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読書感想文『ふたりの距離の概算』

 運動にまつわるすべてにおいて落第、恥をかき続けた青春時代の思い出が、ふと蘇る。校外にお邪魔してのマラソン、あるいは持久走というやつは、近隣住民の皆々様にご迷惑おかけしてまでやらねばならないことなのだろうか。そうした愚痴も、後からスタートした生徒に横切られて、消えてゆく。自分がゴールする頃には、同級生の息はもう整っていて、下級生にすら体力面で劣っていることをクラスメートに知らしめる、忌まわしき行事であった。

 しかしして我らが名探偵(当人はそう呼ばれるのを嫌っているらしいが)折木奉太郎殿は、走りながらでも謎を解くバイタリティがあるらしい。里志でなくとも、劣等感が膨れ上がりそうだ。

 二年生へと進級した折木奉太郎は、毎年の学校行事であるマラソン大会、「星ヶ谷杯」にて20kmという距離を走らされていた。しかしその間、彼にはどうしても気がかりなことがあった。先日の新歓でめでたく古典部への入部を希望した一年生の大日向友子は、星ヶ谷杯の前日になって入部を取りやめると言い出した。「千反田先輩は菩薩みたいに見えますよね」という謎の言葉を残して。

 大日向の入部辞退の理由は何だったのか。奉太郎はこれまでのやり取りを思い出し、摩耶花や里志、えるから情報を得て、その真相を推理していく。全ては、このマラソン中に片づけなければならない。走りながら考える、青春ミステリーの開幕だ。

 前作『遠まわりする雛』の感想にて、彼らが二年生へと進級し、個々人の価値観や人間関係にも大きな変化が訪れる、その萌芽を幻視したけれど、それはあながち間違いではなかった。摩耶花は漫研を退部し、里志はついに摩耶花の気持ちを受け止めたらしく、土日は慌ただしい日々を送っているとか。そして奉太郎は、以前よりもえるを意識しているようだ。大日向を傷つけてしまったと責任を感じるえるを救おうと必死になる姿は、古典部に入る以前の自分が見たら、さぞ驚いたことだろう。

 本著のミステリーは、大日向友子が古典部入部を突然辞退したその理由にあり、常に彼女の名前が中心にある。とはいえ、奉太郎の謎解きの初期衝動はえると大日向の間にある誤解を解きほぐすことであり、大日向は言ってしまえば謎を提供する舞台装置に過ぎない。謎を解いたはいいが、奉太郎(あるいは古典部)は、彼女を救うには至らない。そこが高校生としての限界であり、『古典部シリーズ』のミソであるように思える。

 大日向の“友達”は、お金持ちである祖父から大金を騙し取っているらしい。それはその“友達”の家庭内で解決すべき事案であり、大日向はもちろん、古典部もそこに立ち入るべきではないし、何の責任を負う立場でもない。だが、そう簡単に割り切ることも出来ないのが人情であり、大日向はそのことに苦しんでいる。事情を知らなかったとはいえ、えるの言葉は大日向の一番踏ん切りがつかない悩みを刺激し、大日向は「壁」を作り出してしまった。全ては、不運なボタンのかけ違いだった。

 しかしこの一年。全てではないとはいえ、いやほんの一端に過ぎないとはいえ、俺は千反田のことを知った。千反田の叔父の話を聞いた。ビデオ映画の試写会に連れて行かれた。温泉宿に合宿に行った。文化祭で文集を売った。放課後に下らない話をした。納屋に閉じ込められた。雛に傘を差してやった。
 だから、違うと思った。

文庫版,p223

 一年を通して、奉太郎は千反田えるという人を知った。知ってしまった。だから、彼女が意図して大日向を傷つけたわけがないと、その前提から推理を稼働させる。探偵役としては全ての事実を元にフラットに考えるのが定石だろうが、今の奉太郎にはそれができない。できないことが、省エネ気質であった彼にとっての成長を意味するとは、青春ミステリーかくあるべし、ということなのだろうか。彼がしきりに「探偵役」を気取ることを避けてきたことも、ここに接続される。

 マラソンという、身体的にもかなりのエネルギーを消耗する行いの最中に、頭をフル回転させ真相解明に挑む奉太郎。一年前であればあり得なかったような行動を選び取らせたのが千反田えるの存在であり、彼が今回の事件から学校の「外」について思考を巡らせるのも、えるが社交的な場に最も晒されているからであろう。千反田の家名を守り、それに相応しい態度で行事に臨み、やがては地元に奉仕することを暗に期待される立場のえる。それに対し、自分はいつまでも「内」にこもっていていいのか、と。

 えるに並び立って歩くには、何が必要か。それを意識的か無意識かは悩ましいが、少しずつ意識するようになった奉太郎。寒い冬を抜け出して今は春、「外」と他者にも積極的にかかわろうとする彼の変化は、えるとの距離にも影響を及ぼすであろう。今の概算も、きっと次の巻ではより縮まっているに違いない。

 大日向友子を真の意味で救うには至らなかった。その苦い結末を受け止めつつ、春の予感は未だ継続中。彼らの青春の行く先を、何としてでも見届けたいと、強く願わずにはいられない。

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