役割を選ぶ正義、役割に縛られる闇。『烈車戦隊トッキュウジャー』10年越しの帰郷。
先日、『遊☆戯☆王』周りを全部終えたので、次は短めの作品でも観るか、ということで、『烈車戦隊トッキュウジャー』を再び1話から観てみた。
そう、恐ろしいことに、この身体はすでに47話程度では「短い」としか感じないようになってしまっている。
※以下、『烈車戦隊トッキュウジャー』のネタバレを含む。
なぜ今さらトッキュウジャーなのかといえば、中盤に明かされるギミックを知った上で最初から再走すれば、新しい発見があるのでは?という数年前の思いつきを、今回ようやく実行に移した、というわけである。
そのギミックとは、トッキュウジャー5人が「実は子どもである」という真実。大人の身体で、トッキュウジャーとして闘う戦士たちはしかし、その実10歳の子どもであり、レインボーライン総裁によって大人の姿に変えられていた姿が、我々の見慣れたライトたちなのである。しかも、彼らはシャドーラインとの闘いの中で闇を身体に取り込んでしまい、このままトッキュウジャーを続ければ子どもに戻れなくなり、故郷・昴ヶ浜にいる家族の記憶からも消失する、という残酷な真実も明らかになる。
このことを念頭に置いて観ると、例えば序盤でサポートレッシャーを捜索する回などでは必ず「烈車は子どもにしか見えない」ことが誰かしらの口から発せられ、ライトたちがその駅周辺の子どもたちに聞き込みをするシーンが描かれる。ではライトたちはなぜ烈車が見えているのかといえば「トッキュウジャーになれるほどイマジネーションを持つ5人だから」と、こちらが勝手に補完をして飲み込んでしまう。そうした思考の盲点を突くからこそ、中盤の種明かしがよりショックを与える構図として活きてくる。
思えば、序盤でライトが川で魚を捕ることに抵抗がないのも、彼らが遊園地を訪れ異様なまでにはしゃいでいたのも、全てはこの真実に繋がっていく。幼馴染5人がその体躯に似合わぬ幼さを作中で発揮すれば、違和感を抱きこそすれ、本作が日曜朝放送の子供向け番組であるという認識が無意識に真実から遠ざける。その積み重ねが充分に高く積もったその時、これまでの価値観が覆される。この辺りは、宇都宮P×小林靖子脚本の『シンケンジャー』コンビにまたしても一本取られたような痛快さがある。
して、スロースターターな印象のある『トッキュウジャー』は、このエピソードを境にぐんぐん面白さを増していく。
子どもに戻れなくなる、という最大のリスクを背負ってでもトッキュウジャーを続けると決断するライトたち5人の頼もしさと、それはそれとして子どものままではいられない切なさが話数を重ねる度に深刻となっていく。車掌やワゴンさんが視聴者サイドのそんな想いを代弁し、彼らのためにクリスマスパーティーや忘年会などを企画してあげる健気さが胸に染みる。最終戦を前にして「今の姿では家族に自分だとわかってもらえないのでは?」という懸念は、彼らにとってはシャドーラインよりも恐ろしかったに違いない。
そして、オリジナルメンバー5人が幼馴染であるからこそ、同じトッキュウジャーではあっても完全にそこには同化できないトッキュウ6号=虹野明が彼らの保護者役を(意識的か無意識的か)務めるようになり、元はシャドーラインにいたザラム=明がいつしかこんなにも人間くさくなっていたことも、涙腺を緩ませる。自分以外を子どもに戻し、一人最終決戦に向かうライトを追いかける4人の子どもたちを、身体を張ってせき止める明のシーンは、何度観ても男泣きしてしまう。ライトたちから貰った「虹野明」という名前を大切に想い、そして虹を見て笑顔を見せる彼もまた、光のイマジネーションの持ち主であったのだ。
ところで、これは余談……というか『合体スペシャル』なるものがあったため気づいたのだが、本作はなんと半年間とはいえ『仮面ライダー鎧武』と並走していたことに、運命的なものを感じる。『鎧武』もまた、とある残酷な真実によって「子どもが子どものままではいられなくなる」作品であり、無邪気さや無責任であることが許される時期を、自らの意思で脱しなければならない若者の物語であったからだ。
