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村上春樹をめぐる私の人生のいくつかの物語

悪夢を見た。嫌な感覚のする夢だった。疲れているからか、浅い眠りの中でいくつかの悪夢を見ていた。夫はまだリビングで起きているようだ。夫を呼んで、先ほどまでうなされていた嫌な夢の話をしたら、夫はけらけらと笑っていた(私はたまに悪夢を見るし、そのたびに夫はこうして寝室に呼ばれることになる)。夫と話してホッと安心する。これが現実だ、とぼんやりする頭の中で少しずつ現実の感覚が戻ってくる。そして安心して、私はまた眠りにつく。

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私は読書が好きな子どもだった。なぜ好きになったのかはあまり覚えていないけれど、小学校のときにハリー・ポッターシリーズを貪るように読んだこととか(あの頃、ハリー・ポッターは一種の社会現象になっていたし、私は何十回も読み返した)、地元の図書館に毎週末通っていたことなんかが原点なのかもしれない。娯楽の少ない田舎だったので、読書が私にとっての娯楽だった。

中学生の頃、隣の席の子が「村上春樹が好きなんだよね」と言っていた。当時の私の知らない作家だった。その子は、宮部みゆきや村上春樹が好きな子だった。たしか、私はその頃東野圭吾シリーズをよく読んでいた気がする。(ガリレオが流行っていた頃のことだ)

そのときの担任の先生は国語の先生だった。すらりと背が高く、化粧っ気のない人で、綺麗な色のスーツをいつも着ていた。

先生が何かのタイミングで、本の話をしてくれたことがあった。先生が村上春樹をとても好きなこと、一番好きな本は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」であること、そして村上春樹がイスラエル最高の文学賞「エルサレム賞」を受賞したということ。

そして、そのとき、たしか私の記憶が正しければなのだけれど、先生は村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチの文章を読んでくれた。もちろん、そのときの私は村上春樹を読んだこともなければ、文章の意味を理解することもできていなかったと思う。

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ちょうどその頃、いくつかの悲しい出来事が私たちみんなを襲っていた。私に直接的に何かが起きたわけではなかったのだけれど、それらは「思春期にありがちなこと」という一言で片づけてしまうには、あまりにも大きな出来事だった。それらの出来事は、周囲の大人たちを巻き込んで、私たちの手には負えないような話になってしまったのである。

未だにそれらの出来事は私たちの心のどこかにひっそりと身を潜ませていて、たまにふっと顔を覗かせてくる。私たちは大人になった今でも、あまりそれらの話をしたがらない。それらはあまりにも何人かの人たちの人生に大きく影響をしてしまっていたし、私の大事な友人を大きく傷つけた。

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私はその後、進学と引っ越しを何度か繰り返して、生まれ育った地を離れた。まるで全ての記憶をその地に置いていくかのように。

地元を離れる前に、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を少し読んでみたけれど、ちょっと当時の私には難しすぎて、途中で読むことをやめてしまった。たしか、「ノルウェイの森」も少し読んだのだけれど、それも最後までは読まなかったと思う。

高校生のとき、クラスメイトとちらっと村上春樹について話した覚えがある。多分、私はちょっと読みにくいんだよね、といったことを話していた気がする。

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それから時は流れて、私は大学生になり、いつの間にか社会人になった。
何がきっかけなのかは分からないが、私は大学3年の頃からまた猛烈に読書に励むようになっていた。

大学に入りたての頃の高揚感みたいなものがだんだんとなくなり、それなりにバイトをして、それなりに勉強をして、友人とたまに遊んだり飲んだりするだけの日々に慣れきってしまっていた頃だ。少しずつみな将来のことを考え始め、私も大学だけでの付き合いよりは自分の将来のために時間を費やすことが増えた。一人の時間が自然と増えてきて、合間に読書をまたするようになり、なぜかあんなに苦手で読むことができなかった村上春樹を好んで読むようになった。

「ノルウェイの森」「1Q84」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」なんかを就活の準備の合間に読んでいた。特に好きだったのは、「ノルウェイの森」だ。映画も見たのだけれど、やっぱり原作が一番好きだった。

僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルグ空港に着陸しようとしているところだった。

「ノルウェイの森」

この出だしがとても好きで、繰り返し繰り返し読み返した。海外に行くときに飛行機の乗る際は、必ずこの文を思い出した。

そうして私は東京の片隅で社会人になり、「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」を読み、時には四ツ谷を歩きながら同じく村上春樹好きの同僚と「これはノルウェイの森に出てくるところだよね」と話をした。

そうしてまた時は流れていった。

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年末に、同級生の何人かで久々に集まっていた。みな趣味が似ていて、映画や美術館の話をした。本の話になり、村上春樹の話をしていたら、みな村上春樹が好きということが判明した。(ちょうど私はその頃、「羊をめぐる冒険」を読んでいるところだった。)

ワインを飲みながら、私はかつて村上春樹が好きだと言っていた隣の席の子のことや、エルサレム賞受賞のスピーチの話をしていた担任の先生のことを思い出した。

先生はもう私たちのことも、エルサレム賞受賞のスピーチの話も覚えていないかもしれない。私は先生のたくさんの教え子の中の一人だ。

それでも、あの頃からもう10年以上の時が流れて、こうして東京の片隅でワインを飲みながら、私たちがそろって村上春樹の話をする日が来るとは先生も想像もしていなかっただろう。私たちだって想像もしていなかった。

この文章を書くにあたり、先生がそのスピーチを読んでくれたことを思い出し、2009年の村上春樹のエルサレム賞受賞の記事を引っ張りだした。

私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けるのです。

村上春樹

先生はこのスピーチについて何か話をしていたのだと思うのだけれど、その内容はさっぱりと思い出せない。多分、当時の社会情勢と絡めた話だったような気がするし、違うような気もする。そして、その話の内容を覚えていないことを後悔した。スピーチ全文で村上春樹が話している内容は、今の時代も変わらず問題となっていること、そこに対して村上春樹が真摯に向き合い、小説を書き続けているという事実だったからである。

このスピーチの「生と死の物語」という言葉で村上春樹が「ノルウェイの森」で書いた「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という文章を思い出した。

死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的にすでに含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることができるものではないのだ。

「ノルウェイの森」

そう、いつだって村上春樹は「死は生に内包されている」という一番大事で、それなのにいつも私たちが忘れてしまうことを思い出させてくれている。

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私のこれまでの人生にはーたいていの人の人生がおそらくそうであるようにーいくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりしたー

「一人称単数」

さて。
今日も私は電車に揺られて村上春樹を読みながら、自分の人生の奇妙な偶然や、生と死や、様々な巡りあわせに思いを馳せる。あの日、教壇に立っていた背の高い先生のこと、あの頃私たちに襲い掛かっていた不安や悲しみの波のこと、大学時代に読んだ小説のこと、ワインを飲みながら村上春樹の話をしたこと、その日の帰りに雨が降っていたこと。

右を選んでも、左を選んでも結局今ここにたどり着いている気がするんだよな、そんな風に思いながら。


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