最期の約束
母の体から産み落とされたぼくは、ダンボールに入れられました。
目もまだ開かないぼくは、母じゃない誰かに連れられて寒くて悲しいところに捨てられました。
お母さん、寒いよ。お母さん、お腹がすいたよ。お母さん、どこにいるの?
ぼくは一生懸命お母さんを呼びます。
でもお母さんは来ません。
ご主人が、ぼくを抱き上げたのはぼくが寝ようとした時でした。
優しい声で、
「ここにいたんだね、さがしたよ。」と言います。
ご主人はぼくを家族にしてくれました。
ご主人はぼくを病院に連れて行って、そのあとお家に入れてくれました。
ご主人は名前もつけてくれました。
「まる」
ご主人は嬉しそうにぼくを呼びます。
ぼくも嬉しくなってなあに?と答えます。
ご主人はかわいいね、かわいいね、とぼくを撫でます。
ぼくはそれが嬉しくてご主人、ご主人と答えます。
ぼくとご主人の日々が始まりました。
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目が開いてから気づいたのですがご主人の家には、爪研ぎやごはん、トイレやおもちゃが揃っています。
でもぼく以外にはご主人しかいません。
たくさん写真も飾ってあります。
ぼくとそっくりの写真です。
ぼくがじっと眺めているとご主人は、
「この子はね、まろだよ。まるはまろの生まれ変わりかもしれないね。」と言いました。
そうなのかもしれないね、だってご主人に会えたんだもん。ぼくがそう言うとご主人は嬉しそうにわらいました。
ぼくがまるになって毎日が楽しくなりました。
暖かい寝床と、美味しいご飯、綺麗なお水、大好きなご主人。
ぼくのためのこの家がぼくは好きです。
一度だけ、ご主人に怒られたことがあります。
棚に飾ってあったまろの写真を落としたときです。
ぼくはご主人に構って欲しくて、写真を床に落としました。
ガラスだった写真たては大きな音をして割れました。
ご主人が飛んできて、まる!と大きな声を出します。
ぼくは、ガラスが割れた音と、ご主人の大きな声にびっくりしてベッドの下に隠れました。
しばらく経って、ご主人がぼくを抱き上げました。
怒ってる?と聞くと、怒ってごめんね、とご主人は言います。ぼくの方こそ、ごめんね。と言うと、ご主人はにっこり笑ってぼくを抱きしめました。
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ご主人は時々、とっても悲しそうな顔をします。
それは電話をしてる時です。
ご主人はお家でお仕事をしてるから、お外に出ることは少ないんだけど、電話が終わると外に行きます。
電話の相手はいつも怒っています。
ご主人はその人をお母さんと呼びます。ぼくは言います。ご主人、その人はお母さんじゃないよ。だって、そんなに怒るなんて、そんなに愛のないことを言うなんて、お母さんとは違うよ。
でもご主人はぼくを撫でるだけで、ただ、泣いていました。
ご主人は夜になるとたくさんお話をしてくれます。
お仕事のこと、まろのこと、お母さんのこと、病気のこと。
ご主人は心に穴が空いているそうです。
その穴は、病院で薬を飲むことで小さくなるそうです。でも、完全に塞がらないからまた大きくなってきちゃって、そしたらまた病院に行くのだそうです。
ぼくはご主人の膝に乗ります。
ご主人の心の穴はどれくらい?ぼくより小さいならぼくが埋めてあげるよ。
まろとまると出会って、これでも良くなったんだよ。とご主人は答えます。
このまま穴なんて塞がっちゃえばいいのにね。
ぼくは、ぼくの手じゃ待ちきれないくらいの愛情をご主人から受けました。
ご主人にもぼくがあげれるだけの愛をあげました。
ぼくはすぐ大人になって、気づいたらおじいちゃんになりました。
前よりご飯もいらないし、歩くのも億劫になりました。
ご主人はそんなぼくのお世話を一生懸命してくれますが、その分涙を流すことも増えました。
