガ』全52話、改めて、とっても面白かった、という言葉に尽きる。多様なジャンルを有するSF短編集であり、優れた群像劇であり、人間賛歌でもある。そしてそのどれもが、この地球で人間として生きることから生じる問題や不和を怪獣の姿を借りて描きつつ、未来や光といった人類の可能性を信じる者たちが「それでも」を貫き続ける。決して全ての問題提起に回答が与えられるわけでもないが、考え続け、挑み続けることが大切なんだと、『ティガ』は子どもたちに前向きなメッセージを送る。

 主題歌「TAKE ME HIGHER」の歌詞を抜き出すと、「いつかは届くきっと 僕らの声が」「世界を変えてゆける 時代を超えて」とある。これが『ティガ』という作品の精神性を表しているようで、この曲が最終決戦に流れるのは決して特撮番組のお約束だからという理由ではなく、これこそが作品の真であり神髄なのだから流したのだと、思わずにはいられない。たとえ弱くて愚かでも、人間は他者を想い愛することができる。そしてその輪が絶望を振り払い、きっと世界をより良くしていく。

 奇しくも、『ティガ』放送当時の95年と同様、あるいはそれ以上の混乱と怨嗟が蔓延する令和の世。忘れがちではあるのだが、人の心に光を灯すのは、やはり人なのである。『ティガ』のキャスト・スタッフが送り出した、人間の光を信じる神話は古びるどころか、むしろ今の世の中に必要なものになっているのかもしれない。不朽の名作と称される『ティガ』、その名声に違わぬ傑作であることを私個人も確信して、その充実感と共に筆を置こうと思う。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。次は『ティガ』を受け継ぐ令和の光こと『トリガー』に、改めて向き合ってみようかと思います。

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