熾烈さと今っぽさのあいだ。『仮面ライダーギーツ』
先日、『仮面ライダーゼロワン』をTVシリーズから後日談のVシネマに至るまでを鑑賞した。感想としては、「悠也、なんでそんなことするの、悠也……」であった。人間と人型ロボット(AI)の共存の可能性を一年かけて積み上げ、しかしその希望を本編完結後のVシネマで一気に振り出しか、あるいはそれ以上に苦しい局面にまで引き戻す物語展開に、一人で阿鼻叫喚するしかなかったのである。
なぜこのようなことになったのか。答えを求めた筆者は、次なる作品、まだ観ぬ令和ライダーの世界へと踏み出した。……という口実の下に観たのが『ギーツ』であった。己が願いのために他者と競い合うライダーバトル。どことなく漂う「平成」の香りに吸い寄せられた先に広がるのは、一人の人間がこの世全ての人の願いのために闘う、とってもありがたいお話であった。
細部に着目する前にまずは大枠の、作品全体の構造について語りたい。
『龍騎』『鎧武』にて多人数ライダー作品のノウハウを持つ武部直美Pがチーフを務め、その下に若手Pが集い、脚本はすでに常連の風格漂う高橋悠也氏が『エグゼイド』以来となる全話執筆を担当。メイン監督も『エグゼイド』から中澤祥次郎氏が続投し、TTFCにて掲載されたプロデューサーチームの座談会によれば「本編の撮影は6月には終わっていた」とのことで、完走までのビジョンをかなり高い解像度で共有できていたことが伺える。
ジャンルは、裏切り蹴落とし何でもアリのデスゲーム。という枠組みではあるのだけれど、競技内容は全部がバトルロワイアルというわけでもなく、ジャマトと呼ばれる怪人から人々を救うことでポイントを稼いだり、ハンドボールのようなゲームで点数を競ったりと、全体の雰囲気としては殺伐にはならず、『龍騎』『鎧武』を経た身としてはとても新鮮に感じられる。ライダー同士がいがみ合ってギスギスした展開になりかけると、ギーツ=浮世英寿が狐のように周囲を“化かして”勝利をかすめ取っていく。その流れの鮮やかさが、展開の重苦しさを払拭する。平成らしい土台の上にある、令和の新しい手触り。これが『ギーツ』前半戦の基本骨子だ。
10話からの『策略編』では、ゲームマスターによる過度な介入が横やりを入れ、参加者の中でもイレギュラーであるギーツが目の敵にされてゆく。17話からの『乖離編』では、デザイアGPそのものが「未来人の娯楽として開催されるリアリティショー」という事実が発覚して以降、ゲームの公平性が破壊され、競技の外側にいるキャラクターの思惑が状況に介入していく。
人狼要素を持ち込んだと思われる「デザスター」はマンネリを防ぎたい運営側の興行としての都合であり、特定のライダーに強力なバックルが行き届きがちな序盤の違和感も、それが「スポンサー」の恣意によるものだと明かされていく。やがては、スポンサー自身がライダーと化して、直接デザイアGPに介入していく。スポンサー各位が自分の「推し」を定め、その推しが優位になるようあれこれ働く様を観る限り、デザイアGPの競技としてのフェアネスはどんどん失われてくわけだが、未来人が古代人を駒として扱い己が願いを叶えんとする構図のグロテスクさは、見た目の軽快さや飲み込みやすさとは相反するシビアさを醸成し、こちらの興味をグイグイ惹きつける。
そうした支配に抵抗するように、運営にも牙を剝くライダーたちの反逆が番組後半から描かれてゆく。ベロバの導きによってジャマ神となったバッファ=道長は当初の願いであった「全ての仮面ライダーをぶっ潰す」ことから一切ブレず行動し、英寿は念願であった母・ミツメとの再会を果たし、創世の力を手に入れる。ナーゴ=祢音は自身が造られた存在であることを知りながらも、ずっと願っていた「本当の愛」を他者から受け取り復活、スポンサーである父の力を借りながらも、状況の打開に向けて動いていく。
群雄割拠のライダー大戦において、タイクーン=景和は、状況に流され迷いながら、力の使い道について考えを改めていく。「世界平和」という抽象的な願いは、やがては「デザイアGPで消えた人たちの復活」という具体性を有するも、姉の沙羅を失うことで、彼自身が自らの至らなさを悟る。景和の願いとは、自身と姉が揃って初めて成り立つものなのだ。故に、沙羅のいない世界では景和は願いを成就させられない。復讐の刃は、彼の理想を覆い隠す。
景和もまた、ライダーの一人ではあっても、その本質はヒーローではなかった。むしろ、本作における仮面ライダーとは「自分の願いを叶えるために他者を蹴落とすことも厭わない覚悟の持ち主」を指す概念であり、その在り方そのものを否定し闘うのが道長の願いの根底にある。景和もまた、世界平和という壮大な理想を掲げる一方で、手の届く範囲の幸せを打ち壊されると、理想そのものを見失ってしまう、どこまでも等身大の青年だった。
