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時代がSACに追いついた日。『攻殻機動隊 SAC_2045 シーズン1』

 スカーレット・ヨハンソン主演によるハリウッド実写版が公開されたその日に発表されてから、この日をどれだけ待ちわびただろうか。監督を『STAND ALONE COMPLEX』シリーズの神山健治と『APPLESEED』の荒牧伸志が手掛け、オリジナルの声優陣が続投、さらにシリーズ初となるフル3DCGアニメで制作されるなど、ファンは期待半分不安半分で配信初日を迎えたはずだ。

 そんな『攻殻機動隊 SAC_2045』(以下、『2045』)における一番の関心事と言えば、3DCGの攻殻はアリなのか、『STAND ALONE COMPLEX』(以下、『SAC』)の続編なのか、という点。両者共に筆者の主観や現状の作品を観ての推測になるものの、ネタバレ無しと有りに階層を分けて『2045』の感想を掘り下げていこうと思う。Netflix入会を迷っている人の参考になれば幸いである。

(20.05.04)「訂正とお詫び」を追記

3DCGで描かれるネット、9課、タチコマたち

 ティーザー映像が公開されたときの動揺は覚えているだろうか。ビデオゲームの映像が実写と見紛うくらいに精細さを増していく中、『2045』のそれは一昔前のハードのCGムービーを彷彿とさせるような、言葉を選ばないのであれば「古臭い」「ぎこちない」印象を受けた。おまけに、素子は『SAC』の頃よりも数段若返った、少女のようでさえあるビジュアルで現れた。全身義体の彼女にとって加齢が身体に現れることもなく、若返りもあり得ない話ではないのだが、「メスゴリラ」というあんまりなあだ名で呼ばれるほどの貫禄を持ち合わせていた少佐に惹かれていた私にとって、スマートになって帰ってきたことは事件だった。

 だが驚くことに、1話を再生して数分で3DCGで描かれる攻殻機動隊への違和感は消え去り、あとは食い入るように見つめ、あっという間に次のエピソードへ、という風に視聴していった。おそらく今作は2Dアニメの質感を再現してシリーズの整合性を保つことよりも、「今の映像技術でできる攻殻を追求する」ことに狙いがあるのだろうと、前半6話で感じ取ることができるからだ。

 何もディズニーやピクサーといった世界基準と肩を並べる出来というわけではないのだが、3DCGが真価を発揮するのはアクションシーンにおいてだ。タチコマや多脚戦車といったメカ群がパワフルに動き回り、アメリカの荒野を疾走しながら銃撃戦を行うシーンでは、それらが機械であるからこそCGとの親和性も高いため素直に楽しめることができる。一方、心配の種であったキャラクターたちも、モーションキャプチャを活用することで動きに人間らしさが宿り、これまでのシリーズにはなかった格闘術を用いる素子、という描写も観られる。また、元から全身義体の素子や、今作から登場する新人類ポスト・ヒューマンたちの、思わず笑ってしまうほどにインパクトのあるアクションを表現するためには、3DCGはうってつけの表現方法だったらしい。先ほどの表現と矛盾するようだが、彼らの人間離れしたアクションを支えるのも、3DCGあってのものだ。

 さすがにドラマパートになると、肌の質感や経年の表現、そもそもの実在感などに甘い部分があり、所々チープに感じられたのも正直な感想だ。その辺りは『SAC』オリジナルキャストによる演技がけん引してくれるおかげで、おなじみの公安9課の面々に問題なく見えてしまうあたり、強引だが有効な戦略だったと言えるだろう。彼らが横並びに立った瞬間の高揚感たるや、本当にたまらない。

 なお、ネットにダイブする表現、電脳戦の描写は『SAC』を踏襲しつつ今の技術でフルリメイクされた格好で、ここが一番の燃えポイントであったことも付け加えておきたい。「攻勢防壁」「電脳を焼く」といった攻殻ならではの表現がより視覚的にわかりやすく、電脳を共有してのブリーフィング場面なども現実とシームレスに描かれるため、視聴者を世界観にライドさせる映像の巧みさは健在といえる。

『SAC』のゴースト宿りしもの

 あなたの『攻殻機動隊』はどこから?という会話で盛り上がった経験があるだろか。士郎正宗による漫画『攻殻機動隊』は、難解なテーマ性を欄外の注釈で理論武装した形で、それこそ電脳で逐一情報を検索しながら読まなくては理解できないほどの情報量と先見性を孕み、薦める人を選ぶようなタイトルだった。

 映像化作品においては、何と言っても押井守による劇場アニメがその後のSF史に多大な影響を与えた金字塔としてそびえ立ち、その一方で神山健治の手掛けるTVアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』も根強い人気を誇る。黄瀬和哉と冲方丁による『攻殻機動隊 ARISE』シリーズ、スカーレット・ヨハンソン主演のハリウッド実写版も存在し、攻殻ユニバースはとにかく広大だ。

