選択肢の無いチョイスについて

アメリカが揺れている、なんでも妊娠中絶禁止を違憲とした判断が覆ったのだという。今後は中絶の是非は州ごとに定められる、とのことだ。

わたしたち日本人にとって、何故そこまでもめるのか理解しがたいであろう、この問題。アメリカ政治における宗教右派と、フェミニストらをはじめとする人権左派の対立については、優れたアメリカ政治学者の方々が分析されているので、そちらを参照されたい。

意外なことに、フェミニスト人権派と、キリスト教原理主義、彼らは今や対立の象徴となっているが、どうやら黒人たちが選挙権などをはじめとする公民権を求めて立ち上がったときには、手を取り合う仲間であったのだという。

しかし、現在、汝の敵を愛する人間はとても少なくなった。人権派も宗教派も、こと妊娠中絶問題については互いに罵り合い、極端な例ではテロの応報を繰り返してきたのだ。

「かわいそうランキング」

そもそもこの問題、過度に理論づけられているが、大多数の両者の支持者にとって、そのような理論武装は意味がないものだ。結局のところ、どちらをかわいそうで保護するべきと考えているか、という問題に収斂する。

ある人は、母親の体から産まれ出た時点から人権が発生すると考え(女性の選択派:”プロチョイス”)、別のある人は、母の胎内に命を宿した時点から人権が付与されるべきと考る(”プロライフ”)。

現代を生きる人間であれば、生まれてきた子供の首を絞めて殺した、というのは刑事罰を受けるべきと見なされるであろう。しかも、現代医学では、産声を上げることができない早産の新生児でも、うまく健康に育つ可能性すらあるのだという。

だが、実際に育てる事が極めて困難な女性に対し、その義務を強いることは、また不当なものと見ることもできる。極端な例で言えば、道を歩いていたところいきなりレイプされた女性が妊娠し、中絶を希望した場合に、それを拒むことは人道的では無いと考えられる。徐々にそこからスライドさせれば、DVを振るう彼氏との子供であればどうだろう。

可哀想なのは、誰なのか?

中絶賛成派から、フェミニスト的宗教色を脱色しよう。「どのみち育てられない環境で生まれるより、意識も無いうちに死産させたほうが、母親だけでなく子供にとっても良い」という説だ。

対して、生存の見込みの無い疾患としても、生まれ出た子供であれば、現代社会において、そのような子供を医療から見捨てることは望ましくないとされる。また、養子縁組などの制度が幅広く実施されているアメリカでは、生まれさえすれば、ひょっとすると本人は違う育て親の下、幸福な人生を歩む可能性もある。これを奪うことは、とても大きな罪だと考えることも、また可能である。

フェミニスト左派の壮大なる矛盾

諸々のリベラル派への抑圧に対して、アメリカの大企業が声を上げた、なんと中絶不可となった州から、可能な州への交通費を補助するのだという。政治的中立とは不誠実の代名詞となった現代、リベラル派が多数を占める企業において、明確なスタンスをとらざる追えなかったのであろう。

仮に、その日暮らしの労働者が妊娠したと判明し、産休などが見込まれたとする。その間の生活費が手に入らないのであれば、道徳観を無視すれば確かに、中絶するほか無いだろう。あるいは出産後、まともに子供を育てる所得が得られない場合も、また同様の「選択」が行われる。

しかしながら、これは「自発的選択チョイス」と言えるだろうか?そもそも、産休中の生活費に窮する、子供を育てられないような水準の給与で雇用していたことそのものが、企業と労働者の権力勾配の結果ともいえる。少なくとも、それが左派のロジックでは無かったか?

アメリカにおいて「男性や白人の収入が、女性や非白人の収入を上回るのは、構造的差別」というのは、今や聞き慣れた問題提起だ。

しかしながら、男と女、白人と黒人、LGBTとその他、それら諸々の不正義を糺してきた彼らが、ことこの問題については、右派と同じメリトクラシーの信奉者に成り果てる。

日本のエリート商社の、輝かしい成果

日本の名門企業、伊藤忠が自社の女性社員の出生率を公表した。なんと、合計特殊出生率が大変高く、1.97であったとのことだ。これに対し、意思の高い方々からは「子供を産みたくても産めない人もいる」「出産を暗に強いるものだ」という批判が相次いだ。

女性だけの数値を公表したのも、「(給料の良い)商社マン+専業主婦」の出生率が高い、などというポリコレ地雷を隅から隅まで踏み抜くような所業を回避しようとした形跡に見えるが、やはり十分でなかったようだ。

結局のところ、産ませる方向への誘導は、最終的な判断が個々人にあったとしても、望ましくないと考えるのがリベラル的自由な発想であるようだ。対して、産ませない方向への誘導への批判は、左派から挙げられることはない。だが、会社に別の州への旅費を出してもらわなければ中絶することも困難な貧困女性と、給料の良い伊藤忠の女性社員、どちらが「選択可能な人生」を生きているかは明白だ。

自由な企業判断の中で、チョイス無き人生について

日本でも、アメリカでも、民間企業は法に反しない限り、自由に支出を決めることができる。社員に対する福利厚生が、中絶サポートであるか、あるいは出産育児サポートであるかは、その企業の判断に過ぎない。だが、前者を選択する労働者が「チョイス」した結果かは、極めて怪しいものではなかろうか。少なくともエリート商社における「チョイス」の方が、はるかに人道的な誘導では無かろうか。なおのことそれらが、社会的な圧を伴うものであったのならば。


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