無論、『鎧武』と『トッキュウジャー』では置かれた状況も、その深刻さもやや違う層ではあったかもしれないが、小林氏が手掛けた『龍騎』に衝撃を受けた虚淵玄氏が書いた『鎧武』が、時を経て『トッキュウジャー』と並んで走っていたことを思えば、2014年の日曜朝はなんと刺激的で奇跡的な時間だったのだろうと、オタクが勝手に感慨深くなってしまった。
して、今回の再走で最も予想外だったのは、ラスボスにして最大の強敵こと闇の皇帝ゼットに、放送当時には得られなかった気づきを感じてしまったことだった。
シャドーラインの頂点に君臨し、最も深い闇を持つゼット。しかしその本質は常に“キラキラ”を求め、闇とは正反対の輝きをライトやグリッタから見出し、それを自分のものにしようとする、不思議な人物であった。容姿は大人なのに、キラキラを求め周りの大人(シャドーライン幹部)の意に沿わない行動を続けるゼットはトッキュウジャー同様に幼く見えて、その純粋さは悪一辺倒とも思えない深みがあった。
ゼットは作中何度か意識されるように、ライトとは鏡合わせのようなキャラクターであった。彼の言うキラキラとは、トッキュウジャーたちの力の源であるイマジネーションのようにポジティブなものであっただろうし、つまりは運命さえ違っていればゼットもトッキュウジャーになれたかもしれない、という可能性を想像を働かせる余地すら感じたほど。しかし、結果として彼は6人の絆が乗り継いだトッキュウレインボーに敗れ、グリッタと共に闇に帰る結果となってしまった。
キラキラを追い求め、それが手に入らない苛立ちに悩まされ、どんどん闇として強大な存在と化していくゼット。なぜ彼がトッキュウジャーになれなかったのかと思い紐解いていけば、そういえば常に彼は周囲から「皇帝陛下」と呼ばれていたことに気付かされる。ゼット様ではなく、立場にして役割である皇帝、の名で呼ばれ続けた彼は、光に転じることを周囲から許されない環境にいたから、ゼットはあのような結末を迎えたのではないか。
そう思うと、ある意味でトッキュウジャーの彼ら以上に残酷な運命を背負っていたのは、ゼットなのかもしれない。ライトたちはトッキュウジャーという責務を捨てて子どもに戻る選択肢も用意されていたし、何より4人が(トッキュウ1号ではなく)ライトを求めてレールを繋いだからこそ、トッキュウレインボーという奇跡を導き出せた。
その一方で、シャドーラインは常に「闇の皇帝」としての役回りをゼットに期待し、グリッタを除く幹部勢は誰一人として彼個人の望みや願いに思いを馳せたりはしない。そんな環境に居続けたゼットは、光を繋ぐことも許されず、ただ闇として生きるレールしか残されていなかった。キラキラは闇があってこそ光り輝くもの、というグリッタの最後のセリフは、捉え方によってはゼットが闇である限り自らは光を手にすることは出来ない、という絶望を与えるのではないか。そんな危惧を抱いてしまうほどに、ゼットはビターな終わりを迎えるのだ。
ゼットは人間態の時、紫のスカーフを身にまとっていた。紫は、虹を構成する7色の内の一つである。虹色のレインボーラインに交わる資格を与えられず、光を際立たせる闇であり続けなければならないゼットの心は、いつか癒やされるのだろうか。生まれながらの宿命や周囲からの期待に縛られ、闇の中でしか生きられないゼット。一緒に闇へと帰ることになるグリッタは、ゼット同様に「皇帝の花嫁」という役割を押し付けられてきた存在で、彼の苦しみに共感できるのは、もう彼女しかいないのだ。
今となっては、二人を縛る者は、誰もいない。グリッタとゼット、闇に生き、しかし自由となった二人が、いつかは自分なりの幸せを、キラキラを手にするかも知れない。そう思ってないと、あまりに救いがない、シビアな話になってしまうからだ。悪ではあれど憎みきれない。そう思わされた時点で、闇の皇帝ゼットも名悪役の一人に数えられるだろう。
