母性もまた育つもの『さよならの朝に約束の花をかざろう』
10代半ばで外見の成長が止まり、数百年生き続けることから「別れの一族」と呼ばれてきたイオルフの民。そのイオルフの少女マキアは、友人と共にヒビオルという布を織りながら静かに暮らしていた。しかし、その長寿の血を求めたメザーテ国がイオルフの園に襲来し、マキアは友人や帰る家を失ってしまう。生還したマキアは森をさまよう中で、盗賊に襲われ亡くなった母親に抱きかかえられた赤ん坊を見つける。マキアはその赤ん坊の母になることを決意するのだが、歳をとらないイオルフは人間社会でも忌避され、やがてエリアルと名付けられた赤ん坊も成長しマキアの容姿を追い抜くようになっていく。
お立場表明
まず、この作品を語る上での私のスタンスを申し上げますと、本作の監督・脚本を務めた岡田麿里さんの過去作を、ほとんど観たことがありません。不勉強なことに、名作と名高い『あの花』『ここさけ』も未見、かろうじて全話観たのは『キズナイーバー』だけ、という状態で鑑賞しました。
そのため、岡田氏の作風や、過去作との比較を本稿で述べることは出来ず、これだけ監督と制作会社の名前が大きく宣伝された作品に対し不相応な知識で物申していることをお詫びいたします。以下お読みいただく方も、その旨ご了承の上、読み進めていただきますと幸いです。
普遍的な親子のドラマ
本作『さよならの朝に約束の花をかざろう』は、架空の人種と世界観を用いたファンタジーでありながら、いたって普遍的な“母と子”の物語を紡ぎだした一作です。歳をとらない母親と、すくすく成長していく子どもの不思議な親子関係。初めての育児に苦戦し様々な壁にぶつかりながらも、子どもへの想いを胸に生き抜いていく母マキアと、その愛を一身に受けながらも“ふつう”とは異なる親子関係そのものへの複雑な感情に迷う息子のエリアル。数多のドラマや映画で繰り返し描かれてきた“血のつながりがなくても親子と呼べるのか”という問いに今一度向き合う。身も蓋もない言い方をするのなら、使い古されてきた題材をあえてアニメに置き換えただけとも言えるし、イオルフの設定を一目見れば、物語の大筋が浮かんでしまう人も少なくはないでしょう。
それでも本作が素晴らしいのが、“母性”というものの根源を描き、“別れ”に対し前向きな意味合いを示したことにあります。アニメーションであり寓話でありながら、現実社会を生きる我々にとって共感するところも多く、胸が締め付けられるような感動を与えてくれます。その感動の前に、前述の予備知識は必要ありません。アニメファンならずとも観て、感じたものを日々の生活に持ち帰って欲しい。そんな温かみのある一作であることを知っていただきたいのです。
別れの一族
本作の主人公マキアが属するイオルフとは、前述の通り不老不死を体現する一族。全ての民が10代の若々しさを保ちながら、ヒビオル(日々織る)と呼ばれる布を織る生活を続けています。老衰に怯えることのない彼らは、糸を紡いで日々を生きる。“紡ぐ”という言葉は、それ自体が言葉や時間にも深く関係している通り、イオルフにとっては悠久の時を生きる営みを、ヒビオルを紡ぐ作業に託しています。
そんなイオルフには一つの掟が存在します。
外の世界で出会いに触れたなら、誰も愛してはいけない。
その長すぎる寿命ゆえに、イオルフは他の民族と同じ時を生き続けることは出来ません。どれだけ愛した相手でも、必ずその死を看取らなくてはならない。数々の別れを繰り返すから「別れの一族」。その悲しみから身を守るため、このような掟が生まれたのでしょう。