ある日、ぼくは、ここにいてはいけない、と体中が叫んでることに気づきました。
ぼくは必死に歩きます。
ご主人の目につかないところに、必死に。
そんなぼくに気づいたご主人は嗚咽を上げながらぼくをベッドの上に乗せます。
あぁ、ここにいていいのか。ご主人の一番近くに。
ねぇ、ご主人。
ぼくは、あっちでご主人の帰りを待つよ。
だからご主人、泣かないで、
ご主人。ご主人。
ぼくの体がふわっと空に浮きました。
下を見ると、ぼくがいました。ご主人もいます。
ご主人はとても泣いていました。
ぼくは虹の橋を渡ります。
おじいちゃんだったはずの体は、いつのまにか若返っていて足取りも軽いです。
橋を渡り切ると、優しそうな女の人がいました。
あっちの扉ですよ。
ぼくは言います。
まだ行けません。ご主人を待つんです。
ご主人と、約束したんです。
女の人は微笑んで、いつでも扉の向こうでお待ちしております。と消えて行きました。
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まろが死んで一ヶ月。
精神科の帰りにまろを見つけた。正確には、まろにそっくりな捨て猫を見つけた。
私はまろが帰ってきてくれたんだ、とその子を抱き上げた。
まると名前をつけて、ご飯をあげた。
まるはとってもおしゃべりな子で、私が話しかけるとそれに答えてくれた。
ある日まるがまろの写真を見ていた。
「この子はね、まろだよ。まるはまろの生まれ変わりかもしれないね。」
そう教えると、にゃーって目を細めて鳴く。
きっと、そうだよって言ってるのかな。
まるがまろの写真を落とした時、私は怒ってしまった。
まるは悪くない、私が仕事でパソコンばかりみて構ってあげられなかったから構って欲しかったんだよね。
小さくなってベッドの下に隠れるまるを抱き上げ、にゃっと鳴くまるに怒ってごめんね、と言って精一杯抱きしめた。
積み上げた幸せな日々も母からの電話で崩れ落ちる。
母は私を嫌っている。
兄や姉と比べられて、病気のことも理解してもらえない。
"お前を産んだのは本当失敗だった。"
小さくなっていた心の穴も、また、私の涙の分だけ開いていった。
私はまるにたくさん話しかける。
お仕事のこと、まろのこと、お母さんのこと、病気のこと。
在宅で仕事をしてるってこと。
まろも捨て猫でまるにそっくりだったってこと。
お母さんに愛されてないこと。
心に穴が空いてること。
まるはわかってるのかわかってないのかわからないけど私の話をよく聞いてくれた。
私がもらえなかった愛情を、まろから受けた愛情を、たくさん、たくさんまるに注いだ。
まるは、存在だけで私を幸せにしてくれた。
猫は大人になるのが早くて、
あれから15年しか経ってないのにすっかりおじいちゃんになっていた。
ご飯も、トイレも、1人じゃ何もできないまるを見てると、まろを思い出して自然と涙が出た。
どんなに覚悟してても、その時は、くる。
ある日まるが必死に歩いているのを見た。
私は察して、そっと抱き上げる。
ここにいてよ。いなくならないで。
苦しくて、声も出ないはずなのに
にゃあ、にゃあ、って鳴くから、
私はぎゅっと抱きしめた。
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あれから何年たったでしょう。
ぼくはこちらで幸せに過ごしていますが、ご主人は泣いていないだろうか。
そんなことを考えていた時、誰かがこちらに寄ってくるのが見えました。
白い頭のおばあちゃんでしたが、それがご主人だってことは声を聞かずともわかりました。
ご主人はとても驚いた顔で、でも、すごく嬉しそうな顔で泣いていました。
ぼくを抱きしめ、2人で扉を開けます。
ご主人、生まれ変わってもどうか、
おそばにおいてくださいね。
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