最終話、トッキュウジャー5人は無事に家族の元へ帰り、明や車掌たちと別れそれぞれの人生を歩むことになる。これも、イマジネーション=無限にも近い想像の力を育み、それを信じて戦い抜いた彼らへの「ご褒美」なのだろうし、彼らが子ども時代を奪われることなく過ごせる事自体が、何よりも尊いハッピーエンドに他ならない。
奇しくも10周年を迎え、演者のスケジュールの都合とやる気さえ噛み合えば続編Vシネマもあり得なくもない頃合いだが、トッキュウジャーは『クウガ』ばりに彼らが再び命の危険に晒されるなんて見たくない!と思ってしまうタイプの作品である。何なら、トッキュウジャーに変身しないタイプの続編を作ってしまっても、良いのではないだろうか。彼らが再び再会し、居酒屋で10年前の闘いを振り返ったり、仕事の愚痴とか話したり、メンバーの何人かは左手に指輪が嵌めてあって、みたいな。
『烈車戦隊トッキュウジャーVSキョウリュウジャー THE MOVIE』
前年の『キョウリュウジャー』との共演作。公開は2015年1月で、『トッキュウジャー』としては最終回を翌月に控えたあたりの時期の公開。
『トッキュウジャー』としては例の「実は子どもでした」ギミックが開示済みなので、それを活かしての子どもトッキュウジャーが登場。子ども時代の彼らが小さい身体のまま変身する面白さはあれど、そこはあくまで1ギミックとしての扱い。本題は、一つ一つの駅を開放するというミクロな闘いをしてきた彼らが、地球全土を守る強大な闘いに臨まなければならない、という覚悟を決めること。
それに対して映像のスケールが追いついてない惜しさは否定できないけれど、これまでの『トッキュウジャー』にはなかった葛藤は斬新で、確かに地球の命運や全世界の人の命など、10歳の子どもたちには到底背負いきれるわけがない。そのことに恐怖を抱いていることをライトまでもが告白しつつ、しかしキョウリュウジャーが闘えない今、自分たちがやるしかないとこれまた大いなる責任を引き受ける姿に、TVシリーズ最終話まで見届けた身としては親心が湧いてしまう。怖いなら逃げてもいいのよ、と言ってあげたくなる。
そんな想いを知ってこそ、ダイゴや先輩戦隊キョウリュウジャーの、なんと頼もしいことよ。史上最大のブレイブを掲げる勇者6人の戦隊は、それこそ死線を何度も潜って来た最強のヒーローチーム。ド派手で格好良くて、そして何より無類に強い。そんなキョウリュウジャーが、怖くても闘うことから逃げないトッキュウジャーの勇気を認める、という流れはアツく、「遠足」というワードを通じて両者を繋げた台詞回しも巧い。
久しぶりのキョウリュウジャー、 いやキングオージャー周りが最近あったけど、やっぱ嬉しいよ。デーボスの創造主がこんな格の低い扱いでいいのかとか、スケジュールの都合なのか生身のメンバーの出番が少なくて物足りなさがあるのだけれど、マスクオフで変身口上やってくれたり、キャンデリラとラッキューロもしっかり活躍したり、バイオレットやシアンにグレーも登場する大盤振る舞いで、爆発が過剰なのもキョウリュウジャー印。ウッチーがちゃんと要所で笑いも取っていくのもズルい。
で、一番のサプライズがヌルっと出てくるニンニンジャーではなくシャドーラインが最終決戦にて味方として参戦すること。前述のTVシリーズの感想で書いた通り、ゼットは環境さえ異なればトッキュウジャーになれたかもしれない存在として勝手に見なしていたところがあったので、こういうifが観られて本当に嬉しい。場の雰囲気にノせられて口上をキメるネロ男爵も、本編のギスギスさを忘れさせてくれるいい塩梅のギャグ。もっとトッキュウ1号と背中合わせになるとかヒロイックな画を観せてほしかったけど、本作も小林脚本なので、こういう役回りが用意されただけで個人的には成仏できた。
……でもやっぱりさぁ、エンディングはトッキュウジャーメンバー(大人・子ども)と関根さんもトッキュウジャーダンス踊って映画が終わってほしかったな!!!!!!!!!!!!
