肉と商品と愛玩動物
肉は、主に、鶏、豚、牛、猪、鴨、魚。
あとは、スッポン、馬、蛙、兎など。
商品とは、此処では動物の部位を使った物
のことを指す。肉はこの文章では商品には
含ませない。リアルファー、馬油、象牙、
ペットのおやつ、乳製品、ゼラチンなど。
愛玩動物は、人間が好んで世話をする
生き物である。犬、猫、ハムスター、
兎、モルモット、小鳥、フェレットなど。
これら3種は、残念ながら等しい性質を
持っている。
「いのちの食べ方」という書籍や、
動物愛護など、犬猫の殺処分、
家畜、競走馬の屠殺、狩猟、
ペットショップ、動物実験などの情報が、
知識として私の頭の中にあるが、
これらが問題視されるのは、
私たち人間が、
死への恐怖や悲しみを痛々しさを
解っているからであろう。
あくまで私のこの考えは一理として
片隅に置いといてほしい。
結論から述べてしまうと、
世の中は人間たちの好き嫌いによって
成り立っていると考えられる。
《可愛いから》とか《気持ち悪いから》
という、そういう理由で人間以外の生物は
区別されたりする。
動物が好きな人は沢山存在する。
私自身も大の動物好きだ。だけど、
犬猫が好きな人もいれば、哺乳類全般
好きだという人もいる。
爬虫類や両生類、鳥類が好きな人もいる。
逆に、この動物は好きだけど、
あの動物は嫌いっていうのもある。
例として挙げるなら、絶滅危惧種。
絶滅危惧種を保護しているのは、
どんな人なのか
考えた事があるだろうか。
絶滅危惧種を保護しているのは、
絶滅危惧種の生き物をこよなく愛して
いる人だという事。嫌いだったら、
護ろうとしないだろう。
鮫は凶暴だと大半の人に怖れられて
いるが、鮫の愛好家は鮫を保護する。
ゴキブリは嫌われているが、
ゴキブリ愛好家はゴキブリをペット
として飼うという。
よくペットショップの売られている犬猫を
可哀想だ見ていられないと言う人がいる。
あんな狭いガラスの中で値段を付けられて
ほぼ1日中人間の目に晒される。
家畜はどうだろう、雄の子牛は産まれて
まだ幼い内に競りにかけられるという。
牛も豚も放牧されているならまだ幸福な方
かもしれない。殆どは狭いスペースで
育てられている。鶏の雛のヒヨコは、
雄と雌とで選別され、選別された大量の
雄ヒヨコは生きたままミキサーに掛け
られてミンチ肉となって死んでいく。
雌は雌で、最期まで出産を強制させられる。
競走馬は、活躍した馬以外の9割が屠殺
される。まだ3歳と若い内に殺される。
毛皮として殺される動物たち、
牙を捕る為だけに殺される象、
実験に使われる動物たち、
悲惨な例を挙げていくと切りがない。
ここでも結論を述べると、
動物は人間にとって物であるという事。
私たち、人間は怪我をすると痛い。
犬猫、哺乳類、鳥類も怪我をすると痛い。
爬虫類、両生類、虫、魚類、これらは、
痛覚が無いと言われているが、
本当にそうなんだろうか。
まだまだ科学では解らない事が多々ある
現代で、確かに痛覚が無さそうではある
が、真相は100%解っている訳ではない。
逆に痛覚が無ければ、無惨な殺し方を
してもいいのか。それは分からない。
知力の優れている人間であるならば、
無惨な殺し方をしない方を
選んだ方がいい、良心的に考えて。
だけども、自然界とは本当に残酷で、
凄惨で、非情なことが常に起こっている。
何が正しいのかは、私には決めれない。
屠殺や毛皮の実情を知って、
ベジタリアンになったり、
フェイクファーを
推奨するのもいいと思う。
それぞれのやり方がある。
私は、肉が好きだから感謝しながら
肉を食べている。定期的に、屠殺動画を
観て有り難みを忘れないようにしている。
本来は、自身で、狩って絞めなければ
ならないもの。それくらいは目に焼き
付けておかなければ。
ここまで語ったが、逆に動物嫌いな人には
大して心に響いていないと思われる。
肉を食べるという事に関しても、
毛皮を取ることに関しても、
競走馬の実情を知ったところで何とも
思えない人も存在する。
私は、ひ弱なアザラシの頭をバーベルで
殴って砕き、皮を剥ぎ取り、血塗れの肉の塊
を捨て、その作業を淡々と繰り返す人間の
映像を観た時は衝撃を受け、傷付いたが、
それを何とも思わない人間がいるから、
こういう残酷な行為が繰り返されるのだ。
攻撃性の低い穏和な動物は、殺し尽くされて
絶滅していく。そうでなくても、人間の力に
よって滅びゆく動物は沢山存在する。
命の循環というものは、正解も不正解も
無く、ただ循環し続けるものだということ。
太古の昔から、
殺し殺されを繰り返してきた。
肉と商品と愛玩動物も
この地球上の生存競争の一部分なのだ。
それぞれの定めがあり、
変えられない運命であり、
死ぬまで精一杯輝き、
散っていく。
それが例えこの世に生を授かった直後
だとしても……
拝読感謝。