傷つくことを恐れ、閉じこもることで生き永らえてきた民族。しかしその平和は、他の民族による侵略と言う形で、突如終わりを告げます。イオルフは、同じ時を生きる仲間や家族を失い、全く異なる時間の価値観を持つ種族の世界で、生きることを余儀なくされます。動いているようで止まっていたイオルフの時間もまた、動き出したのです。
そんな中、侵略から生き延びたマキアは、一人の赤ん坊と出会います。命絶えながらも赤ん坊を守る母親の力強さに触れたマキアは、民の掟を破り赤ん坊の母になることを決意します。
女手一つで子どもを育てる苦労は、ファンタジー世界でも変わりません。仕事がなければ衣食住はまかなえず、イオルフであることを悟られないためには、ヒビオルを売ってお金を稼ぐわけにはいきません。職歴も人脈もないまま社会に放り出される、この恐怖は耐えがたいものがあります。これに対しマキアは、エリアルを想う心一つで立ち向かっていきます。自らの母親としての自覚の無さを責める一方で、彼女自身は確実に母親としての力を蓄えていきます。子どもの成長と共に、自分も成長するのが親というものなのでしょう。
イオルフは、糸を紡ぐことは無くなりました。しかし、マキアにとってのヒビオルとは、エリアルそのものに他なりません。毎日を一緒に生きて、少しずつ大きくなっていく。背が伸びて、シワが増えていくように、エリアルの心と身体にはマキアの人生が紡がれてゆきます。イオルフの動き出した時間は、他人との絆の中で脈動を続けているのです。
母なる証明
こうして、母親として成長していくマキアですが、対照に苦悩するもう一人の母親のドラマも目が離せません。
同じくイオルフの民にして、メザーテにとらわれその王子の子を宿したレイリア。その身に宿る娘を産み落とした途端、娘とは隔離され、その匂いや感触を忘れ去るほどに、長い時間を孤独に生きてきました。レイリアの時間は、止められたままなのです。
自らの体に命を宿し、産み落とした娘。マキアとエリアルの関係とは正反対でありながら、レイリアは母たる自覚や決意が宿る前から、娘を剥奪されるという過酷な仕打ちを受けます。しかし、レイリア自身はまだ見ぬ娘への想いは潰えることはなく、むしろ娘に会いたいという気持ちを糧に日々を耐え忍んでいました。
マキアとレイリアは対照的な境遇でありながら、子どもへの強い愛情を抱いている、という意味では同じく“母親”でした。どんなに辛い目に会いながらも、子どもを想う心を支えとし、生きる力に変えること。母親であるためには、子どもを大切に想う心を持ち続けること。マキアの例を付け足すのなら、そこに血筋など関係なく、想いの強さこそが母親たらしめること。科せられた運命こそ過酷ですが、その境遇こそが“母親”の子どもを大切に想う心の、その尊さを浮き彫りにしてみせました。
そして、母親として幾多の苦難を乗り越えた二人にも、“別れ”の時が訪れます。その別れを前に下した結論こそ異なるものの、子を想う気持ちには優劣など付けられません。異なる時間を生きたマキアとエリアル、そしてエイリアと娘のメドメル。二度と会えなくなる寂しさはあれど、大切に想う誰かと生きた時間が、自分のヒビオルになる。あるいは、ヒビオルになれなかった自分が、相手の人生から身を引いてあげる。どちらも、子どもを大切に想うからこそ得られた出会いの、美しい終着駅でした。
「別れの一族」と呼ばれた種族の二人の少女が、女性として、母親として成長し、“別れ”と向き合う。それは避けられない出来事ですが、全ての別れが悲しいだけとは限らない。だからこそ、「別れに出会いに行く」ために生きていく。
現実の今を生きる我々にも、いつか訪れるその時、彼女たちの強さから学べるものがあるのではないでしょうか。愛する誰かのヒビオルが自分に刻み込まれているのだとしたら、その人は自分の中で生き続ける。生と死を見据えつつ、親と子の尊い営みを温かい目線で描いた良作と言えるのではないでしょうか。