作家性が強すぎて溺れそうになる、新海誠印120%の『天気の子』
とある宣伝コピーに「全世界待望」という一文があり、思わず目まいがした。『君の名は。』の歴史的大ヒットを受け、いつしか新海誠はそういう立ち位置のクリエイターに登りつめた。かつては知る人ぞ知る究極の自主製作家だったのに、今では宮崎駿の後継者とまで称されている。彼をメジャー界に引っ張ってきた川村元気プロデューサーの慧眼たるや恐るべしだが、まず何よりも新海誠作品が日本映画歴代2位の興行収入を記録すること自体、当のアニメファンたちが想像もできていなかったのだ。
なぜこのような彼氏ヅラな物言いをするかと言えば、本作公開日に投稿した何気ないツイートが思いがけぬ拡散をされ、そこに寄せられたリプや引用RTを見るにつれ、新海誠のメジャー化に対する喜びと戸惑いのような様々な感情が見受けられて、その集積が一つの作品になりそうな勢いだったからだ。応援していた地下バンドがメジャー化した途端に遠くへ行ってしまった、というような感慨を抱きつつも、アニメファンたちは新作を心待ちにしている。
そんなわけで、ついに公開された3年越しの最新作『天気の子』はどうだったかと言われれば、間違いなく新海誠印120%、作家性に一切の希釈をせず原液だけで封じ込めたような凄まじい作品だった。またしても特大ヒットを期待される立場でありながら怯むことなく、己が描きたいことを曲げることはしなかった。一般受けしやすい方向に舵を切ることをせず、やりたいことをそのままフィルムに焼き付ける方を選んだのだ。その結果として本作は観客の予想も想像も遥かに超え、ある種の突き抜けた結末を迎える。賛否両論は当然の反応なのだ。
新海誠の作品は一貫して「きみとぼく」を描き続けてきた。運命によって結ばれた「きみ」との出会いや交流が、いつしか世界の命運にまで直結するほどの意味を持つこと、そうした結びつきそのものを信じること。その顛末はどうあれ、主人公とヒロインの関係性が密接になるほど閉じた物語になり、観る側もどんどん没入が深くなっていく。作品に漂うセンチメンタルな情感が極に達した時、往年の名曲やRADWIMPS書き下ろしの挿入歌と共にキャラクターが躍動し、感情を露わにしながらアクションを起こす。本作も例に漏れず、このフォーマット通りに進行していく。
家出して東京にやってきた高校生の森嶋帆高は、渡航中のフェリーで出会ったライターの須賀圭介を頼り、住み込みでライターの仕事をすることに。そんな中出会った少女・天野陽菜は、自身の祈りで局地的に雨を止ませ、晴れ間を作ることができる能力の持ち主だった。帆高は陽菜がお金に困っていることを知り、彼女の弟の凪と共に「晴れ女」ビジネスを始める。しかし、陽菜にも能力の副作用が及んでおり…というのが本作のあらすじ。特殊な能力を持ったヒロインと、彼女を追いかける若き主人公。その爽やかで青臭い恋愛模様は、次第に世界を決定的に変える大事件へと発生してゆくのだ。
以下、本作のネタバレが含まれます。
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さて、本作の何が新海誠120%なのかと言われれば、帆高と陽菜の世界の閉じっぷりなのだ。例に及ばず、帆高は作中であらゆる倫理を犯しまくっている。偶然とはいえ拳銃を所持し発砲、公務執行妨害、線路への侵入などなど、恐ろしいレベルで法を逸脱していく。その原動力は全て、陽菜への想いだけなのだ。純度200%、それ以上でもそれ以下でもないくらい、陽菜にもう一度会いたいという気持ちだけで、ただただ突っ走っていく。外野から見れば恐ろしいまでの視野狭窄が起こっているのだが、その姿を過剰なまでにドラマティックに魅せるあたりが「新海誠作品を観ている」と強烈に印象付けてくれる。ある種盲目的にヒロインを求める姿こそがこの作品にとっては美徳であり、倫理や常識は通用しなくなってしまうのだ。
片や陽菜も、警察に捕まりそうになった帆高を逃がすために、初めて自分のために能力を使うのだが、その結果として雷を落とし、駐車してあったトラックに直撃して大爆発を起こしてしまう。トラックに運転手が乗っていたら言うまでも無く即死だし、大勢の帰宅難民が歩く都内での大爆発、死者や怪我人が出ていたっておかしくない。そう観客に受け取られてもおかしくない程に、陽菜も自分と帆高と弟を守るのに精いっぱいだ。他人を思いやる余裕などとうに無くなってしまっている。
極めつけは、陽菜を現世に留めることで三年間雨が止まず、東京の一部が水没するという驚愕の展開。交通手段が断たれれば物流が止まり、都市機能はマヒするはず。職を失う人もいるだろうし、伝染病の蔓延や浸水による死者だって当然考えられる。文字通り、元に戻せない形で世界を歪ませてしまった帆高と陽菜。しかし、本作においてはこれがハッピーエンドなのだ。本作最後の台詞は「大丈夫だ」である。よく考えて欲しい、何が大丈夫なのか。彼らはその責任を問われることもなく、主人公の自己納得だけで全ての諸問題は棚上げされ、二人の再会こそが世界の命運よりも重大な事象として置かれてしまう。真っ当に高校を卒業し大人への一歩を踏み出した帆高にも世界を歪めてしまった後悔が根付いていたものの、陽菜が生きる世界で自分も共に生きることの決心が勝り、上述の台詞でそのままエンドロールに向かうのだ。この切れ味!!全ては関係性の成就の元に奉仕し、そこに倫理やルールは介在しない。
それゆえに賛否は分かれるのは当然だ。望ましいエンターテイメントの結末からは大きく逸脱しているし、身勝手すぎると言われれば反論の余地はない。だが、そうした二人の結び付きこそが始まりと終わりであり、それらにまとわりつく障害や倫理的問題ですら超越した「きみとぼく」の世界こそが最も甘美であると信じ、それを惜しげもなく商業映画でやってのけ、誰もが楽しめるエンターテイメント作品として昇華させる。そんな芸当ができるのは新海誠だけなのだ。どうしようもなく狂っているのに、目が離せないし、何なら涙を流して主人公を応援してしまう。
『君の名は。』の次となれば、冒険せず堅実に二番煎じを狙うことも出来たが、それを美しいとせず、それを超える衝撃作にして問題作を世間に投げ込んできた新海誠。その作風に対する好き嫌いはどうあれ、この男に停滞も後退もないとすれば、自ずと次回作が楽しみになってしまう。強い作家性とエンタメ性の融合、その先にある「二人だけ」の世界の美しさに、またしても全世界が恋をするのだ。まだ梅雨も明けぬ7月の空模様でさえこの映画を祝福しているようで、あれだけ鬱陶しかった雨雲が嬉しく思えるのも、この映画が起こした素敵なマジック。世界を大きく変えた少年少女の物語は、観客の世界の見え方まで変えてしまったようだ。