ケケラの「理想の仮面ライダーをプロデュースしたい」という願いによって生まれたタイクーン=景和という仮面ライダー。与えられた力に溺れ、刃の矛先を誤ったこともあれど、自分の願いともう一度向き合うことで、景和は“ホンモノの仮面ライダー”へと成長する。力の使い道も、変身の意味も、その重みは物語開始時点とはまるで違うものへと変化していく、ヒーローへの覚醒。
勝ち取って世界を望み通りにするのではなく、自ら闘って今ある世界を平和に導いていく。その想いは、彼が最終回で警察官を目指す姿からも明らかであり、ギーツ=英寿が華麗な活躍で撮れ高を稼いでいく「主役」なら、景和こそがこの物語を通じて成長していく「主人公」だった、ということなのであろう。
全ての決着として、英寿は2000年に及ぶ闘いの果てに、自らが人々の願いを司る神様となって、終幕を迎える。彼の願った“誰もが幸せになれる世界”の中で、人々は幸せを強く願い続ければそれが叶う人生を生きられる。未来人の興行としての駒ではなく、自分の意思で願いを叶えるべく闘いに挑む者を肯定する世界。全ての願望を否定することなく、人の数だけ存在するそれらを丸っとひっくるめて受け止める結末についての個人的な所感は、また後程にでも。
振り返りが長くなってしまったが、デザイアGPという興行を回し続ける構図自体が、『ギーツ』の特色そのものとなっている。ライダーたちがデザイアGPに翻弄され、闘い欺きを繰り返していれば物語の縦軸は進行し続けるのだから、展開に中だるみや停滞は発生しない。その上で、キャラクターの秘密や世界観の謎解きの開示を等間隔に置くことで、絶えずイベントが発生し視聴者の興味を持続させる構造は『エグゼイド』でも見られた、高橋脚本ではお手の物の手法といえるだろう。
根本となるデザイアGPも7~8話間隔でシーズンが次へ移行するリフレッシュが設けられ、新しいルールやライダーが投下され、飽きさせない。英寿が参戦し続ける理由も「過去にデザ神になった彼がそう願ったから」、彼を除くメインキャラ3名だとそもそも有力なスポンサーが付いている、という理屈でフォローする。オーディエンスや一部のVIPの存在を明かすことで『仮面ライダーギーツ』という番組を観ている我々の存在をメタ的に作品内に登場させ、時に(夏映画などで)観客参加型の番組へと仕立て上げる。
公式完全読本のインタビューを紐解くと、関係者から『イカゲーム』『フォートナイト』等の名前が挙がり、武部Pによれば転生を繰り返す英寿は『火の鳥』のイメージ。シリーズ中に最終話を何度も何度も設けて、キャラクターの置かれた状況や立場、順位ですらもリセットして闘いの渦をリデザインする。破壊と創造を繰り返しながら、理想の世界を求め足掻く登場人物たちを見守ることで、視聴者である我々にも「推し」が出来上がっていく。
誰が勝ち上がるのか、あるいは、誰が生き残るのか。平成初期の熾烈さと“今っぽさ”の融合。TTFCやTELASAだけでなく、Amazonプライムビデオでも見逃し配信を始めたこともあり、多くの視聴者を取り込む施策が数多く盛り込まれた『ギーツ』は、今なお関連商品の販売がアナウンスされている様子からも、かなりの成功を収めた、ということなのだろう。
俯瞰して振り返ると、『ギーツ』には隙がない。武部Pと高橋氏、各監督が届けたいビジョンが綺麗にハマり、その組みあがったパズルを鑑賞しているような感覚がある。その完成度は、かなり高いものであると、個人的には嘘偽りなくそう思っている。
一方で、そのパズルが完璧ではないと感じているのも、また事実なのである。具体的には、英寿やこの作品が最終的にたどり着く“誰もが幸せになれる世界”を、違和感なく飲み込めていないから、である。
願い続ければ叶う。それ自体は正しく尊くて、素直に良きことだと思えるのだが、“誰もが”の部分に引っ掛かりを覚えてしまったのだ。全ての人間の願いが叶うとして、Aの願いがBの願いを阻害する状況があった場合、どう処理されるのだろうか。これは意地悪で極端な例えであるとは承知しているのだけれど、この世界に浅倉威が存在した場合、彼の願いはどうように扱われるのだろうか。他人を殺したいという願いも、「願い」である以上は肯定されてしまうのだろうか。
全ての願いを肯定する。それ自体は美しいことではあっても、その負の側面を見て見ぬふりしているような感覚を、最終話の着地から感じている。現に、作中では「バッドエンドを観たい」という一部オーディエンスの願いが取り上げられ、それを否定する流れがあった。ケケラの「理想の仮面ライダーをプロデュースしたい」だって、その手法がまさしく“父よ母よ妹よ”を思い出させる喪失がセットになっており、景和や沙羅の幸せを妨げた場面を、我々は目にしている。
