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満たされる心と減るお腹。『劇映画 孤独のグルメ』

 朝6時に起床し、コンビニでパンとコーヒーを買い、空腹を満たす。劇場のコンセッションで飲み物だけを買い、トイレに立ちたくならないよう、それでいて空腹を誤魔化す程度に、喉を潤してゆく。ここまで準備して挑んだにも関わらず、パリで最初の料理が五郎ちゃんの前に運ばれた瞬間に、胃が悲鳴を上げ始めた。腹が、減った……。

 いつの間にか一つのジャンルとして定着したグルメドラマの、その始祖的な存在でもある『孤独のグルメ』が、ついに銀幕デビュー。わかってねぇなぁ、これは深夜に家のテレビで観て、こんな時間じゃあどの店も開いてねぇよとキレるまでがセットだと思っていたのに、スクリーンに松重豊改め井之頭五郎が映るだけで、映画館に来て良かったな、と思わされてしまう。今回はどんな理不尽に会い、どんな飯を喰らうのか。

 個人で輸入雑貨商を営む我らが井之頭五郎は、とある絵画を届けるために依頼人のいるパリへ向かう。そこで出会ったのは、かつての恋人である小雪の娘の千秋で、絵画を注文したのは祖父の一郎であった。無事に絵画の納品を終えた五郎だったが、一郎から追加のオーダーを頼まれる。それは、一郎が日本に住んでいた頃に飲んだ“いっちゃん汁”をもう一度飲みたい、というもの。出汁を作るための食材のヒントを携え、五郎は長崎の五島列島へ。聞き込みなどで情報を集めていく五郎だったが、ひょんなことから、彼は無人島でサバイバルを強いられることになり……!?

 劇場映画に相応しく、パリに韓国に無人島(!?)にと、いろんなロケーションでその土地土地のご馳走をたいらげていく五郎。映像はゴージャスなのにやっていることは変わらず「食」一筋で、一方であの井之頭五郎が海で遭難するという異常事態が繰り広げられていく様が、笑いを誘う。世界へ飛んでも好みはやっぱり日本人なので、パリや韓国でいただく食事もギリギリ味が想像できる料理や食材がチョイスされ、劇場に駆けつけた観客の胃袋は問答無用に鷲掴みにされていく。

 『孤独のグルメ』といえば、井之頭五郎が町をブラブラ歩き、自身の胃袋を委ねる店をその日のフィーリングで選ぶからこそ“孤独”であるのだけれど、今回の劇場版では状況が特殊ゆえ、五郎自身が好きに店を選べなかったり、あるいは店選びに時間をかけられない、といったシチュエーションがいくつか用意されている。だが、そうした意図せぬ出会いが重なり、旧友やひょんなことから出会った若者、ラーメン屋店主を巻き込みながら、"いっちゃん汁”の完成という一つのうねりへと収束していく。ただTVシリーズのルーティンを焼き直すことはせず、一本の映画としてのまとまりをきちんと設けているからこそ、観客の心には満腹感が残る。その上で、身体は自ずと空腹を訴える、という映画なのが素晴らしい。

 スープは胃に優しいほど嬉しいが、『劇映画 孤独のグルメ』はまさにそういった作品だ。井之頭五郎は命の危機に瀕する場面こそあるが、彼を助ける善意は世界の至る所にあり、よそ者を手厳しく扱う者はこの映画には存在しない。本作の登場人物に悲しみを与えるのは、新型コロナや物価高といった大きな存在で、“個人”は敵として登場することは一切ない。食事は、作る人と食べる人がいることで成立する。食べることは元来“孤独”ではないことを描くからこそ平時の『孤独のグルメ』が光るという、初の劇場作品として申し分ない働きをする本作は、自ずと過去のシリーズを見返したくなってしまう。

 それだけに留まらず、本作には井之頭五郎の食べっぷりに魅了されるキャラクターが複数いて、漏れなく彼ら彼女らは私たちのような『孤独のグルメ』視聴者の投影なのではないだろうか。あらゆる料理が松重豊氏の口に運ばれ、あのモノローグが聴こえると、唾液が流れるように調教された我々である。であるからこそ、「いい食べっぷりだね!」と言うキャラクターがいてくれて私たちは間接的に五郎ちゃんに「ありがとう」を伝えられるし、それを発言する“善福寺六郎”なる男を演じる大物俳優に、劇場は再び笑いに包まれるのであった。

 しかし、本作はTVシリーズから続く、ある重大な弱点を克服できていないのである。それは、井之頭五郎が下戸である、という原作設定だ。ビーフが出てきたら赤ワインを、キムチが出されたらマッコリを、ラーメンやちゃんぽんは飲んだ後のシメでいただきたいのが、酒飲みの流儀であり人情だ。しかし本作は原作に忠実であるが故に、それは許されない。TVシリーズでは原作者の久住先生が一杯やってくれるミニコーナーがあるので溜飲も下がるが、本作は一本の劇映画なので、そういうわけにもいくまい。

 というわけで、名も無き“孤独の酒飲み”は劇場を出た後に一杯やっていく店を探して、街を歩くのである。喉が、乾いた……。

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