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『山びこ学校』を読む その8 江口俊一「父の思い出」全文
戦争とはどんなものなのか。私は戦争体験者ではないので具体的なイメージをもてません。でも、考えようとはします。私が戦争とは何かを考えた原体験は、小学6年生のときに、祖父に戦争体験について聞く夏休みの課題でした。
私の祖父は20歳のとき、従軍先の中国で終戦を迎え、戦後すぐには復員できず、昭和22年に日本に帰ってきたときは親戚の誰もが祖父は死んだものと思っていたことだったり(祖父も親戚が東京大空襲で全員死んだものだと思っていた)、祖父が毛沢東の軍隊と相対する歩哨で密かに短歌を作っていたことだったりと、祖父からきいた戦争の断片が思い出されます。ちなみにその短歌は暗記しています。
「済南(チーナン)の豆腐屋鼓(つづみ)を打ちて来し歩哨和らぐ朝明けの音」
戦地は銃弾が常に飛び交うものだと思っていた私は、中国の民間人の豆腐屋が日本軍を相手に商売をしていたことや、その豆腐屋の到来を告げる鼓の音が、緊張する歩哨任務の終わりを告げるものであったことを、この短歌に教えられました。
私は、こういった個別の戦争体験が受け継がれることがとても重要だと考えています。一つのファミリーヒストリーには、必ず戦争体験があり、体験の継承がされなくなってきたときに次の戦争が近くなる・・・そのような危機感があるからです。
私のもう一人の祖父は、日中戦争で受けた傷が原因で戦後思うように仕事ができないことがあり、祖母がそのぶん身を粉にして働いたことや、満足に仕事ができなかったために家計が厳しく、5人きょうだいのなかで私の父一人だけが実兄の支援を受けながら上京し、大学に進学することができたことなどを聞いています。
こういった個別の戦争体験の継承に匹敵するものが「山びこ学校」には収められていると、私は強く主張したいと思います。それが江口俊一の『父の思い出』という綴方です。この綴方は、未来へと受け継がれるべき内容です。前置きが長くなりなした。以下に全文を引用します。
父の思い出
江口 俊一(えぐち しゅんいち)
天皇陛下は戦争犯罪人であるとか、いやそうでないなどと新聞に出て、私たちの学校でも話になったとき、戦死した父のことが思い出されてきてならなかった。
父は上ノ山(かみのやま)の農学校にはいった。今の「上ノ山第一高等学校」である。学校を卒業してから、家で十二年ほど百姓をしていた。そのとき私は七歳だったと思う。昭和十八年、戦争がさかんになってきたら、先生が足りなくなり、農学校を出ているという理由で村の青年学校の指導員にさせられた。そのようにして一年ぐらい山元村青年学校の先生をしているところに、招集がきて、戦争にいってしまったのだ。
この間、書類などかたづけていたら、「山元村青年学校」などと名前のはいったほご紙がたくさんでてきた。私は、その中に私の父の名前や、父が書いたものなどないかと思っていちいちしわをのばして、父の名前が書かれたのがあると、どきどきして見るのだった。そのようにして半日もすごしたのだった。
「江口俊雄」という名前を見ながら「ああ、私の父も兵隊に行かなければならなかったのか」と思った。
昭和十九年、私は十歳だった。そのころは、兵隊に行くことなんかあたりまえなことで、「名誉の出征」などといってお祝いさえしたのだった。部落の人たちから六角の松の木まで送ってもらい、いよいよわかれるというとき、「家を何分よろしくたのむ。」とか「銃後の守りをしっかりたのみます。」などといったのが頭のどこかに残っているような気がする。
考えてみると、家に、としとった、ずんつぁ(おじいさん)、ばんちゃん(おばあさん)のほかに、働き手としては、お母さんだけを残してゆくわけだったから、心配だったのではないだろうか。
昭和二十年の夏に、日本は戦争に負けて、それからというのは、私も、お母さんも、今日くるか、今日くるかと待っていた。ところが、父からはなんにもたよりがなくているうちに一年たってしまい、二十一年の夏に、としよりずんつぁ(年とったほうのおじいさん)が死んでしまった。それからは留守してくれる人がいなくなったので、急に働き手がへったような感じだった。家で留守してくれる人がいなくなったから、家のことが心配でろくろく働いていられなくなったからだ。それで、なおさら父が帰ってくる日が待たれるのだった。お母さんもときどき「早くかえってきてくれないかなあ。」というようになってきた。
こんなふうにして家内中が、みんな父のかえりを待っているところへ舞いこんだものは、昭和二十二年の秋、「戦死をした」という一片の電報だけだった。私はもちろんお母さんも、弟も、としとったばんちゃんも、若いずんつぁ(若いほうのおじいさん)も、家内中みんなが「ちきしょう」と思った。しかし、誰に「ちきしょう」といえばよいものかわからなかった。誰のために戦死なんかしたのかわからなかった。もちろん、なぜ戦争をしたのかなどという疑問はおこらなかった。ただ悔むだけだった。
そして、「一月十三日、十時まで山形の専称寺(せんしょうじ)まで骨をとりにこい。」という通知が来たときは、「ああ、ほんとうに死んだんだな。」「もう、泣いても笑っても父はかえってこないんだなあ。」と思った。お母さんが、その通知を仏壇にあげて、ローソクをつけたりしたから、なおいっそうかなしくなってしまった。
