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ご主人様を待つ湯飲み【音声と文章】

山田ゆり
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「のり子さん、ちょっといいかしら。」


仕事が始まってそうそう、のり子は上司に呼ばれた。
上司はアイコンタクトをしただけで、くるりとのり子に背を向けて歩き出した。

のり子はこのまま社長室に行くと思っていた。
ところが社長室を素通りし会議室に入った。



ドアを開けた上司が会議室をぐるりと見渡した。
誰も居ない事を確認した上司はのり子に話しかけた。

「あのね、前社長が昨日、お亡くなりになったの。」

のり子は最初、何のことか呑み込めなかった。
前社長は2年前に退任された。
70代後半ではあるが、まだまだお元気な方だったから、
社長がお亡くなりになったことを脳がすぐには受け入れなかった。



「それでね。毎月前社長にお支払いしている地代家賃だけれど、明日が振込予定で、ネットバンキングでそれは既に操作済みでしょ。それをキャンセルしてほしいの。そのように先ほどご遺族から連絡がはいったの。」

のり子は事の重要性をすぐに把握した。
のり子はネットバンキングの担当であり、その振込は2日前に完了させていたのを上司は知っていた。


「あ、あと、全社員向けに訃報はメールするけれど、今のところは誰にも口外しないでね。」

それは分かり切っている事である。口の堅いのり子はその点はわきまえている。



のり子は自分の席に戻り、早速、デスクトップ型のPCに向かった。
ネットバンキングのマニュアルを見たところ、一旦、総合振込が完結してしまっているものをキャンセルできる時とそうでない時があるらしいことが分かった。

そして、キャンセルできる方法で画面を開けていったが、引き戻しができる一覧にそれはなかった。


そこでのり子は、ネットバンキングのお問合せのフリーダイヤルに電話をした。


電話に出られた方に概要をお話し、専用の方に電話が変わり、一緒に画面を見ながら操作をしてみた。そして、今回の件は、ネット上ではキャンセルできないということが分かった。


一度振込確定したものを引き戻すには手書きの書類が必要で、その書類はネット上にはなく、銀行窓口まで取りに行かなければいけないことが分かった。


しかも、明日が振込指定日の為、遅くても今日昼前の11時までには銀行側の引き戻し作業が終わっていないといけないとのことだった。
11時まであと1時間ちょっとしかない。


のり子はすぐに上司にこれまでの経緯を報告した。
上司は快諾し、事務係のAさんに銀行窓口に行ってもらうよう指示をした。

そして引き戻し請求の書類に記入し、銀行にお渡しして明日の総合振込をストップすることができた。


引き戻しが完了したと銀行から電話を受けて安堵し、そこで初めて前社長のご逝去に気持ちが向いた。



懐かしいお顔が思い浮かぶ。
叱られたことがたくさんあった。
のり子は社会人になって、あれほど強く叱られたことはなかった。
それだけ前社長は「人を育てる」ことに注力されていらっしゃった。

相手が50代、60代であろうが、「ここは直してほしい」と前社長が思われた時は
まっすぐに注意をしてくださる、ありがたい方だった。




給湯室にある棚の中に、前社長の湯飲み茶わんが置いてある。
いつかふらりとお寄りになったらお渡ししようと思っていたのだ。

のり子はその湯飲みをあたらしいハンドタオルで包んだ。
前社長のご自宅へお悔やみに上がった時にお返しできるように。




連日、酷暑が続いた夏も終わり、時折降る雨が秋を深くしていった。








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山田ゆり
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