悩ましき新機軸にして、熱血の良作。『牙狼〈GARO〉〜闇を照らす者〜』
シリーズ最新作『ハガネを継ぐ者』の前に、道外流牙シリーズを振り返っておきたい。そう思っていたはずなのに、いざ実行に移す頃には『ハガネ』の放送も終了していて、夏服をタンスにしまい込む季節にまで持ち越してしまったのは、ひとえに自分の怠惰ゆえ。令和ライダーに浮気をしていた先月までの自分を、呪う羽目になってしまった。
という要らない前置きを踏まえて、『牙狼〈GARO〉〜闇を照らす者〜』を観た。かれこれ通しで観るのは三度目なれど、観る度に愛着が湧いてくる、不思議な一作である。放送当時よりも、その後に見返した時よりも、どんどんキャラクターやストーリーへの理解が深まり、思ったより良くない??の印象を積み重ねていっている。
『闇を照らす者』はTVドラマとしては三作目となる牙狼シリーズの一作であり、冴島鋼牙の物語が劇場版『蒼哭ノ魔竜』をもって完結したことを踏まえ、世界観やキャストを一新して生まれた、新しい魔戒騎士の物語である。絶大な人気を誇るシリーズの仕切り直しというのはいつだって分が悪い立場にあるわけだが、この新機軸を認められなかったのが、放送当時の私であった。本作をフラットな心境で観られるようになったのは、『月虹ノ旅人』で冴島家のラインの終着駅を見届けてからのこと。“初代”をとかく神格化してしまう癖が、流牙を見る目を曇らせてしまっていた。反省。
とはいえ、どうしても過去作と比較して語られてしまうのが本作の常であり、私もそれに乗っかってしまうわけだけれど、本作は以下の二つの新機軸にチャレンジすることで、独自性を強めている。
一つは、連続ドラマ性の強化。雨宮慶太監督が手掛けた過去作は、魔獣ホラーの特性やそれが乗り移った人間の陰我を主軸とし、魔戒騎士がそれを断ち切る、1話完結型の怪奇ホラー色の強いドラマを基調とし、凶悪なヴィランを縦軸として据える構造をしていた。対して、横山誠監督が指揮する『闇を照らす者』は一つの街を舞台とした群像劇のスタイルで、話数ごとの連動をかなり意識した話運びが特徴である。
税金も物価も安い、誰もが幸せに暮らせる理想の街は、実はホラーが人々を襲う最悪の街だった。流牙たち魔戒騎士はホラーを狩りながら、街を牛耳る巨大企業の陰謀に迫っていく。黄金の輝きを失ったガロの鎧の謎と、それを取り返すために「魔導ホラー」と呼ばれる上級〜幹部級の敵を追い詰め、少しずつ力を取り戻していくガロ=流牙だが、そんな彼を街から孤立させようとする敵の狡猾な罠が、次第にその醜悪さを増していく。
猛竜と心を通わせた生還者・類のその後やホラーに堕ちてゆく燕邦の過程など、サブキャラクターたちの存在が連続劇を意識させ、前半1クールで残された謎や奇妙な演出への違和感も、後半2クールで綺麗に回収していく几帳面さが光る。序盤から幾度となく耳にする謎の「歌」が実は魔導ホラーを強化するものでありながら、同時に母が子を信じる暖かい想いに帰結するドラマは、何度観ても泣かされてしまうのだ。
もう一つのチャレンジは、生身のアクションの強化と、魔戒騎士やホラーのフルCG化である。
『牙狼』は元より、TVドラマとしては規格外のアクションと映像が醍醐味のシリーズだが、本作は演者による人間態のアクションの拡充に心血を注いでいる。スタントアクターが回って吹っ飛ばされての危険なアクトはもちろんだが、今作の主演を務めた栗山航氏はかなりアクションに長ける人物らしく、それでいて敵の大ボス格として立ちはだかるのがあの倉田保昭とくれば、それはもうとんでもないものが拝めるわけである。
一方、魔戒騎士とホラーのフルCG化については、ガロなどの鎧を召喚する行為が「必殺技」としての印象を強くし、騎士はもちろんホラーもその姿を一般人に晒さないよう変身を解除する様子からは、魔戒騎士とホラーの闘いの“人知れず”感を強調し、守りし者として闘いながらも誰からも称賛されない悲壮さ、偽りの真実を流布され街の人々から迫害される魔戒騎士と法師の報われなさを際立てるスパイスとなっている。
しかし、新シリーズならではの意欲的なチャレンジは応援したくなる一方で、本作が放送当時から賛否両論に晒されたように、犠牲になった要素も決して小さくない。
陰我にまみれた人間に憑依する従来のホラーを「陰我ホラー」として、それらと区別するように設定された「魔導ホラー」は、邪心に満ちた者でなくとも強制的に魔獣へと変貌させられた存在として、敵の非道さを際立てる存在ではあるのだが、個体ごとにビジュアルの変化が乏しく、本作はホラーの個性がとてつもなく薄い。過去作では陰我ホラーの「陰我」そのものが1話のドラマの中核を担ったのに比べ、本作ではその要素は縦軸を描く尺のために脇に追いやられ、幹部を除く魔導ホラーはガロが黄金を取り戻すノルマのために消費されていく。
