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全部でいくつ? 〜生活の中の算数〜

 昨日は、とある教育研究会に参加してきました。その会には、もう10年以上通っていて、実践報告が中心の研究会です。

 教員の実践報告とは、教師が自分の教育現場で行った実践、つまり授業や学校行事、特別活動、教育方法の改善などについての詳細をまとめた報告です。これには、実施した内容の説明、使った教材や手法、児童・生徒の反応、成果の評価、反省点や今後の課題などが含まれることが多いです。

 また、子どもの姿をよく観察・記述し、子どもの変容と教育的な働きかけとの関連を考察します。このような報告を通じて、報告者は自身の教育手法を振り返り、聞いている側は知識や経験を共有し、教育の質を向上させることを目指します。教育実践に活用できる教材を実際に作ったりすることもあります。

歩道の舗装ブロック、全部で何個ある?


 きのうは算数の「かけ算」がテーマでした。かけ算は小学校の2年生で学びますが、奥が深い内容です。いろいろ学ぶことが多く。算数のことをあれこれ考えながら帰途についていたら、あるものが目に入りました。

歩道の舗装ブロックです。
「この通りの切れ目から切れ目まで、ブロックは全部でいくつあるでしょう?」
そんな問いをブロックが話しかけてくるように感じました。
みなさん、3分しか時間がないとしたら、どうやって解きますか?

どこの道にもある舗装ブロック

 正確な数を求めず、概算でよいという条件でまずは考えてみました。

①まず自分のいつもの「一歩」歩きます。
 その一歩あたりの間にブロックがいくつあるか数えます。

②この通りの切れ目から切れ目まで、いったい何歩で歩けるか、数えながら歩きます。

実際にやってみました。式をたて、スマホの電卓で計算しました。
以下のような結果になりました。

 一歩あたり40個 ×158歩 = 6320個 

 ここで大切になるのは、「最初に総量がいくつか分からない問題場面」ということです。総量がいくつか分からないときに、その総量をどうやって効率よくもとめるか・・・これが生活場面で活用される算数の力だと思います。

 総量がわからないとき、まず手始めに「1あたり量」を計測します。
今回は「一歩あたり」という自分勝手な【身体尺】を使いました。
そのあと、何歩で歩けるかという「歩数」を計測しました。この
一歩あたり=「1あたり量」
歩数=「いくつ分」とい2つの変数を測定し、
その2つを掛け合わせることで「全体量(総量)」が求められます。

かけ算の意味とは以下に定式化されます。

1あたり量×いくつ分=全体量


より正確に求めるのであれば、ブロック一個あたりの面積を計測し、
さらに道全部の面積を計測し、
道全部の面積÷ブロック一個あたりの面積=ブロックの数
と、計算すれば求められます。
しかし、ブロック1個あたりの面積や道全部の面積をを出すのにも一辺の長さを測定し、掛け合わせるというかけ算を使います。わり算の前にかけ算を使うことになります。

これを3分以内で行うことはできません。生活でかけ算を使う場合は、より早く求められる概算が多いと思います。もっとも、仕事となると、より正確に求める方法を身につける必要があります。


 参加した研究会では、かけ算について、主に以下の内容について報告がされ、実り多い研究会でした。

①かけ算の式に単位をつけたほうがいいのか、つけないほうがいいのか
②児童が「かける数」と「かけられる数」を反対に式を立てていたら、その回答を×にするか。(これは1972年に、裁判にまでなっているそうです)
③かけ算の意味や九九をなかなか覚えられない子に適した教材にはどんなものがあるか。またそんな教具を実際に作ってみる。
④かけ算の本質や意味について子どもたちが理解できる具体的な指導方法
⑤かけ算の指導内容に関わる文部科学省(文部省)の「学習指導要領」の変遷

プラグマティック VS  ドグマティック

 教育に関わる議論をするときは、2つのタイプが存在するように思います。
それはプラグマティックなタイプとドグマティックなタイプです。
 
 教育に関わる議論をするときに、つねに子どもの見方や考え方・分かり方をもとに話をする人がいます。AとBという教育方法があったときに、子どもがより分かりやすいというAという方法をその人は選びます。そのような、目の前の子どもにカスタマイズするタイプの指導者が「プラグマティックなタイプ」です。

 一方、教育に関わる議論をするときに、「学習指導要領では〜」「教科書では〜」「○○方式という教育手法が良い」「ADHDの子にはこの指導」と、標準化された指導や一つの教義のようになっている教え方をよりどころに話をする人がいます。目の前の子どもがより分かりやすいというAという方法があったとしても、教科書や学習指導要領、ある種の「教義」に重きをおき、Bという方法をその人は選びます。そのようなタイプの指導者が「ドグマティックなタイプ」です。

 わたしの参加している研究会は、圧倒的にプラグマティックなタイプの指導者が多く、この研究会のおかげで、プラグマティックな考え方を身につけることができました。といっても、2つのタイプは同じ人に同時に存在するのがふつうです。自分の中のプラグマティックな部分とドグマティックな部分がときに矛盾を引き起こし、その拮抗する力学から、実践の方向性が決まっていきます。

「実践の方向性を決めるのは教師の『子ども理解』と『教材研究』であるべきだ」

今回の研究会でも、このような主張が報告者から述べられました。これは実践者の長年の経験と研究から引き出された説得力のある主張でした。

 学校や自治体の公的な研究会では、結構ドグマティックなタイプの人が多く、そのドグマの根拠はたいてい「学習指導要領」とか「教科書」や「○○研究会や⬜︎⬜︎会の指導方法」です。しかしそれらは宗教における教典とちがい、けっこうころころ変わります。教科書も教科書会社によって教え方や記述が違います。これは、プラグマティックな人が教科書を執筆しているからでしょう。

 プラグマティックに考えると、どんな教育現場にいるかによって、そこで出力される実践は変わります。入力変数である「子ども」や「地域」が違うので、出力である教育実践方法も変わって当然です。それが教科書の内容や記述のちがいに影響を与えていると考えられます。社会科の教科書は地域教材を扱うことが多いので、どんな事例をあつかっているかがその地方での採択率に影響を与えます。地元の事例を扱っている教科書があればその地域で採択されやすくなります。

 徹底的に現場の子どもたちと向き合い実践してきたプラグマティックな実践家や研究者が、その成果を教科書に盛り込みます。しかしそんなふうにして作られた教科書がドグマティック(教典のように)使われる、という逆説が教育現場ではよく起こります。

「教科書や教科書の指導書のとおり、授業をしましょう」
「学習指導要領にある順序で教えなければならない」

本当にそうでしょうか?

教科書や学習指導要領の執筆担当者は、そのようにドグマティックに使われることを望んでいないはずです。あくまでプラグマティックな人が試行錯誤と研究を重ね、経験科学として、帰納的に作られるのが教科書です。だからこそ、現場の先生には、自分こそが教科書を作るんだという気持ちで、子どもにベストカスタマイズされた教材を使用してほしいと思います。それが教師のやりがいにもつながっていくような気がしています。

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