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読書感想文『愚者のエンドロール』

 シリーズ前作『氷菓』を図書館で借りた日は、雨の降る寒い一日だった。読了後に間髪入れず、シリーズの既刊全てをまとめて借りた日は、最強寒波が日本列島を襲う真っ最中だった。雨ニモマケズ雪ニモマケナイくらい、古典部シリーズが読みたかったらしい。

 というわけで、シリーズ2作目『愚者のエンドロール』について。ミステリーを語る上でネタバレは避けられないので、ご注意いただければ。

 夏休みもいよいよ終盤。文集『氷菓』の作成に追われる古典部だったが、千反田えるの提案により2年F組の生徒たちが自主制作したビデオ映画の試写会に参加することになる。稚拙な演技と撮影で構成されたその映画のジャンルは、ミステリー。かつては炭鉱として栄えていた廃墟の劇場で起こる、殺人事件。しかし映画は、最初の犠牲者が出たところで打ち切られてしまう。脚本を担当していた生徒、本郷真由が心を病んだことで、撮影がストップしてしまったのだ。

 えるを試写会に抱き込んだ2年F組の“女帝”入須冬実は、真意を明かす。この事件の「犯人」と「トリック」を推理して、映画を完成に導いてほしいのだと。そんな奇妙な依頼から始まる謎解きは、次第に折木奉太郎の意識にも多大な影響を与えていくのだが……。

 本作『愚者のエンドロール』の面白いところは、作中の折木奉太郎がそうであったように、読者が謎の輪郭を誤認してしまう、その構造にあると思う。ミステリーで殺人事件と言われたら、犯人やその動機、犯行に使われたトリックなどに意識がフォーカスするのは自明の理で、本作は2年F組から選出された3名の「探偵役」の発言の矛盾を打ち破っていく奉太郎の鮮やかな推理を読んでいく内に、どんどん真実に近づいていると「錯覚」させられてしまう。そうして映画が無事完成したことに安堵していると、終盤で見事にひっくり返される。解くべき問題を、そもそも取り違えていたのだ。

 奉太郎は見事に映画を完結に導く要素を創作して、2年F組はその通りに撮影や編集を行った。映画の完成というゴールを達成したのだから、誰もが認めるハッピーエンドだ。しかしそれは、脚本を担当していた本郷真由の当初の意図から大きく逸れて、まったく別の形をしたフィルムとして完成してしまう。もっと意地悪な言い方をすれば、奉太郎は本郷真由の作品を上書きしてしまった、ということになる。

 文化祭を“カンヤ祭”と呼ぶことを避けていた古典部の、その一人である奉太郎にとって、この一件のダメージは重い。『氷菓』事件と呼ばれる前作の真相は、集団の熱によって犠牲いけにえとなった個、関谷純の誰にも顧みられることのない叫びの一端に触れるものであった。それと近い出来事が、2年F組と本郷真由との間に起きていたのだ。ミステリー=殺人事件という先入観と現場のアドリブが生んだ、本郷真由の消失。クラス全員で“ばんざい”する彼女の願いは、誰の目にも留まることはない。

 奉太郎は与えられた依頼をこなしただけで、何の罪もない。客観的にはそうなのだが、当人の中ではそうやって切り捨てることは難しいだろう。自分が第二の関谷純を生み出すことに加担してしまったこと、千反田えるが何に対して“気になります”だったのかを見落としていたこと。それらが傷となり、読者に苦い後味を与える。『万人の死角』と名付けた当人の死角とは何かを、最後の数ページで突きつけられるのだ。

 折木奉太郎に芽生えつつあった、自分にしかできない役割への期待、「何者か」になれるのではないかという夢想を巧みに誘導し、映画の完成という表面上の成功に導いた入須冬実の、高校生離れした能力が全てをコントロールしており、驚愕する他ない。彼女はクラスメートから「探偵役」を募り、彼らの意見を束ねさせることで奉太郎に「推理作家」を演じさせる。奉太郎が本郷の真意を誤読したのは、入須の影響が無かったとは言い難く、彼女にしてやられたのは私のような勘の鈍い読者も同様である。

 結果として2年F組の自主制作映画は完成し、文化祭は輝かしい思い出として彼らの胸に刻まれるであろう。本郷真由も、ダメージを最小限に留めたまま、いずれクラスに復帰すると思われる。全てを丸く収めた、いずれ総合病院を継ぐであろう才女の手腕にひれ伏すと共に、古典部と読者だけが手痛い失敗の余韻を受けるしかないのである。誰も死なないミステリーを書くはずだった本郷の想いは、全員が墓まで持っていくしかないのだ。

 して、奉太郎を抱き込んだ入須冬実だが、クライマックスに彼女のチャット相手が判明することで、その人選に多いなる外部の力が働いていたこと、本郷真由を守るためという美談ですら覆される余地があることが明かされる。「力」のタロットカードが示す女性とは誰か、実に心地よく騙していただいたものである。

 ところで、奉太郎は最後になぜ“安心”したのかを、ずっと考えている。この上なく残酷な結末に着地してなお、字面通りに受け取れば彼は安らぎを得ているのである。

 一つは、奉太郎の意図するところとは若干の差異があったにせよ、入須は奉太郎の能力に期待をかけていたことは変わらぬ事実であり、普段の省エネ気質では考えられないエネルギーを注ぎ込んだことが一応は報われたことへの安心。もう一つは、入須冬実が“女帝”としてのある種の冷酷さ、他者を利用することを厭わないという、福部里志の人物評そのままの在り方に安堵したのではないだろうか。彼女が心を痛め、奉太郎に謝罪するような心根の持ち主であれば、被害者がまた一人増えたことになっていたのだから。

 この一件で傷つくのは、本郷真由と、古典部と、我々読者だけである。それが一番おさまりのいいエンドロールなのだろう。

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