日曜朝放送の昼ドラという異端児『仮面ライダーキバ』
平成が終わる。そうなれば、一つの区切りが迫っているのが『平成仮面ライダーシリーズ』である。2000年の『クウガ』に始まり、ちょうど20作品目を数えるタイミングでの元号変更に、どこか運命じみたものを感じずにはいられない。
その中で唯一、個人的に見逃していたのが2008年放送のシリーズ第9作目である『キバ』だった。『剣』で一度卒業し、『ディケイド』で舞い戻ってきてから過去の作品をDVD等で履修していった特撮遍歴の中で、この作品だけ観る機会を失い続けていた。ちょうど、全平成ライダーの集大成的コンセプトの『ジオウ』の放送がアナウンスされ、そして『キバ』放送10周年という節目のタイミングで、腰を据えてイッキに鑑賞しよう、と思い立ったのである。
全48話、親子二代に渡る壮大な歴史ドラマを見守った記念にて、『キバ』の紹介文を以下に綴っていきたい。
『キバ』の見どころといえば、ズバリ作品のコンセプトである「過去と未来」を並行して描く物語そのものにある。人間の生命エナジーを吸収する怪人・ファンガイアが跋扈する1986年、天才的な才能を持つバイオリニスト紅音也は、口説いた女性がファンガイアと闘う「素晴らしき青空の会」の一員であったことからその存在を知り、自身も闘いの道を歩んでゆく。それから22年後の2008年、父のようなバイオリン職人を目指す青年・紅渡は、なぜか本能に突き動かされるようにキバに変身し、ファンガイアと闘う日々を送っていた。異なる二つの時代、一組の父子がそれぞれの時代の主人公を担い、物語は進行していく。
この手法は、後にも先にも『キバ』だけの試みであり、本作の独自性を物語っている。父である音也を尊敬しつつも、その実態をまるで知らぬままに父の背を追いかけていく渡は、なぜかキバという力を宿した謎多き青年である。普段は「この世アレルギー」を自称するほどの引きこもりでありながら、一度キバとなれば内向的な性格が嘘のように、ファンガイアとの闘いに赴く。渡が主人公となる現代編では、再び現れたファンガイアと闘いながらも様々な人物と交流することで人間的成長する過程を追いながら、自らの出自と両親のことを知り、そしてファンガイアと人間という異なる種族の間に立つ者としての責務に苦悩する姿を、視聴者は見守っていくこととなる。
一方、紅音也を主人公とする過去編は、人々を襲うファンガイアと闘う「素晴らしき青空の会」のメンバーである麻生ゆりに付きまとう音也の自由奔放な振る舞いを軸にしつつ、初代(仮面ライダー)イクサとしてファンガイアと闘い、そして真の愛に辿り着くまでの物語だ。女から女へ移る渡り鳥のようなプレイボーイ気質の音也が、そして父になるまでの物語。すなわち、「渡の母親は誰なのか」という現代編でのミステリーの答えが、過去編で徐々に明かされていく、という構成なのだ。
加えて、1986年に出現したファンガイアが22年の時を経て再び暴れまわり、それをキバである渡が討伐する、というのが本作の基本構成である。人間体を持つファンガイアは人間社会に溶け込んでおり、まるでゲームのように特定の条件下でターゲットを選定し、人間を襲う者がほとんどである。そうしたファンガイアのパーソナリティが過去編を観ることで紐解かれていき、音也と交流のあったキャラクターとの出会いを経て、渡は少しずつ父の姿を知っていく。
単体では小さな出来事が、二つの時代を見通すことでパズルのように組みあがり、やがて一本の軸として紅親子の歴史が出来上がっていく。視聴者の集中力を要求する構成ながら、点と点が繋がり「こういうことだったのか!」と納得したときの爽快感はかなりのものである。一組の父子の物語が絡み合う物語の基本構造を、「鎖」というモチーフで表現するライダーやタイトルロゴ周りのデザインも気が利いている。
とはいえその構造上、出現したファンガイアは過去編で倒されることがほとんど無く、人間を襲う危険な生命体を22年も野放しにした挙句、なぜかそれが一斉に再出現する、という見え方になってしまっている。22年間影を潜めていた理由付けが全ファンガイアになされているわけではないため、イクサが未完成という都合があるにせよ、素晴らしき青空の会のどこか間抜けな印象が視聴者の中で生まれやすい。物語コンセプトを成立させるための理屈にやや難があるため、鑑賞時のノイズとなる可能性がある点は、否定しがたいところである。
また、ライダーファンなら免疫が出来ているためスルーしがちだが、本作は全48話中の2話分を除いて、脚本は井上敏樹が担当しており、『555』以来の敏樹成分濃厚な一作となっている。癖の強い言動をとったり、やや特殊な価値観で行動するキャラクターが作風の井上御大だが、そのアクの強さのあまり序盤でドロップアウトする視聴者がいても責められないほどだ。主人公の渡とてバイオリンに使うニスの材料のために魚の骨を盗む(!?)など非常識な世間知らずであるし、紅音也の飄々としすぎたキャラクターが受け入れられじゃなければ、『キバ』という作品そのものの視聴が苦痛になってしまいかねない。そうしたキャラクターの挫折と成長に定評のある作風だと警告しつつ、万人が快適に観られる作品であると断言しきれないのが正直な感想である。
