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ずっと放課後でいいのに。『仮面ライダーガッチャード』

 遅ればせながら、『仮面ライダーガッチャード』を最終話(+ファイナルステージ)までガッチャした。一年が間もなく終わろうとするこの季節、凍えるような寒さに縮こまる身体と心に爽やかな春の息吹を吹き込んでくれたのは、未来へ歩むことに恐れのない若者たちの、今を生きるエネルギーそのものであった。

 『仮面ライダーガッチャード』とはどんな作品か。それを語るには、かなり的確なサンプルがある。第5話「燃えよ!斗え!レスラーG!」の回だ。

 冒頭、一ノ瀬宝太郎は母である珠美から「部活、楽しい?」と聞かれる。これは、ケミーの存在が市井の人々には知られてはならないという掟に沿って、放課後の錬金術としての活動を「部活」として、母親に説明していることが伺える。でももしかすると、宝太郎の中にはそんな打算さえなく、仲間と共にケミーを探し回る活動をただただ純粋に、授業が終わった後にする活動という意味で「部活」と考えているのではないだろうか。

 たくさんの仲間に出会えたと母の前で喜び、その“仲間”には人とケミーの区別さえなく、新しいケミーとの出会いガッチャを求めて外へ外へと向かっていく快活さ。夕方は手伝えないからと、食堂の朝の仕込みをしてから学校に通う彼にとっては、母の手伝いも放課後のケミー探しもそれぞれ等価の「やりたいこと」で、そのために全力を注ぎ込めるエネルギーに満ちている。溢れる生命力と優しさに溢れた、しかし当人は社長でも神様でもない、どこにでもいる普通の高校生。それが本作の主人公、一ノ瀬宝太郎である。

 そして彼らの部活動ならぬケミー探しが今日も今日とて始まるのだが、その光景への既視感とは、今年初めてプレイした『ポケットモンスター』のそれであった。新しいポケモンとの出会いを求め街や森へ出向き、出会った彼らをモンスターボールへキャプチャーし、次の闘いでその能力を活用する。この文章の内、「ポケモン」をケミーへ、「モンスターボール」をケミーライザーに置換すればあら不思議、『ガッチャード』が出来上がるのである。

 雑誌「フィギュア王」に掲載された本作チーフプロデューサーの湊陽祐氏のインタビューによれば、“今回は子供を多く獲得出来る作品にしたい、未就学児童に向けて作りましょうという話になっていた”という企画意図があったと明かされているが、その答えがなんとライダーでポケモンをやる、という戦略だったのだ。日曜朝放送の子ども向け番組という性質上それは順当なのに、平成ライダーのDNAを受け継ぐ屋号でこれをやると、とてつもなくフレッシュで異例なことに感じられてしまう。この語り口が残されていたのか(やっていなかったのか)!

 徹底した子ども向け、児童向けという狙いであれば、なるほど一ノ瀬宝太郎のキャラクター像にも納得がいく。マサラタウンにさよならバイバイしたあいつのように夢はデッカく、未来へ何の不安も恐怖も抱かずに、無限の可能性が広がっている「若さ」こそが最大の武器であるキャラクター。ケミーの純粋さを信じ、マルガムへと変異させる人間の悪意を断罪することもせず、ただひたすらに求めるガッチャへと突き進む。まさに、一ノ瀬宝太郎とはこの作品の主人公であり、その方向性を定めるエンジン、「」なのである。同じ学園モノの『フォーゼ』の如月弦太朗がそうであったように。

 さて、あえてここまでは“作品”というワードを用いたのだが、その本質は“番組”である、ということを強く意識させられた一作であった。TTFCで配信中の『東映プロデューサーチーム スペシャル座談会』にて湊Pが自身を「白倉フォロワー」と表現しているが、言ってしまえば氏も我々同様に、かの大首領が繰り出す刺激的で挑発的な仕掛けの数々に青春を喰われた、同士なのだ。『ディケイド』の諸々に喜怒哀楽を弄られ、幾度となく浴びせられる歴史改変ビームに当てられて、彼が携わらないライダー作品には物足りなさを感じ、しかしそのことをSNSなどでは大っぴらには言えない……とまで行くかはわからないが、平成ライダー育ちがついに作り手に回ったことには、ヘンな感慨深さがある。

