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殺して、喰って、生きて。『仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判』

 Amazonプライムビデオで配信され、そのショッキングな内容が話題を呼んだ『仮面ライダーアマゾンズ』が、ついに完結した。配信開始から足掛け3年、言葉にすると短くも思えるが、最新話が配信される度に何かしらの痛みを抱え、傷つきながらも翌週が待ちきれなくなる。そんな視聴体験は中々得られるものでもない。

 今回の劇場版へと至るドラマ版2シーズンについては過去の記事を読み返していただけるとありがたいが、『アマゾンズ』が描こうとしてきたのは、この世に生まれ落ちた全ての生命が背負う業、すなわち、生きるために他種の命を喰らうという、当たり前のように繰り返してきた生のメカニズムそのものであった。スーパーに並ぶ肉や魚とて、元々は命ある者であり、それを捕食し取り込むことで生き永らえてきた人類。その食物連鎖において、人間を食べる上位の存在が現れたら、私たち人類にはその欲求を否定する権利があるのか。生きたい、そのために食べたい、という欲求は、他の誰かの生きたいという願いを踏みにじる行為だとするのなら、生きることそのものが罪なのではないか。

 そうした問いを投げかけ、生きるための日々の営みのグロテスクな側面を浮き彫りにすること。それが『アマゾンズ』の挑戦的すぎるテーマであり、日曜朝の愛と平和を守るライダーでは成しえない、配信専用タイトル(シーズン1は再編集版が地上波放送されたとはいえ)だからこそ描けた鮮烈さであった。こと「平成仮面ライダー」という枠組みの中で振り返っても、平成初期作品のダークな要素を抽出して、より先鋭化させたような荒々しさを感じさせる、血みどろの物語。最近の作品では鳴りを潜めた怪人による殺人描写に始まり、出血や欠損などの描写はもちろん、食人というタブーを題材にした『アマゾンズ』は、横に並び立つ者がいないほどに別格の存在である。

 その完結編となる本作では、二人のアマゾン—水澤悠と鷹山仁の決着、その思想のぶつかり合いの顛末が焦点となる。野生と養殖、相対的な生き方を選んできた(科せられた)二人が、アマゾンという異形となって拳を交えあう。人を襲わず生きようとするアマゾンを守りたいと願う悠と、自らの行いに落とし前をつけるべく全てのアマゾンを殺さんとする仁。人間とアマゾン、その生存戦線の最前線で血を流し続けた二人の闘いは、いわばエゴと社会倫理の対立であり、答えがない(闘い続ける)ことが物語の落としどころであったし、そのジャッジは容易に下せるものでないことは誰もが感じたところだろう。だからこそ、作り手がどのような審判を下すのか、鑑賞前の期待は尽きることがなかった。

以下、本作のネタバレを含む。

 ドラマ版2シーズンの脚本を手掛けた小林靖子は監修に回り、今回その任を負ったのは『エグゼイド』で手腕を発揮した高橋悠也氏なのだが、結果として高橋脚本に対する信頼度がまたさらに深まった形になってしまった。冒頭から「アマゾン畜産計画」「アマゾン牧場」なるパワーワードが飛び出すのだが、ついに人類は食糧不足対策の名目でアマゾンの家畜化に着手していた。自らが造り出し、そして身勝手に殺してきた罪に背を向け、あまつさえその肉を嗜好品として喰らう始末。

 この行いに異を発するのはもちろん悠であり、新たに造りだされたアマゾンの子どもたち(「幸せを運ぶ天使」というネーミングが露悪的すぎて最高)に真実を告げる。「誰かの命になるために、誰かのために生きるなんて間違ってる!」と叫ぶ悠だが、この問いかけこそが『アマゾンズ』らしい。なぜ牛や豚の家畜化が許されて、アマゾンのそれは許されない?同じヒトの形をしているからか、あるいは同等の知能を有しているからなのか。どちらにせよ、悠自身の正義感や怒りが、決してヒロイックなものではないことを劇場版においても叩き付けられる。

 そのカウンターとなるのが、当の家畜アマゾンたちだ。彼らは自らが誰かに食べられるための命であることを知り、それを無上の喜びと感じていた。それが教育か遺伝子操作によるものかはさておき、自ら食べられることを望む家畜の意思に対し、悠は反論することができなくなる。人を食べずに生きようとするアマゾンは守る。そうしたルールを己に科してきた悠にとって、彼らを守ることに何の意味があるのか。その迷いゆえに、心を通わせたアマゾンの少女ムクを、引き取り手の元へ行かせてしまう。

