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学校で勉強する理由@わたしの持論

#学校 #勉強する理由 #持論 #学びたいから #知りたいから #現状は難しい #やっぱり環境を整えよう #学ぶっておもしろいよ  

どうも。何を書こうか迷っていて、「人間って、求められると自分で理由を作っちゃうんだなぁ~」とぼんやり感じていた、じーもです。(何を言っちゃてるのかよくわかりませんが 笑)

今回は、学校で勉強する理由について、私の持論を話します。ただの理想に聞こえるかもしれませんが、やっぱり自分にとってはそこが原点なのかな、と思うので忘れずにおきたいことです。

あ、少し余談になりますが、「心の伸びしろ(石井琢朗著)」という本で、著者(ベイスターズやカープで活躍した元プロ野球選手です)が書いていた言葉が印象的で。それが、

「持論と理論は違う」

ということでした。人によっては当たり前に聞こえるかもしれませんが、私にはスッと入ってきまして。自分の経験から得たものは理論ではなく持論であり、確かなものではないと意識することは大切だなぁと感じることができました。同時に違いを意識しておくことも大切だと思えました。だから今回は私の持論ということで。…では本題に入りましょう。(笑)

学校で勉強する理由

結論からいきましょう(ビジネス書なんかでもよく見かけるやつ 笑)。私が考える学校で勉強する理由は、

「学びたいから」

です。

…はい、それだけです。将来のため、社会で生き抜くため、いい大学に入っていい会社に入るため…とかそんなんではなく。

「知りたいから、学ぶ。もっと知りたいことやわからないことが出てきたから、もっと学ぶ。」

これが学校での勉強する理由の本質だと思っています。じゃあ社会で生き抜く力は必要ないのか?いえ、そういうことではありません。その学びを経ていく中で、社会で生き抜く力を養わせるようにデザインすること。それが教師の仕事であり、醍醐味であると思います。これが私の持論です。

その持論の根拠

この持論に至ったのは、もちろん根拠があります。私は、教員養成系の大学に通っていました。そこで卒業論文を書くために生物分野(専門は理科でしたから。)の研究室に所属することとなります。

教員養成大学ですから、教材研究など学校と関係のあるテーマをする研究室もたくさんあります。ですが、私の所属した研究室は、「理科の教員になる者が、科学の初歩を理解せずにどうする。」というスタンスでした。つまるところ、きちんと科学の研究をして、まずは自分が学ぶことを実践しなさいよ、ということでした。

科学の研究といっても、何も知らない若造(あまり専門性が高くない学生)が1年やそこらで学べるものは多くありません。そのため、今考えると、本当に整えられた環境の中で、科学の第一歩となるような経験をさせていただいたと思います。ちなみに、英語の教科書を読み合わせる勉強会や英語の論文を紹介することなど、かなり鍛えられた期間となりましたが。(笑) (ちなみに私は英語が苦手だったので、かなり苦戦していました。)

そんな研究室のメンバーで飲みに行ったの時のこと(けっこう飲み会が好きな研究室だったので、私もよく連れて行ってもらいました。)。こんな話をしてくださったんです。

「お前たちがここ(教員養成大学)に来て卒業する目的は、どうして勉強するのかと問われて答えられるようにすることだ。ちなみに、将来のためだなんてつまらないことは言うなよ。将来のためなんて突き詰めれば○ぬために生きる、みたいになっておもしろくないから。」

私はこの言葉を聞いて、卒業するまでに自分なりの答えを見つけようと決心しました。(決心したからと言って年がら年中考えているわけではありませんが。笑)

で、実際私が卒業論文を書くために勉強をしていたんですよ。卒業論文を書くためには、この分野の知識が必要だ。待てよ、そもそも統計についてわからないと何にも進まないぞ。ん?ここの根拠をほかの論文でも探さないと。

そうやっていたら、自然と思うようになりました。あぁ、勉強って本来こういうものかもしれない、って。しかもそうやって勉強することは、なんだかおもしろいんです。もちろん私の場合は大学生の頃だったので、小学生や中学生たちにとっては少しハードルが高いのかもしれません。でも、根本ってそこにある気がするんですよね。

ちなみに、その先生からはこんな話も聞きました。

「今、科学研究なんかは、役に立つものでないと研究費がおりにくくなってる。"それは将来どんな役に立つのですか?”みたいな。そうじゃないんだよ。こっちはその事象を通して明らかにしたいことがあるから研究したいのに。」

私にとっては、本当に貴重な期間となりました。ありがとうございました。

教員時代に出会った不思議

そんな感覚をもって教育現場に臨んだ私です。日々の忙しさに、今言ったことが実践できていたかは大いに怪しいものですが(たぶんできてなかったと思います)。ある場面に会い、私は首をひねることとなるんです。

授業の合間の空き時間。職員室にて。なかなか学習が進まない子(いわゆる指導が必要な子)に対して。指導をしている言葉が聞こえたんです。

「あのな。勉強はしんどいものなのよ。先生もみんな我慢して乗り越えてきたのよ。おもしろくないかもしれんけど、しなくちゃいけないんだよ。」

…ん?

つい私はその指導をしている方を見てしまいました。百歩譲って、その先生が勉強に対してそういったイメージを抱いていることは否定しません。でも子どもに面と向かってそれを伝えるのは…と思ってしまったわけです。

もちろん。現状を考えると、そうやって寄り添うことも一つの方法だとは思います。共感することで信頼関係や、少しでもやる気が出るのであれば。ただ、そういった現在の教育の在り方について、勝手に危機感を覚えたのも事実です。

個人的な希望

今現在。教育は、将来のための投資と捉えられることがほとんどです。しかも、評価方法のひとつであったはずのテストが、「いい点を取る」という目的にすり替わっている現状もよく見かけます。

変化が目まぐるしく、でも、何も考えなくてもそこそこの生活が送れるようになっている現代。未来を担う人材をこのような教育で育てることは大丈夫なのか、という不安もなくはないです。

ただ、私ができることとしては、やはり、環境を整えることだと思っています。今教育に携わっている方も、環境が整えば、余裕ができれば、本質に目を向けることが可能だと思います。みんな頑張っていますから。

教育の在り方もそうですし、働き方などの環境も、時代に応じて変化していくことを願っています。(誰目線なのか…)その中で、私もできる範囲でそのお手伝いができれば、と考えています。

最後に。

少し説教臭くなってしまったかもしれません。すみません、そういうつもりではなく、ただ持論として伝えたかったことではあるんですが…。そこは、読者のみなさんを信じて、お任せします。

以上。今日もお付き合いいただきありがとうございました。よければまたお会いしましょう。では。

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