【短編小説】それでも動いている
1:
薄暗い地下牢。男が投獄されていた。かつては整えられていた自慢の髭も、手入れができず、疲れ果てた印象を与えているだけだ。
彼はいま、壁に釘を使って文字を刻んでいた。
「それでも動く」
天動説を唱える主流派の怒りを買い、異端者として宗教裁判にかけられ、その結果このジメジメした場所に閉じ込められることになる、きっかけとなった言葉。
「ガリレオ・ガリレイ」
呼びかける声に振り向くと、男が立っていた。
鉄格子を通して見る男の姿には覚えがある。名前は忘れたが、カトリック教会の、相当地位のある者だったはず、裁判の時に見かけた記憶がガリレオにはあった
「随分と研究熱心だ」
男はたったいまガリレオが刻んだ文字を見る
「それでも動く、か」
「そうだ、いまこの時も動いている」
「まあ、そういうことにしておこうか」
「いずれは私が正しかったことが証明される」
「そうかもしれないが、その時には君も私も死んでるよ」
男は来た時と同じように、不意に去っていった。
ガリレオ・ガリレイは再び壁に向き直ると、思惑を続けた。
2:
村井純平は額の汗を、白衣の袖で拭った。
(もう限界だ)
純平は周囲を見回す。彼のいる場所は病院内の外来待合スペースだが、患者で溢れかえっている。中央処置室が飽和状態なのだった。
救急車のサイレンが聞こえてくる。ここに搬送されてくるのだろうか。また患者が増えることになる。ため息が漏れる。純平はもう一週間以上、働き続けていた。
病院はパニック状態だ。
二ヶ月ほど前、奇妙な病気が発生した。何の前触れもなく、めまいに襲われ、活動困難な状態になってしまうという症状だった。
「常にジェットコースターにのっているような状態」
「車に酔ったみたい。でも百倍苦しい」
患者はその苦しみを訴える
死に至ることはないが、一度罹ると治らない。
日本のみならず世界中で発生し、患者数も激増していた。
日本では先週、国民の半分以上が発症し、経済が完全に停止。都知事は東京都内のいくつかの病院を、この症状専門に指定した。純平の勤務する病院もその一つだ。
3:
ようやく休憩を与えられた純平は、屋上に上がった。地獄と化した院内で唯一落ち着ける場所なのだ。
スマートフォンを操作した。SNS上で、今回のこの症状について、さまざまな投稿がなされていた。その中で、特に最近注目されている投稿がある。
「地球の自転を体感できるようになってしまった」ための症状だというのだ。
いうまでもなく地球は回転している。自転である。
その速度はかなり速い。位置によって差があるが、日本を基準とした場合は時速約1500キロ。人間がその速度を体感できないのは、地球上にいて、同じ速度で動いているからである。
それが何らかの原因で体感できるようになってしまった、というのがこの投稿者の主張だった。
4:
純平は、この説を笑い飛ばすことができなかった。何の根拠もない、妄想に近い説であるにもかかわらず、彼にはこれが正解のように思えてならない。
空を見上げる。
心なしか雲が早く移動しているような気がする。
いや、これ、本当に雲の動きが早い。
自分は止まっているはずなのに、でも自分も含めて、全てがものすごい速度で動いている。
このギャップにめまいを感じた。
嘔吐してしまい、立っていられなくなり、うつ伏せに倒れ込んだ。
「常にジェットコースターにのっているような状態」
ああ、患者さんのいう通りだったな、いざ自分が罹ると、実感できる。
でも、これ病気ではないかもしれない、と純平は考える。
進化なのかもしれない、自分は医者だからそういう方向に考えるのかもしれないが、これをきっかけに人類は変わるとしか考えられないのだ。
めまいがひどくなってきた。視界がぼやけてくる。
「それでも動く」
ガリレオの言葉だっけ。
これ地球の自転のことじゃなくって、人類のことなのかも。
めまいが加速的に悪化していく中で、純平は思う。
「それでも動く」の「動く」って、人類の進化のことを言いたかったのではないか?
(終)
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