 結果として、アマゾンの肉を選り好みする醜悪な人間の姿を知り、ムクはアマゾンに覚醒する。生きるために殺して、喰らう。「生きたい」という純粋な想いの発露は、シーズン2の千翼を彷彿とさせるが、その結末は得てして残酷なもので、御堂=ネオアルファによって瀕死にまで追い込まれてしまう。そして悠は、ムクを守れなかった迷いの代償に、ムクの命を喰らうという罰を背負うことになる。

 自らがアマゾンであることを受け入れ、人を喰らうアマゾンは殺し、その他の生き方を選ぶアマゾンを守るために闘い続けた悠。しかししてその正義感はとても危うく、自己中心的にも近いその理想ゆえに、「ヒトの形をした命を喰らう」という最も避けてきた行為に手を染めることになる。人間かアマゾンか、双方の生存戦略の中心で彷徨い続けてきた者に対する、考え得る限りの残酷な結末。ムクの血に染まった口元が、なんとも痛々しい。

 一方の鷹山仁は、アマゾン細胞を産みだしたことへの負い目として自らもアマゾン細胞を宿し、全てのアマゾンを駆逐することを誓った男だ。そんな彼が、今作では望まぬ形で家畜アマゾンの製造元になってしまう。その落とし前として、仁は造られたアマゾンたちを殺さなくてはならない。千翼を殺してもなお、彼は自らの子どもたちを殺し続けなくてはならない、究極の煉獄に閉じ込められている。

 その上、今回の家畜アマゾンは全て、人間側の事情によって生み出されたものである、という事実が、仁の憎悪や苦悩を増してゆく。その結果として、仁は御堂を、人間を殺す、という局面にまで追い詰められてしまう。全てのアマゾンを殺し、人間を守ることを信条に生きてきた男が、それを捨てざるをえない状況にまで陥ってしまう。愛する女性を、そして息子を失い続けた仁は、最終的に自らの信念さえも捨て去らなくてはならなかった。アマゾン細胞を、そして苦悩し生き続けた全てのアマゾンたちを造り出した報いとして、この上ないほどに苦しい結末が用意されていた。

 持ち合わせた主義主張や正義もかなぐり捨て、一線を越えてしまった悠と仁。同族を殺すことはそれこそ聖書にも記されている通り、最も重い罪である。守るべき対象を殺めてしまった二人は、野獣のように殺し合う。怒り、叫び、血を流しながらお互いを傷つけあう二人のアマゾン。もはやそこに「生きたい」という意思は感じられず、ただそうあるべきだからそうしたと言わんばかりに、殺し合いを続ける。

 その闘いの決着は、悠の勝利に終わる。「人間を守る」という最後の一線を破った仁にとって、すでに生き残る意思はなかったのかもしれない。仁は愛した女性の幻影に看取られ、眠りについた。残された悠は、アマゾンも、そして人間である仁も殺めた罪を一身に背負い、生き延びてしまった。その責任を感じ死のうとするも、美月の幻影の声を聴き、思いとどまる。しかし、果たしてそれは「救い」なのだろうか。アマゾンを喰らったことで食人欲求がいつ芽生えないかも知れず、全てを背負って生きなければならない。元は人によって産み出された養殖の命でありながら、仁以上に過酷な運命に晒されるアマゾンとしての悠。闘いの勝者には似つかわしい苦い未来を予感させるエンディングが、鑑賞後も忘れられない余韻を残してゆく。

 かくして、『アマゾンズ』の物語は終わりを告げた。人が生きるために他の命を奪うこと、その是非は答えが無いことこそが答えであり、そして劇場を出た我々は、当たり前のように肉や魚を喰らう。そうした営みのどこかに痛みを覚えていては、生きていけないように仕組まれているのだから。

 命を扱う内容だからこそ、その始まりと終わりを壮絶に描き出した『アマゾンズ』は、仮面ライダー史を見渡しても特大級の異色作であり、問題作であった。二度とこんな作品にはお目に掛かれないかもしれないという危機感と同時に、いわゆる「大人向け」のライダーがここまで真摯に造られ、完璧な終焉を迎えたことに場違いな喜びを感じるほどには、この作品に熱狂していたことに気づかされた。子どもたちの夢を守るヒーローだってもちろん大好きだが、返り血に汚れた異形とて、それはそれで「仮面ライダー」であり、忘れがたい一作になった。今後も見返しては、彼らの痛みを思い出して悩むことになるだろうが、それもまた良い作品の証左であると、しみじみ思う。

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