 それぞれの作品はキャラクターを共有しつつ、時代もテーマ性も異なる作品群であり、「これぞ攻殻!」と思う要素も人の数だけ存在するだろう。ハードなSFを独自の解釈で語る士郎正宗版や押井版、警察としての側面を強調し個々の事件に挑む『SAC』など、それぞれに良さやコンセプトがあって、その奥深さゆえに『攻殻機動隊』は読み解かれ続けるタイトルとして君臨している。

 さて、期待の最新作『2045』は、SACという題名に神山健治の参画、配信前には『SAC』のBD-BOXが発売されたこともあり、『STAND ALONE COMPLEX』を意識するなと言う方が無理なくらいにファンの心を配信前からかき乱した。3DCG化や素子の容姿に対する批判も、今作が『SAC』から地続きだったとしたら、という前提あってのものだろう。菅野よう子の音楽が流れない『SAC』が観たいか?と聞かれれば、どうしたって不安に思ってしまう。

 では実際のところどうだったかと問われれば、『2045』は確かに『SAC』シリーズに連なる作品と言ってもいいだろう、という感触を得ている。ハッキリと強い言葉で断言できないのはまだ公式からそうと明言されていないからで、作中の描写が示す「連なり」も単なるファンサービスの域を出ないものの可能性があるからだ。

 例えば、首相官邸に飾られたあの人の肖像画、トグサの家族の行方、旧タチコマなどなど、『Solid State Society』からの時間経過を感じさせるくすぐりが散りばめられ、それをもって『SAC』の続編として位置付けることもできる。一方で、公安9課の過去の経歴は抹消されており、かつて「笑い男事件」「個別の11人」「傀儡廻」と彼らが相対したことは明示されていない。あれだけこじらせた難民問題がどうなったのかと思えば、もはやそれどころではないレベルで世界経済が破綻してしまった『2045』ではその後は語られていない。あくまで『SAC』のキャラクターや舞台設定を借りた個別の作品という立ち位置に収まることのできるバランスを、『2045』は保っている。

 シリーズファンならよりそう感じるはずだが、今回の『2045』は過去の作品群と比べてわかりやすく、ライトに楽しめる一作だ。エンタメ性も高く、人を選ぶような難解さも影を潜め、それ単体でも楽しめるよう調整されている(とはいえ、電脳や義体といった基礎のキは説明されないので、やはり予備知識は欲しい)。その一環として『SAC』の続編であると銘打ってしまうことを避けたのだろうか。つまり、『2045』を『SAC』の続編とみなすか否かは、各々のジャッジに委ねられている。今のところは、かもしれないが。

(20.05.04追記)
訂正とお詫び

 本記事では、『2045』が『SAC』の続編であるか否かについて、公式サイドから明確な発言がなかったこと、過去の事件に言及されなかったことを鑑みて「どちらともとれる」という結論を下したものの、神山健治監督がtwitterにてファンからの質問に回答したところによると「SSSの先のストーリー設定ではあります」との言及がありました。公開されているインタビューなどは目を通したつもりではございましたが、こちらの発言について見落としており、誤った情報を記載したまま記事を公開してしまいました。すでに本記事を読まれた方、キャスト・スタッフの皆様にお詫び申し上げます。

 『2045』が『SAC』の正当続編という前提に立って見返すと、重みを増してくるのがトグサの離婚であろうか。本人曰く円満離婚とのことだが、『Solid State Society』では愛娘が間接的に標的になったことから察するに、自分が刑事を続けるのなら家族に危険が及ぶことを恐れて別れに踏み切ったのだろうか。家族と仕事、その天秤において刑事を選んでしまうあたり、トグサも中々スリルから離れられない男のようだ。そんな彼を9課再編のため招聘した荒巻課長の嗅覚たるや、やはり切れ者である。

 シーズン2では、2034年が舞台の『Solid State Society』から『2045』に至るまでの物語も描かれるのだろうか。未だ単独回に恵まれていないボーマや、そもそもが謎めいているパズなど、世界的大恐慌の裏側で何をしていたのか想像を掻き立てられる部分が多い。2シーズン合わせて24話、独立したエピソードも醍醐味の『SAC』の本流となる作品であれば、そういった部分も期待してしまう。

以下、『2045』のネタバレを含む

STAND ALONE COMPLEX

 本作が『SAC』シリーズであるか否かを語る上で、そもそも本作における「STAND ALONE COMPLEX」とは何か、読み解かなくてはならない。それぞれが自我を持つはずの「個」が、主体性を失い他者と同一の行動を取る行為、オリジナルなき模倣者を生み出す社会現象を、本作はどのように描くのか。