『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号』
すみません、まず最初に“懺悔”から始めたいと思うんですけど、このVシネマ、公開当時観てなかったんですよね。何でかなぁと思って色々調べたら、2015年当時は社会人一年目で、それどころじゃなかったのかな、って。
で、今、それこそ本作を鑑賞した直後にこれ書いてるんだけど、お前のためのVシネマだぞと、未来人はそう言いたいわけですよ。
最終決戦から10年後の2025年、各々の子ども時代を経て、そして大人になったライトたちの姿でもう泣ける。彼らは自分だけの人生のレールを歩いている。その過程で、イマジネーションする力も、レインボーラインを見ることも出来なくなってしまった。
TVシリーズで度々描写されてきた「烈車は子どもにしか見えない」に、とうとう大人になったライトたちが直面する。10年間姿を晦ませていたシャドーライン元幹部のヘイ大公が現れピンチに陥ったライトたちは、ひょんなことから2017年の過去へと戻る。そこには、小学校の卒業式を明日に控えた、幼少期の自分たちがいた―というあらすじ。
本作の脚本を手掛けたのは會川昇氏。氏がTVシリーズで手掛けた第36駅『夢は100点』におけるテーマの再演とも言える、大人になればイマジネーションは無くなるの?問題の再燃だが、実はそれも物語のフックの一つでしかない、というのが巧い。というのも本作、60分以内の短い尺で『トッキュウジャー』の総括と取りこぼした物語の回収まで走ってしまうからだ。
卒業式の前日に授業をサボっていたライト(小学生)の真意は、明を探して、トッキュウジャーとしての卒業式を行うこと。自分たちがトッキュウジャーとして闘い抜いて、その役割から離れて子どもを全うしている中で、明に対してもその任から開放してあげよう、という優しさで、まず一泣き。
では当の明はどうしているのかと言えば、人間=虹野明としてシャドーラインの外で生きれば、人間と同じように歳を重ね、いずれ死ぬことに気づき、それを防ぎたいタンクトップシャドーによって囚われていた。死に場所を求めて彷徨っていたザラムが、虹野明として生きることで、やがては人間らしく死ぬことが出来る。それは当初の願いが叶ったことでもあり、しかしトッキュウジャーとの関わりを経て死への願望を語らなくなったのに、“虹野明”になったがために死がいずれ訪れる、という終着駅。
明、ではなくザラムの死を認められないタンクトップシャドーの想いも、彼にとっては切実なものであるはず。だが、明の中ではすでに決意は決まっている。
虹野明として生き、虹野明として死ぬ。それが彼の見つけた死に場所であり、生きる覚悟である。TVシリーズがオリジナルメンバー5人の帰郷で幕を下ろしたことによる必然的な取りこぼしとしての「虹野明は今後どうするの?」に対する、完璧なアンサーが繰り出される。しかもそこに「大人になっても(自分が見えなくなっても)トッキュウジャーの5人を守り抜く」という約束を、「指切り」というアクション込みで交わしていたことが明らかになるなんて。これはもう、TVシリーズ一年間の積み重ねあっての熱さ、感動であるからこそ、当然ここでも泣かされる。
大人になったらイマジネーションは無くなるのか?に対して、無くしていたのではなく「忘れていた」からこそ「取り戻す」展開も、希望に溢れている。大人になっても人間である限り、想像の力は無限大で、出来ると思ったことは本当に出来てしまう。大人になるにつれて、困難や挫折に直面しては大事なものを取りこぼしてしまいがちだけど、トッキュウジャーとして闘いぬいた経験こそが勝利のイマジネーションを再燃させ、大人になったライトたちもついに変身する。
