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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が辿り着く、『エヴァ』と『ヱヴァ』がやり残したこと。

 今後の人生、仮に走馬灯というものを見る機会があるとすれば、この夜のことを絶対に思い出すはずだ。2021年3月8日、エヴァンゲリオンが終わった日。本編の上映が終わり劇場に明かりが灯るまでの短い空白、誰も立ち上がれず声も発せないあの瞬間、劇場に駆け付けたファンそれぞれに万感の思い、あるいは惜別の念など、いろんな感情が巻き起こったはずだ。私もその一人として、自分の気持ちになんとか名前をつけたくて、キーボードを叩いている。

 14年。一人の人間が義務教育を終えその先のステップへ歩を進めるのと同じくらいの年数を、エヴァンゲリオンを追うことに費やしてきた。そして奇しくも、エヴァンゲリオンに出会ったのが14歳。すなわち、齢28歳の私は、人生の半分をエヴァンゲリオンの掌に握り潰され、庵野秀明総監督をはじめとするスタッフ・キャストが作り上げた「夢」に心奪われ、熱狂し続けた。もはや映画を観るなどというレベルを超えて、シン・エヴァを鑑賞するということは「人生に一区切り」にも等しいような、そんな緊張感があった。

 なにせ14歳だ。エヴァンゲリオンに狂わされる条件は、それだけで揃っていた。正体不明の謎の敵が攻めてきて、主人公は何の説明も同情の得られないまま前線に立たされ、絆を紡いではそれらを一つ一つ失っていく。憔悴しきった主人公はすべてに絶望し、絶叫し、大人たちの教義や理想のための道具と化し、繰り返される生(性)と死の暴力的なイメージに、地獄のカタストロフと救済の安らぎが同居したかのような名状しがたい結末に、価値観が一変するような衝撃を受けた。まだインターネットを扱える環境が手元に無かった中学2年生の私は古本屋に通いつめ放送当時発売された考察本を買い漁り、宗教のモチーフへの知識を蓄えていった。

 そんな折、「エヴァンゲリオン新劇場版」というタイトルで発表された新作映画の公開が報じられたとき、狂喜したことを覚えている。リアルタイムで観て、みんなと同じスタートラインに立って楽しめる新しいエヴァンゲリオン。いつしか「ヱヴァンゲリヲン」に名前を変えたそれは、2007年9月1日から始まった。

 『序』公開当時は中学三年生。周りは受験勉強に励む中、堂々と公開初日に劇場に駆け付けた。TVシリーズ6話までを下敷きとしつつ、使徒の設定やキャラクター描写にみられる細かくも重大な変化に翻弄され、あの「ヤシマ作戦」を劇映画のクライマックスとしてよりドラマチックに、そして碇シンジ少年の覚悟と決意の物語として再構成したことに、心が昂った。人と人とが分かり合おうと不器用ながらも向き合って、その結果がシンジを奮い立たせたことに、本シリーズの「新」を感じ取った。

 続く『破』は2年後、高校生になってチルドレンを過ぎ去ったのに、まだヱヴァ熱は冷めやらなかった。新しい使徒、新しいキャラクター、新しいエヴァ。TVシリーズをなぞりながらも着実に乖離していく新しい物語は、「碇シンジの意思による初号機の覚醒」という最上級のカタルシスを我々ファンに浴びせかけた。泣きすぎて体調を崩した映画体験もこれが初めてのことで、「綾波は綾波しかいない」と、キミの代わりなんていないんだと、誰かがそう言ってくれるのを待っていたんだと気づかされる。レイがシンジとゲンドウの仲直りを、アスカが食事会の成功を祈ったように、誰かを想い他者と生きようとするキャラクターたちの姿を見て、今度は大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。

 その高まった期待を受けながら、未曾有の災害を挟んで2012年に『Q』が公開された。14年の眠りから目覚めたシンジの心情にシンクロするかのごとく変わり果てた世界に動揺し、他者の冷たい視線に怯え、己の罪に直面させられ続ける本作はまさに生き地獄。コミュニケーションの欠如がカタストロフに繋がるクライマックスはどうしようもなく『エヴァンゲリオン』で、『ヱヴァンゲリヲン』に見出した希望は見事に打ち砕かれた。お通夜のような空気を漂わせスクリーンを出る際、これから初めて『Q』を観る観客と目が合って、なぜかそらしてしまったのも懐かしい。