 そのテーマを色濃く受け継ぐのは、後半に登場する「シンクポル」というシステム。システムが選んだ人物を参加者が有罪か無罪かを判決し、有罪の数が「顔無し」として選ばれた人物の電脳をハックして現れ、最終的に電脳を焼くという仕組みが組まれ、参加者はアプリを通じてその光景を見ることができる。今でこそ見慣れた、SNSを用いた私的制裁を具体的に映像化したギミックであり、これに参加する者たちは無自覚な加害者として描かれる。

 やけに生々しい、そしてSNSを通じてよく見かけるそれを、堂々と描いてみせた『2045』。そのテーマに真新しさがないとはいえ、電脳を介して実際に対象を死に至らせること、他者を叩く人物を「のっぺらぼう」に描くなど、ストレートでショッキングな映像のインパクトはやはり強い。シンクポルの参加者たちは議題に挙げられた人物がいかに悪事を働いたという「情報」のみを並列化し、それをもって有罪か無罪かを決め、結果として手を汚さずに殺人に加担することになる。そのサイクルに「スッキリした」「オレならアイツも(電脳を)焼いてた」とあっさり言いのける彼らは、殺人の実感を微塵も感じていない。おそらく、与えられた情報のみで判別し、その人個人を知ろうともしなかっただろう。

 『2nd GIG』でも提唱された通り、「STAND ALONE COMPLEX」を生み出すシステムは元から社会に内包されており、SNSを通じて現実社会を生きる我々が単一性を消失した「個の複合体」にすでになっていることを、『2045』は描いた。2000年代初頭のアニメが未来の私たちのあり得る可能性を示した『SAC』から時が経ち、『2045』は時代が『SAC』に時代が追いついたのだと、言ってのけた。あれだけ異様に感じていた笑い男の模倣者たちと、この現実社会を生きる私たちは実は同じ存在なのだと、画面の向こうから突き付けてくる。水は低きに流れる。それを実証しているのは、他ならない私たちだ。

ポスト・ヒューマン

 ところが、シンクポルを創り上げたシマムラタカシはあっさりとそれを捨て去り、次なる計画に動き出す。

 『SAC』がサリンジャーや(間接的に)三島由紀夫を引用したように、『2045』は読み解きのテキストとしてジョージ・オーウェル著『1984年』を堂々と登場させる。全体主義国家による統治と支配からの脱却を秘密裏に志す男の思想や理念を通してディストピアの恐怖を描いた、バイブル化された名著。その中でも、『2045』でも引用されたこんな一節がある。

「戦争は平和である 自由は屈従である 無知は力である」

 ここにおける「戦争」とは、大国が自国の経済活動を持続させるための「サスティナブル・ウォー」にあたるのだろう。1984年』における世界は、戦争が繰り返され、市民は思想や言語の統制を受け生活物資も制限されている。「サスティナブル・ウォー」で得をするのは従来の支配階層のみで、貧しき者たちは這い上がることも許されず「レイド」と呼ばれる収奪行為を繰り返すテロリストになるしかなかった。

 また、「無知は力である」という言葉も、体制側が強いる暴力そのものだ。民衆が政府に盾突くのは困る、だからこそ彼らには無知でなくてはならない。この世界の矛盾や不正に気付かれては困るのだ。シマムラタカシは、「シンクポル」が正義を成すシステムではなく、人々から考えることや個を有する意識を捨てさせる悪しきシステムであることを察し、性的搾取を行っていた男性教師を裁いた後にそれを放棄した。体制側が望む者を増やすだけにすぎない愚かな仕組みを自ら捨て、自分だけは世界の真実に気付いていると言わんばかりに体制側の公安9課を翻弄する。

 『1984年』の登場人物が反体制を唱えたように、ポスト・ヒューマンも従来の支配階級へのカウンターを目的としている可能性が高い。その場合、公安9課も体制側の犬と化すか、あるいは「犯罪に対して常に攻性であること」を貫くのか。その答えは、いつ配信されるかさえアナウンスされていないシーズン2までお預けだ。その時我々も、個を消失したままの無知な存在であり続けるのか、あるいはー。観るまでの不安が嘘のように、『2045』にダイブしてしまったようだ。

 余談だが、7話『PIE IN THE SKY/はじめての銀行強盗』が、『SAC』の単体エピソードを思わせる秀逸な出来栄えだった。そこには、利用者の年金を搾取し、それを使い込んでしまう銀行支店長が悪として裁かれた。これを「税金」と読み替えて今の情勢を鑑みると、これもまた『SAC』と現実がリンクしているようで、なんとも末恐ろしい。



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