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心と体の健康の話①@私が経験した“うつ”


どうも。昨日、毎日2つの記事投稿を三日坊主になり、そのかわり、なんだか気が楽になった、じーもです。詳しくは、昨日のnoteをご覧ください。

さて、今日の話は、すこ~し重くなっちゃうかもしれません。自分がうつだった頃の話と、人生、健康や安全が一番だよ、っていう話です。当人としては、意外とあっさりしています。(だから、ここでも書けてます。)きっと読んでくださっている方の中にも、自分より大変な経験をされている方もいらっしゃると思います。ただ、その辺は比べたり、程度の問題でもないと思うので、「じーもはそうだったんだね。」ぐらいで聞いてください。

秘めたうつのポテンシャル

ん~、最初から、言葉が適切なのか怪しいですが。早い話、うつと診断されるまでにも、自分の人生を振り返ってみると、その予兆があったな、っていう話ですね。

まず初めは中学生のころ。知り合いの人のところに、勉強を教えてもらいに行ってたんです。その方は、元々高校の先生で、当時はすでに退職をされて何年か経っている状態。他にもお世話になっていたので、知り合いというより、私にとっては親戚に近い存在でした。今でもそう思っています。

当時は野球部だったこともあり、疲れて眠くなりそうなときもありましたが、優しく教えてくれていました。勉強を教えてもらうときには「やるからには一番を目指すんだ」って言ってくださっていたんですよ。今考えると、ほんと同感で、一番を目指す、一番になるからこそ見えてくるものや、つかめるものがあると思っています。もちろん、すべてがそうだとは思いませんが。

でもね。当時の私は、そうじゃなかった。一番がすべてじゃない、とか、そんなに熱くならなくても、とか。いわゆる言い訳をしている状態だったんです。そのくせ、言い訳とは気づかずに、ある時、自分の正義(価値観)を否定された気がしてしまって。その日の帰りは、家族にわざわざ電話して「もういやだ」とだけ言って電話を切ってしまったんです。…いや、心配するでしょ?しかも、たちが悪い当時のじーも少年は、家から姿を消してしまったんですよ。…家のすぐ近くのマンション裏の路地に。(ほんとすぐ横です 笑)でも、そんなことを知らない家族は大慌て。(そりゃそうでしょ。)で、結局は見つかった、というか自分で帰ったんですけど。ほんと、当時は心配かけました。母さん、父さん、姉ちゃん、ごめんなさい。

時代はぐんと進んで、次は大学3年生の頃ですよ。参加していたサークル活動(周囲の小学校に呼び掛けてイベントを企画運営するサークル)に、いつも感じていた充実感が感じられなくなっちゃって。急になんだか、虚無感みたいなのに包まれちゃったんですよ。それはそれは、すっぽりと。

で、急に辞める、とか言い出して。ちょうど世代交代の時期で、次の部長をどうするか、みたいな話し合いをするときだったんですよ。そしたら、みんなが、わざわざ集まって、自分のために話をしてくれたりして。そりゃもう、温かい言葉をたくさんいただきました。(ほんとに、当時はありがとうございました。)なんとかサークルには残りましたが、じーも青年はそれでも満たされず、部活仲間(バレー部にも入ってました)にもそんな感じで、心配してもらうんですよ。そこでも、ありがたいことに、みんな温かい言葉をかけてくれました。

いや~、当時の迷惑っぷり、書いていて恥ずかしくなりますね。(穴があったら入りたい…)上の話だけで想像すると、大したことない感じですけど、一人でいたときは、めちゃくちゃ自分を責めまくってましたからね。自殺するとしたらどうするのがいいんだろう、とか、自分を否定する言葉ばかり自分に向けていたり。そんなことばかりしていたような気がします。

うつになった年の自分

そんなこんなで、たくさんの人に支えてもらいながら、何とか社会人にまでなったじーもくんです。窮地(自分で勝手に追い込んでる)になったときは、結局、誰かに聞いてもらいたい、慰めてもらいたい、と思うものなんでしょうね。で、うつと診断されたのは、社会人4年目の時でした。その年のことを振り返ります。

大学を出てすぐに、縁があって、教員採用試験に受かりまして。3年間は住んでいる地域にしては規模が大きめの学校に配属されたんです。そこでの経験は、大変なこともありましたが、様々なことを学ばせていただきました。たぶん人も良かったんだと思います。(恵まれてます。ありがとうございます。)で、4年目は、異動の年だったんです。(地域にもよると思いますが、教員って結構異動が多いんですよ。特に初任者は、一旦違う市や町に行くことになったりします。)異動した場所では、私はもちろん初任者ではありません。戦力として、十分に見られるわけです。加えて、それまでは学年に複数クラスがあるうちの1クラスを担任していました(3クラスあったので、たくさん相談にも乗ってもらったり仕事を分担できてました。)が、単学級の担任(学年に1クラスしかない状態)になったんです。そのあたり、もしよければ、こちらもお読みください。