そこに、前述した「魔戒騎士やホラーのフルCG化」が追い打ちをかけるように効いてくる。さすがに『牙狼』シリーズの予算をもってしてもフルCGの騎士VSホラーを潤沢に披露することが出来なかったのか、ほとんどのエピソードで鎧を召喚して闘うシーンは敵へのトドメ時くらいのもので、変身ヒーローものならではのケレン味が犠牲となってしまう。よもや魔導ホラーが使いまわしに思えるのも、予算の都合では?と邪推してしまうくらいには、敵を倒す画に新鮮味が足らないのだ。
「同じことをくりかえすくらいなら、死んでしまえ」と言葉を遺したのは、かの特撮ドラマ『TAROMAN』のモチーフとして有名な(?)芸術家・岡本太郎であるが、冴島鋼牙シリーズが打ち立てた『牙狼』という屋号、いや金字塔に対して、本作はそれとの差異がどうしても際立ってしまい、観る人それぞれが求める牙狼像と照らし合わせての毀誉褒貶が生じやすいのではないだろうか。10年前の私が、そうであったように。
だが、本作にもこれまでの『牙狼』シリーズから受け継いできた、変わらぬものがある。それは、少年漫画的な「熱さ」と勧善懲悪な物語、そのストレートな力強さだ。
新たな主人公の道外流牙は、風来坊で気の良いお兄ちゃん的なキャラクターであり、街の人とすぐに打ち解けられる明るさ優しさを備えつつ、同時に魔戒騎士としてはまだ若い、未熟者としての一面がクローズアップされる。非情になりきれないが故にミュージシャンの若者を見捨てられなかったり、記者の風見の記憶を消さなかったばっかりに、彼が殺され流牙も指名手配になったりと、自身の甘さが招く危機に幾度となく苦しめられてきた。
そんな流牙が、死に目にすら会えなかった(と思っていた)母との約束のために10年の修行を費やし、黄金の鎧を取り戻すために必死に闘う。たとえ視力を失っても、絶望することのなかった流牙のドラマには、心滅獣身の入る余地がないことも納得がいく。風見や、再開した母・波奏から託されて、悲しい別れを乗り越え“守りし者”として心身共に強くなっていく様子は、ヒーローの誕生譚として、実直で熱い。
また、蛇崩猛竜や楠神哀空吏、莉杏もまた、若く未熟な存在として描かれるからこそ、終盤に至る彼らの成長物語が胸を打つ。猛竜は家族を失った少女・類を見守ることで流牙とは別の方向から“守りし者”としての自覚を強め、哀空吏は家の名前に縛られた闘い方や生き方から、流牙たちとの交流を通じてその世界を広げていく。莉杏も、信じた友達を失いながらも、その高潔な生き様を知らしめるために一芝居打ち、喪失に泣き崩れることもない、強い女性としての存在感でドラマを牽引していく。
三人の騎士と一人の法師が、衝突と融和を繰り返しながら連携を高めていき、その絆が強固になっていく。やがては、精神的な父的存在である符礼の死を乗り越え、ガロだけでなくゼンとガイも黄金に至る奇跡を成す。ソウルメタルが扱う者の心に精神によって形を成すものであることを思えば、闇を照らす黄金の光は彼ら三人の共通の想いである、ということ。表題の『闇を照らす者』とはガロのみを示す言葉ではなく、悪と闘う魔戒騎士そのものを指す言葉である、という帰結は、実に美しくて、眩い。
そうした物語において、強烈な印象を与えるのが、津田寛治が演じる金城滔星である。金城グループ会長より勘当された愛人の子にして、序盤こそ流牙の理解者として振る舞っておきながら、全ての悪の根源である滔星。街を支配するために尊士やリベラを魔導ホラーとして操ることで防衛力とメディアへの影響力を有し、流牙から母親を奪い燕邦をホラーに変えた許されざる存在でありながら、彼自身はホラーではなく人間ということで、魔戒騎士は彼を守らねばならない。
小物を絵に書いたような存在感で立ち回りながら、莉杏を子産みの道具であるかのように扱う醜悪さ、家族でさえも容赦なく切り捨てる悪行の前に、彼を生かそうだとか、「善と悪の境界線が曖昧な現代ならではの悪党像を〜」などと評することは不可能。斬られて当然、殺されなければならない大悪党を、冴島鋼牙シリーズでは心優しき魔戒騎士ケンギ役を務めた津田寛治に演じさせるとは、横山監督が一番の悪党という気がしてくる。
ここまで3,700字以上を費やしてきたわけだけれど、こうした感想に至ったのは三度目の鑑賞を果たした今日この日のこと。新しいことに挑戦すれば、反発が起こることは避けられない。自分が会社でまさにその立場にいるわけだけれど、『闇を照らす者』と横山監督率いる製作陣も、まさにその渦中にあったのだろうと、10年前の心なき自分の発言を取り下げたくなってしまう。
冴島鋼牙の物語が語り継がれる名作であることは揺るぎないが、道外流牙も自分の物語、自分のサーガを歩み始めている。その第一歩となる『闇を照らす者』は、試みの全てが上手く行ったとは言い難いものの、過去に囚われない新しい輝きを放ち、受け継がれていく黄金騎士の列にその名を残していった。そして、彼の旅路は続編という形で描かれ続けていく。雨宮慶太監督が名付けたという「流牙」だが、街から街へと流れ着いていく彼の生き様を表したものとして受け止めることができた。
これからも続いていく、道外流牙の物語。10年という節目に公開された最新作『ハガネを継ぐ者』に向けて、こちらも並走を続けていきたい。続く『-GOLD STORM- 翔』については、“再会”の後にでも。