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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む④

前回の記事の続きです。

3 最初の訊問調書


 国分は2回目の「手記」に、生い立ちと思想傾向の推移を書き終えました。それをもとにした砂田の取り調べは本格的なものになります。しかしその取り調べは、あらかじめ敷いてあるレールの上を、思惑通りにつっぱしらせるものであることを、はやくも感じさせるものでした。

 国分は、
・反国家的な思想などは持ち合わせていなかったこと
・「国体の変革」や「私有財産制度の否定」の実行にたずさわるほどの意志はけっして持っていなかったこと

を手記の文脈にはめこもうと工夫をしました。それは罪におとしいれられるのを警戒していたわけですが、国分は「内心に問うても、けっしてうそいつわりではなかったのだ」と心情を吐露しています。

◆北日本国語教育連盟の結成

 1934年の11月に、仙台市の紅谷紅茶店の階上で、佐々木昂・加藤周四郎(秋田)、国分一太郎(山形)、木下竜二(福島)らを迎えて、鈴木道太・佐々木正(宮城)そのほか宮城の会員とのあいだで相談し、東北各地にもりあがった綴方教育を、北日本国語教育連盟に統一結集しました。(日本作文の会編『生活綴方事典』、584ページ、明治図書)

 1935年の1月に正式に結成されたこの連盟は
「ぼくたちの運動は、あくまでも文化運動なのだ。子どものために教育文化を正していく運動なのだ」と声をかけあいました。国分ら連盟のメンバーは、政治の変革には期待していましたが、自分たちがそれにたずさわることのむずかしさを「知りつくしていた」と記しています。それは、当時、文化・文学運動の団体が、政治の優位性を強調したという点で当局から弾圧され、解散に追い込まれていたからです。

◆「問い」も「答え」も砂田の方向に訂正する調書づくり

 砂田は国分の手記にそって「問い」を聞き、国分から「答え」を引き出します。あらかじめ敷かれたレールに沿わない回答だった場合、砂田の望む方向へ訂正し、訂正をしゃにむに強制する・・・こういう形で調書づくりが始まりました。すでに、国分の畏友だった村山俊太郎がすでにそのようなやり方で大量の訊問調書をととられていました。

・貧しい床屋の8人兄弟の長男として生まれる
・大正のはじめに不審火のため、家が全焼
・いまの家を建てるのに父親は借金をした
・散髪屋の家の収入は乏しい
・貧乏という意識を持ちながら高等小学校を卒業した
・学校の成績が良かったことから、受け持ちの教師にすすめられ、県から学資金をもらって、師範学校に入学し、1930年に小学教師となった
・自身の境遇から、農業恐慌下の貧しい家の子どもたちに同情心をもつようになった

 このあたりの生い立ちについては、砂田はとくにつっこむようなことはしませんでした。砂田がつっこんだのは以下の部分です。

・隣村長瀞村での教師生活1年目のときに農民組合の運動が起こり、農民組合少年部の活動などがはじまっているのを知った。
・昭和6年4月、短期現役で山形歩兵第32連隊に入営したあとに、農村問題に特別に関心をもたされるようになった。

このような運動に積極的に関わったり、問題に対して大きな関心をもって組合に接触したりしていないかを砂田は念入りに確認します。

 国分は昭和6年の11月に、非合法だった山形県教員組合に加わり、翌7年3月に検挙されました。しかし、思想が幼稚だということで学校をクビにならなかったいきさつを国分は説明します。検挙されているにもかかわらず、東北各県の教師と連絡をとり、北日本国語教育連盟の結成に関わるようになったことについて砂田は疑念を抱きました。
 
 また国分が「広い勉強」のために”唯物論研究”という雑誌を購読していたことや、”唯物論全書”を読み続けていたことを砂田は挙げ、「共産主義の基礎理論である弁証法的唯物論や唯物史観を自分のものにするためだ」と結論づけます。それに対して国分は、学問の擁護の立場から反論します。

「マルクス主義や唯物論の立場に立ったからといって、それがすぐさま日本共産党の運動、あるいは共産主義の活動をしていたとは考えていなないし、そのつもりで読んでいたのではありません。」

 マルクス主義の考え方をもったとしても、共産党や共産主義の運動の実行はしていないし、そのつもりもなかった・・・砂田はこのようなロジックをうけつけません。砂田は論理の飛躍とともに、決めつけるように国分に問いただします。

「マルクス主義というのは、結局は共産主義ということだよ。共産主義実現のため、なんらかのことをしようと考える人間の実践的な思想なんだよ。君らは、ほかにもあるが、その唯物論全書のなかの現代科学だ、科学論だ、芸術論だ、文学論だ、農村問題だを読みながら、教育や生活綴方の理論をつくっていたんだよ。そしてそれは、とりもなおさず共産主義者として、共産党のために、なにごとかの行動をしようとの考えかただったのだよ。そうだな」

・・・「ちがいます」と国分はすぐさま返答します。国分が師範学校で受けた教育が「ドイツ観念論」ばかりに頼っていたことから、それを対立するといわれる唯物論の立場からも教育について考えていたことや、共産主義の政治運動には少しも関係をもっていないことを国分は砂田に述べたてます。
 これに対して砂田はあくまで、「マルクス主義や弁証法的唯物論=共産主義」とゆずりません。そして取り調べの流れのなかで以下のように調書をまとめようとします。

 「当時の教育について第一には、中央集権的官僚制教育、第二には、軍事的封建制、その封建的道徳教育、ファッショ的国家主義教育、それを克服しようと考えていた」
 村山も調書にそう答えていることや、長い取り調べのなかで疲れていた国分は、この文言にたいして「それは、そのとおりですが・・・」とあっさりと認めてしまいます。当時、雑誌の論文や話し合いのときによく出る言葉だったことから、一般的な考えとして国分は文言を肯定しました。ここで取り調べは終わり、国分に署名捺印、拇印をおさせました。

◆国分の反省

 回顧としての記録として本書を書いている国分は当時を振り返って反省的な文章を書き添えています。

「第一に、わたしくたちは、治安維持法という法律の真の姿を知らなかった。はじめは、どういうことを罰するように規定づけられ、のちには、その範囲をこえて、どう拡張適用されたのか。それをとくと知るべきであった。しかし、わたくしたちには、そのような知識が皆無だったといってよい。それゆえ治安維持法という法律のおそろしさは、感じとしてうけとっておりながら、いざというときに、それに対処する道を、具体的にはきりひらけなかった」

「学問・思想の自由という観念を、わたしくたちは身につけていなかった」

「ひろい自発的な運動としての北方性生活綴方運動には、特定された一定の思想的方向はなかったことをハッキリとさせなければならなかった」

 特高警察官から特定の方向をめざしていた運動と決めつけられ弾圧されようとも
「この点をくいとめる力と確信、態度と姿勢を堅持しなければならなかった。純真さと情熱を底にたたえつつ、ささやかに展開されたあの運動を、治安維持法違反の名の鉄蹄から解き放つ努力をすべきだった。それができなかったのは、一特高警察官砂田周蔵のやりくちに負けたというだけでなく、わたくしたちに、全体としての治安維持法体制というものへの認識、その勝手きままな拡張適用への知識、警戒心がなかったのであっただろう」

 もう一つの反省は、国分が砂田の「問い」についてあっさりと認めてしまったことです。そして「手記」を書けといいつけられれば、いいつけられるままにそれを書いてしまったことも反省点として国分は挙げています。これらは、当時の司法、警察官と称するものが、被疑の事実を、あれこれとでっちあげていくプロセスをそのまま認めてしまったことへの反省でもありました。

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