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読書感想文『いまさら翼といわれても』
進路希望を白紙で出した、なんてシチュエーションを学園ものでたまに見かけるけれど、本当にそれを実行した人はいるのだろうか。私の場合は、書くべきことも見つからず、かといって白紙で出して先生のお説教を受ける勇気もないので、適当なことを書いて出したはずだ。もちろん、内容は覚えていないけれど、その内容に沿った未来予想図を歩んでいないことは、神に誓ってそうだと言える。
そんな私がだ、古典部の彼ら彼女らの青春模様を「眩しい」などと言うのは、実に無責任なことであったと、反省している。悩んで、足掻いて、もがき苦しんでいる様を、何様のつもりで一言にまとめようとしていたのか。実に恥ずべきことをしたもので、いまさら悔やんでも遅いのだけれど。以下、ネタバレを含む。
『古典部シリーズ』現状の最新刊は、四作目以来となる短編集。その『遠まわりする雛』を読んで、彼らが二年生へと進級し、各々の価値観や目指す道、あるいは関係性にも大きな変化がやがて訪れるのだと予感していたけれど、その速度はこちらの想像を遥かに超えて、早い。まだ十代、高校二年生にも関わらず、古典部の面々もそろそろ進路を定めて、歩み始めることを意識しなければならず、本著のいくつかのエピソードによってモラトリアムの期限が否応なく前面に出てくる。
それと並行して、過去作とやや異なる雰囲気をまとった一冊に仕上がったものだなと思わされたのが、いくつかのエピソードには共通して「怒り」や「悪意」が前景化していたからである。『箱の中の欠落』では立場の弱い一年生を強烈になじる選管の委員長と彼に対する里志の憤りが、『鏡には映らない』では卒業制作という輝かしい思い出に挟み込まれた敵意が、『わたしたちの伝説の一冊』には漫研の分断を通して敵対する陣営を陥れる策略が描かれた。奉太郎のモットーが形成された過去の出来事を語る『長い休日』も、幼い奉太郎少年が感じた大人への疑心、他者の都合のいいように立ち回っていた素直さを捨て去るしかなかった虚しさを語るもので、ほろ苦さの点で言えば過去作と比べても突出している。
ただ、それぞれの事件に対する各登場人物の向き合い方の差異が、興味深い。『箱の中の欠落』は犯人が投票数をかさ増しした動機には一切触れず里志の顛末も省略され、『わたしたちの伝説の一冊』は摩耶花が漫研を退部するに至ったいきさつを、あの河内亜也子との結託によって未来へ前進するという熱い幕引きが待っていた。『連峰は晴れているか』は、奉太郎が積極的に他者の事情を知り、過去の誤認を改めるといったもので、千反田えると出会った影響の中で最も大きな変化がフィーチャーされたものである。いつも全てを見通しているかのような折木姉の言葉がまるで天啓のようにこだまする。“きっと誰かが、あんたの休日を終わらせるはずだから”と。
しかしその中でも、かける言葉も見つからない余韻をもたらすのが、表題作『いまさら翼といわれても』である。地域の合唱祭の本番当日、ソロパートを任されているえるが、忽然と姿を消したという。携帯電話を持たない彼女の行方を捜索する摩耶花や合唱隊関係者たち。しかし奉太郎は、限られた情報の中から一つの仮説に辿り着く。
ここで重要なのは、奉太郎が導き出したのはえるの居場所ではなく、なぜ彼女が出番を放りだしていなくなってしまったのかという動機、ホワイダニットを探り当てたことにある。前作『ふたりの距離の概算』と本著収録の『連峰は晴れているか』が示すように、奉太郎は他者の心の揺らぎや置かれた立場を気にするようになり、『遠まわりする雛』の一件で感じ取ったえるの重責を知り、それを統合して解決への糸口を手繰り寄せた。えるを探し当てられるのはホータローだけ、という里志の言葉は、的を得すぎている。
しかし辿り着いた真相は、どうにも重たい。千反田えるは、家の名前を守り、地元に奉仕することをおそらく幼少期から命じられ、その通りに自分を律するだけの強さを持った人物だ。疲弊していく土地や人々を美化することなく、現状を厳しく見つめつつも、愛着を抱き、より良くしたいと願う意思があった。しかしその強さは、弱さと表裏一体でもあった。自由を与えられた鳥は、どこへともなく飛び立っていく。そんなものは、人間の都合のよい想像だ。鳥にだって鳥なりの気持ちがある。
千反田がこれまで背負ってきたもの、いま背負わなくてもいいと言われたもののことを思うと、俺はふと、何かを力いっぱい殴りつけたい気分にかられた。殴って、自分の手を怪我して、血を流したいような気になった。
ここにきて、またしても「怒り」のモチーフが顔を出す。えるを雛として地元に縛りつけていた者、あるいは慣例が、無責任に鳥籠の扉を開け、好きにせよと言う。これまで強く聡明だと思っていたえるの心は、課せられた役割を全うしようとする思いによって支えられていた。その土台を、急に失ってしまうのだ。羽ばたく鳥の飛翔を歌えと言われ、それに自分を重ねられるだけのイメージを持てず、えるは逃げ出してしまう。ソロパートという果たすべき役割から目を逸らしたくなるほどの動揺が、えるを襲った。“いまさら翼といわれても、困るんです”
気せずして、未だ氷解には至らない千反田えるの心の一端を、奉太郎は見て、知った。その問題は学校の「外」であり、自分の「外」にある。しかし今の彼は、もうそれを見て見ぬふりなど出来やしないだろう。そして今度は、える自身が羽ばたく先を定めなければならない。宙に浮いた進路希望に、筆を入れなければならない。いつぞやの自分が直面し、なぁなぁで誤魔化したそれと、向き合う時が彼女にやってきたのだ。その成長痛との闘いが一体どうなってしまうのか……。その答えは25年2月現在、米澤先生の頭の中にしか存在しないのである。
「このミステリーがすごい! 2022年版」の近況報告欄にて既報ではありますが、次にKADOKAWAさんから出る新刊は、〈古典部〉シリーズの長篇にしようとご相談しています。
— 米澤穂信 (@honobu_yonezawa) February 4, 2022
気づけばあっという間に、既刊全てを読破してしまった。ここまで付き合った以上、彼らの青春の終わりまでを見届けないと、成仏できるはずがない。この時抱いた怒りや苦しみが何かに昇華されるその時を読んでようやく、地学講義室のドアを開いたあの日の意味がわかるのだ。月並みではあるけれど、“わたし、気になります!”と書き残すしか、今取れるアクションはないのである。
全ては米澤先生の健康と、近いうちに新刊が読める未来を願いながら、ひとまずここで栞を挟んでおくことにしよう。
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