紹介文で苦言を呈するタブーを犯したものの、それを補って余る魅力を兼ね備えているのもまた事実。
例えば、ライダーのデザイン。キバは「King of Vampire」という名称に相応しいゴシックホラー調のデザインで、初期フォームが真の力を鎖で封印された状態、かつライダーキックの名称が「ダークネスムーンブレイク」と恐ろしく格好いい上に、真の力を解放した最強フォームが「エンペラー」と、心の中の中学生が喜ぶようなネーミングだらけ。2号ライダーのイクサは白を基調とした聖職者イメージのデザインで、独特な音声の変身ベルトと武器のナックルが癖になる。
対するファンガイアも、ステンドグラスの意匠が織り込みつつ様々な動物のモチーフが施されたこだわりのデザインで、死の際にガラスが散るような演出があるなど、常に美麗なのが『キバ』らしさだ。
そして何より、20話の真夜の登場で一気に加速する「愛」が主題の物語。ファンガイア一族のクイーンである真夜は、掟を破り人間を愛したファンガイアを処分する執行人だが、人間そのものに強い興味を抱いていた。
運命の女と決めたゆりを巡って、狼の怪人ウルフェン一族最後の生き残りである次狼と争いながら、奇妙な友情を深めてきた音也も、真夜の浮世離れした美しさに目を奪われてしまう。実はこれまで≪音也―ゆり―次狼≫の三角関係が過去編の主題だったところに、まさかの新勢力現る。ゆり自身も音也への想いを認め交際関係がスタートしたところでのまさかの展開に、目が離せなくなっていく。
音也自身もゆりに対する愛情を抱きつつも、自身の才能を理解し協調できる真夜に惹かれていき、ゆりは嫉妬を募らせる。真夜も人間への興味がいつしかまだ見ぬ感情に変化することに自覚、クイーンとしての使命と矛盾していることに苦悩する。男2対女1の三角関係から、男1女2の三角関係にシフトする過去編。ゆりが見せる、交際相手への不信感を募らせる描写が中々リアルなもので、これが日曜朝8:30に放送されていた事実に戦慄するほどのドロドロ具合。
そしてあえてネタバレをしてしまうなら、真夜はファンガイアのキングとの間の子どもがいる、立派な人妻である。子どもがメインターゲットの番組で、浮気や不倫を堂々と描く豪胆さに、これまた驚かされてしまう。今ならSNS炎上案件必須の、危険な一作なのだ。
もちろん、こういった行為は道徳的に許されないものであり、番組としてもそれらを推奨しようとする意図は当然皆無であろう。愛に生きた紅音也は決して褒められた人物ではないが、自分の芯は曲げず義理堅く、自分の才能に絶対の自信を抱く強さ、それらが嫌味にならない塩梅で演じきった武田航平氏の熱演が相まって、どうしようもなく魅力的なキャラクターに映る。だからこそ前述の通り、音也が受け入れられなければ『キバ』を気に入ることはないだろう、とさえ思えてしまう。
そして同時期、現代編でももう一人のキーパーソンである深央(みお)が登場する。人見知りという共通点から渡と意気投合し、渡も「自分を変えたい」という彼女の願いを応援する内に、瑞々しい恋が芽生えていく。しかし、彼女こそ現代におけるファンガイアのクイーン継承者であり、その覚醒を迫るファンガイアに悩まされるようになってしまう。
渡も、深央に想いを寄せる中で旧友の太牙と再会し喜ぶが、ファンガイアのキングである太牙と深央は結ばれる運命と知り、初めて失恋を経験する。それでも深央を諦めないと宣言した矢先に自らの出生の秘密を知り、より大きな運命に巻き込まれていく。
真夜と深央、過去と現在二人のクイーンの登場と共に、『キバ』の物語は急加速していく。最初は引きこもりだった渡が友を作り、恋をしては挫折を経験し、やがて一人の男としてたくましく成長する様は王道で熱く、一方の音也は自分の音楽=魂の共鳴に導かれその運命が変化し、「男」から「父親」へシフトしていく流れは秀逸だ。いずれも「愛」をきっかけに成長するのが『キバ』のメソッドであり、他のキャラクターも同様である。親子愛や異性愛を問わず、愛の賛歌の物語は一度火が点いたら止まるところを知らないジェットコースターで、『キバ』は後半から「化ける」と言い切ってしまいたいほどの魅力を持ち合わせていた。
平成ライダーも数えて18年20作、二つの時代を並行して描く構成の作品は二度と現れないだろうし、「昼ドラ」と揶揄されるほどドロドロした物語は視聴者に快く受け入れてもらえないだろう、とさえ勝手に推察してしまう。
だからこそ『キバ』は唯一無二であり、エモーションが高まった際のバトルやドラマの盛り上がりはシリーズの中でも上位に入り込むほどの面白さで、決して「つまらない」「駄作」などと一蹴される代物ではないと、強気に言い返したくなってしまう(子ども向けか、と言われると迷ってしまうが)。その完成度や整合性には疑問を抱きつつ、本作独自の魅力が強すぎるあまりシリーズの中では浮いてしまった、そんな一作なのではないかと擁護してしまう。
そういった意味で「異端児」と題したものの、その翌年がこれまた『ディケイド』なので、平成ライダーはこれくらい尖っていないと、埋没してしまうものなのかもしれない。ちょうど放送10周年、そしてメイン俳優が現行ライダー作品に出演中という絶好のタイミングで、『キバ』を見返してみるのはいかがだろうか。