それらを踏まえてなお、神となった英寿は人の数だけ存在する願いを、創世の力によって肯定するのだろうか。ジーンの言う「新しいデザイアGP」に勝利することが、その願いを叶える手段なのだろうか。新世界における理というか、ルールのようなものに対する言葉足らずな点に、私自身が大きな引っ掛かりを覚えている。
綺麗に組みあがっているはずのパズルの、確かに存在する小さな綻び。作品全部を否定するほどの大きなものではないが、ロジカルに積み上げてきた一年を振り返れば決して無かったことにはしづらい歪みを、愛車につけてしまった傷のように、目を背けられずにいるのである。我ながら面倒くさい視聴者だと自戒する他ないのだけれど、この「惜しさ」が尾を引く印象が、『仮面ライダーギーツ』というTV番組に対する私の感想だった。
そうしたモヤモヤに風穴を開けたのが、まさかの道長であった。TVシリーズ放送終了後のVシネクスト作品『ジャマト・アウェイキング』では、もう一つの"見て見ぬふり”のように感じられていた「ジャマト問題」にフォーカスが当たる。
作中において、変種のジャマトである葉月/クイーンジャマトは、「愛」を学ぶことで子を宿す奇跡を起こした。ところが、その子どもである春樹こそが、憎しみに囚われやがては未来の人類を滅亡に誘うゴッドジャマトへと変貌する存在であった。五十鈴大智が共存を願い大切に育ててきたジャマトであっても、人間の悪意や差別感情はその真心に勝る負の影響を与えてしまう。
やがては人類全体を滅ぼしかねない強大な憎しみに対し、「愛」で返すのが意外にも吾妻道長なのだ。かつてジャマ神、ジャマトをその身に宿してでも闘いの場に赴いてきた彼の動機とは、全ての仮面ライダーをぶっ潰すこと、すなわち他者を蹴落としてまで自分の理想を叶えようとする行為を否定することであり、その邪心を増強させるデザイアGPそのものの解体である。親友を失ったことよりも、失うきっかけを作った仕組みを憎悪し、闘い続ける。その強固な信念は、人間を辞める一歩手前にまで追い詰められても、変わることはなかった。
ブレないことこそが吾妻道長の強さであり、魅力だった。そんな彼に惚れ込んで見守っていた(言うなれば「推し」だった)わけだが、彼の信念は英寿の背中を見て、変更ではなく更新されていったことが本作で明かされる。1000年後の未来からやってきた英寿に対して、彼はこう叫ぶ。
人類を救うために春樹を犠牲にする考えを、道長は否定する。道長が知っている英寿とは、トロッコ問題に対して「両方救う」ことを迷いなく選べる人間だった。あり得るはずのない理想を大真面目に語り、信じられない奇跡を幾度も起こしてきたのが、道長にとっての「ギーツ」なのだから。
これは、前述した“誰もが幸せになれる世界”の不透明さに対する、痛快なカウンターになった。ギーツ=英寿が願う理想の世界とは、神が無条件に与える幸福を意味するのではなく、人々が幸福に向かって進んでいける世界なのだ。先の例えを持ち出すのなら、浅倉威を否定してくれるのが、道長や景和のような、神の意思を継ぐ者たちなのだろう。
そして道長は、行場を失くし彷徨う子どもを抱きしめる。誰かを傷つけて願いを叶えようとする者がいる限り、万人の幸せは訪れない。道長は、己の信念を曲げること無く、かつての好敵手の願いを受け継ぎ、闘うことができる存在だ。ジャマト化を退け、涙を流す誰かに手を差し伸べた時、彼もまた“ホンモノの仮面ライダー”となるのだ。
英寿の理想を願う真っ直ぐな心を、犠牲を伴う幸福を否定してきた道長が受け継ぐ。その想いが、絶望し苦しむ一人の子どもと、人間を信じる心を無くした未来の神様を救う。人間から神になった一人の男の想いを、今を生きる人間が受け継ぐ。神の神話を伝承していくのは、いつの時代もそれを目撃した人間の役割だ。英寿の願いは、人々の心の中で、生き続けるのだろう。
『仮面ライダーギーツ』は、自らが一年放送のTV番組であるということに意識的であり、日曜朝の決まった時間にTVを点ける我々をも取り込んで成立するエンターテイメントだった。好きな仮面ライダーを見つけ、玩具を買い集め同化することや応援する行為そのものを肯定し、過激な展開やデスゲームに生じる「脱落」のエモーションを期待する下世話さを自身が鏡となって見つめ直させる。『龍騎』のエッセンスを受け継ぎ、そのDNAを期待するファン心理さえもメタ的に先読みして、盛り上がりをデザインしていく。
その一方で、ディスコミュニケーションによる不和やすれ違いの重苦しさを煙に巻くように狐が動き、いつしか“化かされる”ことが快感になっていく。物語や興行に伴う残酷さをスピンオフや一瞬の描写にスライドさせることで、陰惨さを払拭した明るい雰囲気に持ち直していく。言うなれば、平成と令和のハイブリッド。懐かしくもあり、今っぽい。この不思議な喉越しの良さが、『ギーツ』という神話なのだろう。