で、その年は、研究授業っていう、周りの先生たちに「試行錯誤して、こんなことしたみました!」っていうのを提案する担当になったんです。ちなみに、いつか当たると思っていたので、最終は自分で手を挙げました。(まさかあんなことになるとは…)

研究授業は、所属する学校内だけの場合もあるんですが、当時は、所属する市で代表発表(担当した分野では市内で2人)することになってたんです。しかも、自分が担任していない学年(4年生)でしました。…ここ、少し説明がいると思うんですけど、結構自分が担任してるクラスって融通が利くんです。ちょっと空いた時間に作業ができたり、何より普段よく知っている子どもたちが相手になるわけですから。で、そうじゃないということは、普段そこまで深く接していない子どもたちに、しかも、担任するクラス(当時は5年生の担任)の授業以外の場所で、授業をしないといけないんです。だから、当時は、いわゆる空き時間がなかったですね。(1日ず~っと授業をしている状態。ふつうは、他の先生に授業をしてもらって、その間に宿題の丸付けや授業の準備なんかをします。)しかも、研究授業ですから、普段は時間がなくて挑戦できないようなことにも挑戦できる権利がある。(というか、そういうものに取り組むという風潮です。)

スケジュールで言うと、確か、6月に授業(実際に授業を見てもらって協議したり、それをまとめて市の代表として発表するのは1時間分です。ただ、1時間だけ授業をすればいいのではなく、その単元、つまり、学習のまとまりをすべて担当することになります。)をして、11月に発表だったと思います。

4月といえば、担任する子どもたちとも、大切な期間となるので、クラスでの時間を大切にしつつ、研究授業の内容を考え、6月ごろはほぼ空き時間がない状態。11月に発表があるので、発表のプレゼンをまとめる必要があるのですが、当時は体育主任(校内の体育関係の代表管理者みたいな立場。)だったので、夏はプールの管理があったんですよ。

あれって実はけっこう大変で、暑すぎると藻が発生するし、毎日、朝と昼休みに水質管理しないといけないし、そもそもその日の気温と水温を測ってプールができる状態か情報を集めなくてはいけない。(判断する基準はある程度決まっていますが、最終は校長など管理職が判断することがあります。)しかも、放課後はプール教室を開いていたので、実質、朝7時~夕方5時までは、働きっぱなしのイメージです。(注意すべきは、だいたい8時~17時まではずっと自分の顧客が目の前にいる状態。休憩も給食指導なので、顧客が目の前にいます。つまり気が休まらない。トイレに行くのも一苦労 笑)

もちろん、17時以降も仕事が終わるわけではありません。むしろそこからが本番で、授業の準備やプレゼン準備、今日あったことのまとめや保護者への連絡、その他校内の体育関係の管理…などなど。だいたい家に帰ると21時すぎだった気がします。ひどいときは、朝の7時前から夜の11時過ぎまで学校でいました。(たぶん今でもこんな働き方をしている人はいると思います。)

で、11月の発表を終える頃なんですが、実は担任していたクラスでもいろいろと問題が出てきまして…。一部の子どもたちとの信頼に関する問題や、友だち間でのトラブルなど。(基本的には日常茶飯事です)中でも女の子関係のトラブルやいじめにつながりそうなことは慎重に進める必要があります。

しかも、困ったことに当時は自分のほかに定期的に介入してくださる先生がいなくて。(もちろん週に1回や2回授業で入ってくださる方はいました。また、特別支援学級に所属する子がいれば、そこの担当の先生が一緒に来てくれる場合もありますが、それもなかったです。)必然的に、日常のクラスのことを気軽に相談できる人がいなかったんですよね。

断っておきますが、6年生の担任の先生(学年に2クラスありました)や保健の先生や教頭先生、授業に入ってくれていた先生など、もちろん、お話を聞いてくださる方はいました。ただ、自分が頼り切れなかっただけで、自分にその余裕がなかったんだと思います。実はこれってあるあるだと思うんですけど。自分が若手であれば、周りの人が忙しすぎるのを見てると相談しにくくなっちゃうんですよね。もちろんしくみの影響もあると思いますが。

…は、気付けば、こんなに書いてしまっていました。まだ続いてしまうので、続編を書かせてください。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。よければ続きもどうぞ。


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