 再び引用することになる「フィギュア王」No.322の「ガッチャ青春錬金日誌」によれば、ライブ感溢れる当時のメイキング事情を伺い知ることが出来る。若き湊チーフPと、彼を導く白倉、塚田の両雄。何とも厳しく波乱に満ちたものであったであろうことは察せられるが、鍛えてますから、な湊Pはこれに耐え、自ら大胆な企画をいくつも打ち立てていった。

 例えば、冬映画と本編の連動。11話から登場した伊坂によく似ている釘宮リヒトは、その出自はなんと前作『ギーツ』世界の出身であり、そのまま彼は映画のラスボスとして、ギーツとガッチャードの前に立ちはだかる。準レギュラーの登場人物にまさかの大役を与えた本作は、それこそライダー作品のルーティンに慣れきった“大きいお友達”の歴が長いほど、当時の衝撃が強かったのでは、と思うほどだ。

 その冬映画で初登場となった、九堂りんねが変身する仮面ライダーマジェード。2号ライダーの先行登場は冬映画あるあるだが、そんなマジェードのTVでの解禁には驚きの裏事情があった。放送開始から一ヶ月が経ち、ケミーカードの売れ行きが好調な一方、ガッチャードライバーのそれは芳しくなかった。その打開策として編み出されたのが、なんとあのガッチャードデイブレイクだという。

 後に控えた夏映画や本編の世界線においても重要なキャラクターであるデイブレイクと、それに変身するのが未来の宝太郎自身という種明かし。まさかそれが、TV本編が走り出した後に考案された仕掛けだったとは、全く信じられない。好事家であればご存知の通り、仮面ライダーという番組、その物語は、玩具の展開スケジュールと連動していなければならない。そこに新たな要素を挿入し、決まっていたライダーの登場スケジュールを後ろ倒しにする。それがどれほどに異例で、その調整にどれだけ苦心したか……は実際に手にとって読んでいただきたいが、平成ライダーの子どもたちが自ら“瞬瞬必生”を実践した結果として完成した『ガッチャード』がお茶の間に届けられているという事実は、あの凸凹な20年を肯定する新たなファクターであるとして、ここに祝いたいのである。

 作りながら走り続ける。そんな平成ライダーの伝統を受け継ぎし『ガッチャード』は、Youtubeでの展開で大きなインパクトを残した“令和のディケイド”こと仮面ライダーレジェンド、新ビジュアルの定期的な投下、デイブレイクの声を担当したDAIGOの夏映画への本格参戦など、数々の話題を絶え間なく繰り出し続けた。夏映画は冬に引き続きTV本編との連動はもちろん、歴史の分岐というギミックを用いて現在と未来の主人公の共闘、レギュラーキャラの死を描くといった意欲作でありつつ、新ライダー・ガヴや門矢士の“通りすがり”などのファンサービスも抜かりない良作で、これはちゃんと劇場で拝むべき一作であった。

 私なんかは日曜の朝に起きて最新話をチェックするニチアサウォッチャーだった頃がすでに懐かしく、完結した話数をイッキ見していくサブスク人間に変貌してしまったのだが、その姿勢を反省することとなった。『ガッチャード』はかなりリアルタイム性を重視した、“TV番組”としての自分に自覚的な一作だったと言える。さすがは、サブスクなんてものは考えられもしない、録画をミスすればソフトが発売されるまでお預けされるのが当たり前であった時代に『アギト』を喰らってしまった人間の作るライダーである。見逃し配信でフォローしつつ、今、波に乗ることで盛り上がっていくライダー。SNS上での盛り上がりや感想をリアルタイムで受け取れる時代でなければデイブレイク=未来の宝太郎が産まれなかったかもしれないと思うと、ライブ感もさらに一段階上がったのかもしれない。