 それから7年もお預けを食らい、その間に『シン・ゴジラ』があって、スクラップ&ビルドで立ち上がる日本の姿を見た。しかし現実は非情で容赦がなく、今度は疫病によってエヴァの完結は先送りになり、2021年にようやく長い旅路にエンドマークが打たれた。長かった。あの時中学生だった私は、今や社会人で、アラサーだ。ミサトさんの方が歳が近くなってしまった。そして今、完結を素直に喜ぶ気持ちと喪失感がない交ぜになって、どうしようもなくぐちゃぐちゃになっている。予告編を繰り返し観て予想を膨らませたり、TVCMにワンカットでも新たな映像があれば血眼になって探したり、公開初日の座席が取れるか心配で眠れなくなったり、そうした日々とも「さようなら」しなくちゃならない。本当に楽しかった。たくさんの夢を見させてくれた。もしかしたら、終わらない方が幸せだったのかもしれない。でも、あんなものをお出しされてしまったら、これ以上エヴァをモラトリアムの言い訳にするのはNGだ。

エヴァは繰り返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。わずかでも前に進もうとする、意思の話です

庵野秀明氏の所信表明より

 だから私も、『シン』と向き合わなくてはならない。終劇の寂しさも受け止めて、蒼い海に希望を見出せるように。私にとって『シン』が、『エヴァンゲリオン』と『ヱヴァンゲリヲン』がどんな物語だったのか、自分の言葉で話せるようになるために。

居場所と言う名の「希望」

 事前に公表された冒頭部分を超えて描かれたのは、まるごとそれが『Q』の裏返しのような、第三村のシークエンス。飯が旨そうに描かれ、誰もシンジを疎むことなく、彼をただ受け止めてくれる友人がいて、死ぬこともない。そうした「普通の人々の営み」を徹底的に煮詰めてアニメにし、キャラクターに血を通わせる。アヤナミレイが仕事を通じて生きることを学び、他者との繋がりをもって心を得る一連の流れは、人間の成長と社会化の過程を鮮やかに描き出す。サードインパクト後の世界をたくましく生きる人々の描写は震災(=ゴジラ)を経てそれでも生きていく現実の人々にも通じるし、互助を基礎として生活基盤を形成する人々の姿は『破』で感じた、そして『Q』で失われてしまった暖かさに満ち満ちていた。

 この集落が重要なのは、ここがシンジの居場所、カヲルの言葉を借りれば「希望」になりえたかもしれない、ということ。シンジがニアサーのトリガー、すなわち「生活と命を奪った大戦犯」であることを知る者がおらず、誰も彼を否定することも、命を脅かすこともない。アスカが怒っているのは、彼自身が生きる意志を表に出さないからであって、誰もシンジの排除も死も願っていないのだ。これまでの行いも、過ちも、全てを受け止めてくれる、やさしい世界。そんなものはないとわかっていながら、それでも求めずにいられなかった世界の中で、シンジはひたすらに「何もしない」ことをして、時間を費やして、そしてようやく生きる気力を取り戻した。

 『Q』とは正反対の、シンジが「ここにいてもいい」世界としての第三村。結果として、この村に骨を埋めることを選ばなかったにせよ、村と人々を「守る」ためにヴンダーに乗ることをシンジが決断したため、彼に生きる意志を与える役割を第三村とそこに生きる友人たちが担ってくれた。エヴァらしからぬとさえ一度は困惑した田植えのシーンが、全てを失った碇シンジを現世に留めるためにどうしても必要だったのだ。

 ところで、庵野総監督は『Q』制作後に鬱状態になったことを『シン・ゴジラ』制作発表時に打ち明けたが、回復のきっかけになったのも「妻や友人らの御蔭」「宮崎駿氏に頼まれた声の仕事」と言及し、「他者との繋がり」によって現世に留まったと自らを振り返っている。ヤマアラシのジレンマを描いたエヴァの創造者が、それでも他者がいなければ生きられないんだと知り、その経験を投影したものがこの第三村のシーンだとすれば、この前半部のなんと美しく真に迫る映像だったことか。

2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、
当然の報いでした。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』及びゴジラ新作映画に関する庵野秀明のコメント

 片や謎の生命体と闘うパイロット、片やクリエイター件株式会社社長。背負うものが大きすぎて壊れてしまった人物が、誰かと助け合い、支え合って「おおきなカブ(株)」を育て上げる。そこが、居場所になる。

『エヴァ』と『ヱヴァ』がやり残したこと。

 本作でやらなければならないこと、それは「落とし前をつける」ことだ。そのためにシンジはエヴァに乗り、他ならぬ自分の父と対峙する。

 さて、落とし前をつけるとは、いったい何に対してだろうか。例えば、「散りばめられた謎に片を付ける」こと。駆け足ではあったが、『破』と『Q』の間に起こった出来事も加持さんを巡る回想シーンで明かされたり、意味深に登場したネブカドネザルの鍵がついにその効能が明らかになった。その一方で、全く新しいワードの羅列でこちらの処理速度を麻痺させていく感覚もまた、エヴァらしい。

