奇跡なんてものは、最初から存在しない。『Fate/Zero』(アニメ)
本作『Fate/Zero』は2011年10月より分割2クールで放送された、『Fate/stay night』のスピンオフ作品のアニメ版。『stay night』で断片的に描かれた10年前の出来事、第四次聖杯戦争の詳細が語られる。
獲得者の願いを叶える「聖杯」を求め地方都市・冬木市に集う7騎のサーヴァント(英霊)とそのマスター(魔術師)たち。その中には、『stay night』の主人公である士郎の養父となる衛宮切嗣(えみや きりつぐ)と、その戦いで監督役を務めることになる神父、言峰綺礼(ことみね きれい)の姿があった。かくして、謀略と血にまみれた闘いが幕を開ける。
感想(ネタバレ含む)
前提として、本作で描かれたのは、「聖杯」とは手にした者の願いを叶える万能の願望機「ではない」ということ。その杯に満たされるのはただの呪いであり、獲得者の願いを破滅的な形でしか成就しえない、というどうしようもない事実。同時に、獲得者の想像し得ない、知らない形での成就は認められない。例えば、300人が乗る船と200人が乗る船が同時に沈みそうな目に合っているとして、500人全員を救う方法を思い描けぬ者がどれだけ懇願しようと、聖杯はその願いを聞き入れることはない。聖杯はどんな望みの受け皿などではなく、魔力を携えた文字通り「器」でしかない、というのだ。
伝承の英霊が集い、魔術が存在する世界。そんな世界においても、全ての願いを叶える超越的な概念など存在しない。その事実を知った時の絶望は、どれほどだったろうか。奇跡に縋ったほどに、その絶望は大きくなる。とてつもない無常と諦観が、作品全体を覆っているかのようだ。
その希望と絶望の合間で翻弄されていくのが、主人公である衛宮切嗣。大を生かすために小を犠牲にすることで培われてきた彼の願いは、「正義の味方」になること。どんな絶望的な状況でも窮地に陥った人々を救う力、300人のために200人を切り捨てるのではなく、500人全員を救う力を求めてきた男。そのためなら他のマスターも、妻の命さえも犠牲にする覚悟で挑んだ聖杯戦争だったが、結果として非情な現実を突きつけられることとなる。
この世に、全てを救う奇跡など存在しない。ヒーローは物語の中でしか存在しえない。遠く思い求めてきた切嗣の理想は無残に砕かれ、冬木の街は大火に包まれる。こんな悲惨な結末があっただろうか。切嗣に命を救われ生き延びた士郎もまた歪んだ正義感を志してしまうのだが、その顛末は10年後を描く『stay night』で語られる。後付けの前日譚である本作と『stay night』では、希望と絶望の天秤の傾きが正反対であることも、作者の狙いであるのかもしれない。
諸悪の根源たる聖杯戦争。本来は魔術師が目指す最終到達点であるところの、万物の「根源」の解明に至る儀式のために、多くの人の人生が狂わされた。アイリスフィールは「器」としての人生ゆえに愛する人のそばに居続けることも叶わず、間桐桜は養子として家族と引き離された挙句蟲に凌辱され、間桐雁夜は桜を救うために命を投げ打つこととなる。その他にも、第四次聖杯戦争によって引き起こされた悲劇、失われた命は枚挙に暇がなく、誰もが悲しい未来を受け入れなくてはならない。
そんな中、数少ない希望を勝ち取ったのは、ライダー=イスカンダルのマスターであるウェイバー・ベルベット。自信過剰でもあり小心者の彼の目的は、聖杯戦争で武勲を立て周囲を見返すこと。魔術師としての歴史が浅くコンプレックスを抱えたが故の、他者と比べたら軽率と言わざるを得ない理由で殺し合いに足を踏み入れたものの、聖杯に託す願いのない彼は破滅することはなかった。征服王イスカンダルの王としての器、カリスマに影響を受け、そのマスターではなく「臣下」となることで生き方や価値観を改め、前向きに生きようとする姿が、最終回に描かれた。全ての希望が打ち砕かれる陰惨な『Zero』において、ウェイバーとイスカンダルのやり取りは唯一の清涼剤と言っても過言ではなかった。
そしてもう一人、聖杯戦争によって新たな生き方を得たのが言峰綺礼。生きる目的も願いもなく、何を習得しても得られぬ満足感。マスターに選ばれた理由さえ定かではないほどに無欲で、自身の本質を理解できぬまま遠坂時臣の駒として暗躍していた彼は、師である時臣を裏切り、ギルガメッシュと契約したことで、己の本性を悟る。それは、他者の苦痛こそを「愉悦」と感じる心。聖杯にため込んだ呪いを浴びて蘇生した綺礼の行く末は、これまた『stay night』で描かれる。「この世全ての悪」の降誕を願うラスボスの誕生秘話が本作で語られた。
衛宮切嗣の正義の理想は潰え、虚無を生きた言峰綺礼は呪いによって悪に染まる。悲観的で、絶望的で、どうしようもないバッドエンド。聖杯を願う者は誰もが救われないという、聖杯戦争の正体と本質がついに明かされた。これを突き付けられてなお、聖杯を求め殺し合うキャラクターたちを応援できるだろうか。全シリーズの根幹に関わる、重要な一作であった。
劇場映画と見まごう美しく破綻のない映像、梶浦由記による荘厳な楽曲など、TVアニメとしてとても贅沢な一作でありつつ、鑑賞には相当な体力と忍耐を要求するため万人には薦めがたい。とはいえ、イイ声した目が死んでるダンディーなオッサンがいっぱい出てくると言えば、琴線に触れる人も多いだろう。どれだけ救いが無くとも、アニメといえど現実を描くならこうもなろう、という諦観が伝わる、教訓めいた鑑賞体験になった。