 『アギト』の名前を出したところでもう一つ欠かせないのが、挿入歌である。その強いこだわりに関しては『東映プロデューサーチーム スペシャル座談会』が詳しいが、仮面ライダーがカッコいい挿入歌をバックにライダーキックをキメる画というのは、時代関係なくアガる、ということも再確認させられた。イントロから爆アゲな『What's your FIRE』は実は2番がスパナを歌った歌詞という技アリ曲で、『THE SKY'S THE LIMIT』はまさかのBACK-ON × Beverlyというケミストリーが爽やかな清涼感を与える。しかし一番こちらの涙腺を緩ませたのは、最終話の『Rising Fighter』である。『アギト』が好きすぎるだろ。

 作品内外の状況は目まぐるしく変わっていく一方で、作品の顔こと一ノ瀬宝太郎は、一時もブレることはなかった。ケミーと人の共存を夢見て、目の前のガッチャに猪突猛進していく、明るく朗らかなヒーロー。その強さの秘密が「若さ」であると先述したが、対する敵のモチーフが「老害」であるとインタビューで明言されていて、驚いた。そこまで子ども向けなのかと。

 宝太郎らにケミー回収の指示を与える錬金連合の上層部は、顔を見せないまま若き彼らを闘いへ繰り出し、自分たちは変化を嫌い凝り固まった価値観で子どもたちを縛り付けていた。3人の冥黒王は、こちらのことを分かった気になったり、身勝手な愛を押し付けたり、星任せにして責任を放棄したりする。グリオン様は、全てを永遠の「静止」で封じ込めようとした。揃いも揃って皆、変化が怖くて、決断することが怖くて、未来を信じるのが怖いのだ。

 これは、一介の社会人である自分には、深く深く刺さる。程度の差こそあれ、あの老害たちの思想が自分の中にはないとは、決して言い切れないからだ。事なかれ主義を気取り、定まったガイドラインから逸脱することを極端に怖がる私は、『ガッチャード』の敵になれる素質がある。

 そう、本稿のタイトルにつけた“ずっと放課後でいいのに。”という言葉は、人気アーティストにあやかった宝太郎たちの眩しい青春模様をずっと観ていたい、終わりが訪れてほしくないという気持ちから思いついた言葉であり、偽りなき心情である。それを打破するのが『ガッチャード』であり、一ノ瀬宝太郎である。彼らは未来へ進むことを恐れず、失敗しても再挑戦して、どんな困難も仲間と歩幅を合わせて乗り越えていく。

 青春を謳歌する心がけを、若さこそを武器に闘ってきたライダーたちは、グリオンの理想郷、全てが止まった世界を否定する。それは改めて言うまでもないが、「生」の真っ直ぐな肯定に他ならない。家のお手伝いをして、学校へ行って、友達と一生懸命遊んだり、部活に励んだりする。その行いこそが尊くて、強いのだ。「子ども向け」を命題に走り出した仮面ライダーの着地として、これ以上に王道で順当で、清々しいものは他にはないだろう。

 最後に、本作には複数回、仮面ライダーへ声援を送るシチュエーションがあったことへの感謝を書いておきたい。本作においては老害、すなわち停滞を良しとする大人が敵という組み立てであったわけだが、仮面ライダーを愛し、その勇姿に声を届けたい想いをちゃんと掬い上げてくれていた。それも、大人子ども問わずに、である。

 ヒーローに声援を送るとは、ヒーローショーにおける鉄板のギミックだが、本作は作中にそれを物語上の必然として用意してくれているのが熱いのだ。ヒーローが人を救い、人がヒーローを救う。その双方向の営みを尊ぶ作り手の仮面ライダー愛に、こちらも応えたくなってしまうのだ。

 そして、来年の春にはいよいよ卒業式Vシネクストが待ち構えている。この青春には、避けられぬ終わりがあるのだ。

 我々大人が出来るのは、若者の門出を祝うことと、子どもたちに配慮して端っこの座席を予約すること、それくらいだ。この卒業式にはリアルタイムで列席の上、親心とハンカチを総動員の上で、迎え撃ちたいと思う。

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