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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む② 

 前回記事の続きです。
 この本は全部で29の章立てになっています。目次を列挙してみます。

 1 あのひとの死
 2 ひき裂かれる手記
 3 最初の訊問調書
 4 交友関係
 5 平野氏受難
 6「東北農村について」(一)
 7「東北農村について」(二)
 8 このひとの素性
 9 このひとの素性(つづき)
10 プロレタリア・レアリズム(一)
11 プロレタリア・レアリズム(二)
12 十二月八日
13 党
14 コミンテルン
15 北日本国語教育連盟
16「生活意欲」「生活知性」
17 青写真の波及
18 南の枝は北の枝は
19『生活学校』編集グループ
20『生活学校』の罪状
21 扶桑閣図必買会
22 教育科学研究会のこと
23 執筆活動と文集作成
24 送検の日
25 検事調書
26 予審判事
27 判決
28 空中楼閣
29 無知と過剰転向と
あとがき

1 あのひとの死

「とうとうあの砂田が死にましたね。」

 1969年、国分が懇意にしていた友人の近藤原理から、ある葉書が届きます。それが「砂田が死んだ」というものでした。国分にとって砂田の記憶は「肉体と精神のあざ、弱点といってよい部分」を呼び起こすものでした。

あざ、あるいは弱点というのは、「あのとき、もっとしっかりした知識をもち、あくまでがんばりつくせばよかったのに」との気持を、敗戦以来今日まで、ずっとつのらせていたからである。

『小学教師たちの有罪』1ページ 下段

 この砂田とは、かつて山形県警察部の特高係主任だった砂田周蔵警部補のことです。この砂田の死亡記事が新聞に出たことを、近藤の葉書で知らされたのでした。この砂田とのやりとりの記憶が、上の引用にある「あのとき」のことなのでしょうか。

 治安維持法や特高警察に関わり出世した砂田は、戦後になって公職を追放されていると国分は思っていました。しかし砂田は戦後も公安関係の仕事をしていたのです。最後の最後まで生き延びて、警察関係の大物として死亡記事まで出るような人物になっていた・・・それを国分はしみじみと思い返してこう感じます。

そらおそろしい思いが、背すじをはいのぼるのを、いままた感じていた。

『小学教師たちの有罪』11ページ 上段

 その砂田との取り調べのいきさつを記したのがこの著書です。また、国分はこうも述べて、この本を書き始めるのです。

 その取り調べの経過と結果は、たんに、山形を地域として罪に問われた、わたくし個人に関すること、また、いまは死んだわたくしの心の師であり友であった村山俊太郎氏、その他の知人に関することばかりではなく、全国各地で不当な弾圧をうけ、罪をきせられたいくたの「小学教師たち」の身の上に関係することなのである。わたしくはあの弾圧事件のために、自殺したり、早死にしたりしたひとや、その妻たち、子どもたち、孫たちのことも思って、これを書きつづけようとしている。しかも今となっては、あのひと、今は死んだ砂田警部補だけを、個人としてにくむ思いにはとらわれぬつもりで、これを書きのこすのである。

 この著作は、もとは雑誌への連載がもとになっています。
1〜6章は『望郷』(東海教育研究所)の1978年1月号〜6月号、7〜18章は『現代教育科学』(明治図書出版)の1979年4月号〜1980年3月号、19章〜29章は『解放教育』(明治図書出版)1982年4月号〜1983年3月号との記載があります。

 国分は1985年の2月に胃がんのため亡くなっています。73歳でした。本の出版が1984年の9月なので、これらの文章は国分の遺言とも言えるかもしれません。この本を読むことは、戦前や戦中の歴史を学ぶことにもつながりそうです。

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