 例えば、「"マリ"という人を描く」こと。新劇場版から登場した彼女の正体は?役割は?例の「呪縛」と併せてようやくピースがハマったマリという少女は、最後の最後に大きな役割を、「NEON GENESIS」の導き手としてのゴールを爽やかに披露した。

 その中でも大きな比重を占めるのが、「碇ゲンドウと向き合う」ことであった。アイキャッチ開けての後半戦より、本作は実は『Air/まごころを、君に』のリビルドである、ということが明らかになっていく。再び繰り返される人類補完計画、巨大化したリリスと開かれたガフの扉、人と人がLCLに還元し境目が曖昧になっていくイメージ。

 その全てを司るリリンの王となった碇ゲンドウ。彼の目的は旧作から徹底してユイとの再会であるわけだが、そのためにはトリガーとなった息子・シンジの心と向き合わざるを得なかった。そして旧劇場版では、ゲンドウがシンジを憎み、同時に恐れていたことをついに悟り、初号機に喰われるイメージで幕を閉じる。誰よりも臆病で、他人を避けてきた、弱い人。それが碇ゲンドウだ。

 しかし本作はその先を描こうとする。ゲンドウがシンジを心の壁=A.T.フィールドで拒否したことで、息子への想いを悟るところまでは変わらない。だが本作は、過去作でも成しえなかった「対話」がついに果たされる。それはエヴァに乗りながらであり、電車の車内であり。よもや碇ゲンドウの補完が本編で描かれるだなんて、思いもしなかった。けれども、エヴァンゲリオンを終わらせるなら、これしかないだろう

 そこから紐解かれていくのは、碇ゲンドウ自身が語る、碇ゲンドウの人生。人を避け、交わらないように生きてきた。その中で初めて出会った心を許せる他者=ユイ。幸せな日々。奪われた愛する妻。神殺しへの野望。碇ユイに再び出会うため、世界も息子も何もかも生贄にして、自らも人を捨て、神の頂に辿り着いた、誰よりも寂しくてよわい人。本質的には旧シリーズと同じ人物像なのに、ここまでハッキリと内面が浮かび上がってくると、驚いてしまう。なぜS-DATを所持していたのかといえば、彼もまた「心を塞いでいた」からに他ならない。

 そんなゲンドウが、シンジと対等に闘い向き合うことで、彼にも救済の時が訪れる。仮に「新世紀エヴァンゲリオン」というアドベンチャーゲームがあるとすれば、トゥルーエンドの条件はやはり「碇ゲンドウを救う」ことなんだろう。A.T.フィールドがお互いを傷つけあったとしても、他人がいる世界を望んだシンジ。次は、孤独な父親がそこに向き合うしかなかった。唯一の理解者ユイを失ったこの世界に、価値なんてあるのか。ゲンドウにとっては虚無に等しい世界の中で親子は闘い、心をさらけ出して、そしてシンジの中にユイを見つけ出すことで彼のA.T.フィールドは消失し、駅で泣く我が子を抱きしめられるようになったのだ

 加えて、エヴァ初号機と第13号機がシンクロしあう特性であったことも含めれば、ゲンドウは息子のシンジを、そして自分をも、抱きしめてあげられたのかもしれない。ユイから貰った安らぎを、自分と誰かに与えられるように。1995年から続くエヴァンゲリオンシリーズが落とし前をつけるには、この男が世界を愛せるようになる必要があったのだ。

これから

 エヴァ/ヱヴァは終わった。ラストシーンも、解釈によっては「現実に帰れ」と言う風にとらえることもできるだろう。でも、アニメ=虚構に心委ねることを「逃避」だと非難した97年から一歩その先が描かれた。エヴァという虚構によって立ち直り、他人とすれ違いながらも助け合って、ようやく前向きに「生きる」ことを選べるようになった。それこそが『エヴァンゲリオン』という作品が、庵野秀明という作家が苦難の末に導き出した「希望」なのだと思う。この結末に到達するまで、私なら14年間、放送当時からのファンは26年間、エヴァと共に歩み続けた。その最後のメッセージに触れた瞬間を劇場に駆け付けたファンと一緒に共有し、立ち会えたことは、これまでの人生の中でも最も感慨深い出来事だった。

 お別れは悲しいけれど、やはり同時に「ありがとう」「おやすみ」とも言いたくなる。また会えますようにというおまじないも込めながら、さようなら、エヴァンゲリオン。

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