大人のライトたちにとっては10年ぶりとなるであろう、トッキュウジャーとしての闘い。それを楽しむように、懐かしむようにやってのける、その一つ一つの所作や台詞だって、TVシリーズ完走済みにとっては落涙ポイントなのだ。そして本作の一番偉いところは、ヘンに湿っぽくせず、大人と子どもトッキュウジャーが二世代揃って、タイトルで大々的に掲げたトッキュウ7号すらもことさら特別なこととして扱わず、ワイワイやって終わるところだ。
大人の彼らにとってはかつての青春時代を思い出すようであり、子どもの彼らにとってはイマジネーションが大人になっても不滅である。双方のトッキュウジャーにとって未来が変わらず希望であり続けることを描いて終わるのは、『烈車戦隊トッキュウジャー』の完結編として、完璧だ。後日談として、考えうる最高の完成度だと思う。
ちょっと大げさに言えば、これを100%で浴びるために『烈車戦隊トッキュウジャー』を観るのも、アリなんじゃないでしょうか。今後、そういう話し方をするオタクになります。
『手裏剣戦隊ニンニンジャーVSトッキュウジャー THE MOVIE 忍者・イン・ワンダーランド』
『トッキュウジャー』の後日談としては先のVシネマを超えうるものはないだろう、という前提で観てはしまったものの、なるほどこの手があったか、という手触り。敵によって分断されてしまった俺達のタカ兄を家族の元へ帰れる手助けをするのがライト、という立て付けは、同じく家族が土台にある『ニンニンジャー』とのクロスオーバーとして的確。「おかえり」「ただいま」のラリーで締めるラストは、公開当時がニンニンジャーも終盤という時期であり、その辺りもグッとくる。
一方で、賑やかさや明るさの面では前年の『VSキョウリュウジャー』よりは大人しめな印象で、忍びなれど忍ばないニンニンジャーの個性と、実は子どもであるというトッキュウジャーの性質が微妙に噛み合わないというか、カオスになるほどの相互作用が生じていない惜しさを感じる瞬間も。トッキュウメンバーが一時的に忍者になるとか、逆にニンニンジャーたちが列車に乗る画はあるけれど、それがとくに物語上の意味を持たずただお互いのモチーフを交差させただけという、良くも悪くもいつものVS映画クオリティ。
後の『スーパー戦隊最強バトル!!』でのカグラを除けば、トッキュウジャーとしては本作がラストアクト。そのことに寂しさを覚えつつ、それでも先輩らしい風格と、子どもっぽい一面とが混ざりあったトッキュウジャーが、元いた世界へと帰るクライマックスがとても良い。彼らは「数学の宿題が終わってない」ことが何よりも一大事で、ついさっきまで命がけの闘いをしていたのが10代の少年少女であることをきっちりとやってくれるし、一瞬しか映らないとはいえ子ども時代のキャストを集合させたのも偉い。
ちなみに、『VSキョウリュウジャー』では果たせなかったエンディングダンスも今回は完備。こちとら常に親心が発動しながら観ているので、ニコニコで踊る姿だけでも泣けてくるわけですよ。実子はいないけど、おゆうぎ会を観て泣く親の心境って、こういうものかもしれないなぁ。またどこかの駅で会おうね、トッキュウジャー!!
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