骨とりは、山形は遠いのでみんなは山形に行けなかった。お母さんは家にのこることにして、六角の照義さんに行ってもらった。私と山形の富雄おじさんと、了(さとる)あんつぁ(兄さん)と、誠二と、須苅田までむかいに行った。そして須苅田から、私が骨を持ってきた。富雄おじさんは写真、了あんつぁは一番前に立って、照義さんから花輪を持ってもらって行列をつくって帰ってきた。骨箱はかるかった。「骨はこんなにかるいのだろうか。」などと思いながら歩いていると、学校がすぎて、とび岩もすぎようとしたころ、了あんつぁんから、「ほだえ(そんなに)、がんばって、おさえでえらんたてよい(いなくてもよい)。」といわれた。私は、「しっかり持っていなくちゃならない。」と思っていたし、それに雪があってあるきにくくて、ゆだんするところびそうになるので、「ころんで骨箱を雪の上にころがしたなどといわれないように。」などと思っていたものだから、人の目からも、私は緊張して箱を持っているように見えたのだろう。
六角の松の木のところまで部落の人たちがむかえにきてくれていた。四年前「お国のため、天皇陛下のため、しっかりたのみます。銃後の守りはひきうけました。留守宅は心配しないように。」といって父を戦争に送ってやった人たちだ。それが今では「戦死者の遺家族」などというと、めいわくそうにしている。
家で、ほかの人がかえってから家の人がみんないるところで骨箱をあけることになった。そしたら、骨なんか、かけらもはいっていなくて、いはい(位牌)がひとつはいっていたきりだった。
それから心配なのは葬式のことだった。
「葬式いつしたらええべ。」「もう少し暖かくなってからだなあ。」などと話しているうちに、若いずんつぁが病気になり死んでしまった。二十三年の春である。それで「ちょうどいいあんばいだった。」というので、二人の葬式を一緒にしてしまった。葬式の前の日と、次の日ぐらいは、外の人がたくさんいるからにぎやかでいいのであるが、みんなかえってしまうと、急にさびしくなった。それがいよいよ働く季節にはいったら急に足りなくなったのがはっきりしてきた。
そのころ「天皇陛下からきたんだ。」といって、役場で盃を持って来て仏壇にあげた。そのとき、弟が「とうちゃんば(を)ころして、さかずきなのよこしたて(ても)だめだ。」といって泣いた。
それをきいて、お母さんは、あわてたようにして「これこれ、そんなこといってはだめだ。」などといって、一生懸命なだめていたことが私の頭にこびりついている。
ほんとうのところ、お母さんも、私も、家の人はみんな、こんな、こんなさかずきもらうよりも、生きているお父さんをかえしてもらいたかったのだ。
じっさい、弟や妹は、父の顔さえ知らない。弟は三歳のとき、妹は六歳のとき、私は十歳のとき父にわかれたのだ。だから、父の思い出といっても、私さえよっく(十分に)かけない。私たち兄弟は、「お父さんがいてほんとによかった。」というよろこびをしらないのだ。
だから、お父さんがいなくともさしつかえないようなものだが、やっぱり、いた方がよいと思う。
しかし、そんなことをいつまでもぐだぐだいっていてもしかたのないことだ。それに私のような立場におかれている人が日本にはうんとたくさんいることを思うと、もっとべつなこと、それは、私たちが、私のお父さんのような目にあって私たちのような目にあって私たちの家族を不幸な目にあわせてならないのでないかということが考えられてくる。ほんとうは、お父さんは、戦争になんか行きたくなかったんだと思う。自分の生活や、家のことをほんきで考える人は、だれも戦争に行くのなんかいやなことはあたりまえだと思っている。(1950年2月10日)
文章の後半、「ほんとうのところ、お母さんも、私も、家の人はみんな、こんな、こんなさかずきもらうよりも、生きているお父さんをかえしてもらいたかったのだ。」のところがもっとも江口俊一さんの叫びが表現されていると、私には感じられました。なぜなら、「こんな、こんなさかずき」と、「こんな」を2回繰り返しているからです。その盃は天皇陛下からきたものです。そうとうな勇気をもってこの文章を書いていると思います。
文章の前半で俊一さんが父の戦死の報を受けて、「家内中みんなが『ちきしょう』と思った。しかし、誰に『ちきしょう』といえばよいものかわからなかった。誰のために戦死なんかしたのかわからなかった。」と書いているところと関連づけると、開戦の大詔(たいしょう)を下した天皇に戦争の責任があるのは明らかなのですが、それを直接書くのではなく、こういった個別の、俊一さんの事実をもって訴えるということが、読者にはなおいっそう戦争の責任について考えさせてくれます。
最後の段落では、「しかし、そんなことをいつまでもぐだぐだいっていてもしかたのないことだ。それに私のような立場におかれている人が日本にはうんとたくさんいることを思うと、もっとべつなこと、それは、私たちが、私のお父さんのような目にあって私たちのような目にあって私たちの家族を不幸な目にあわせてならないのでないかということが考えられてくる。ほんとうは、お父さんは、戦争になんか行きたくなかったんだと思う。自分の生活や、家のことをほんきで考える人は、だれも戦争に行くのなんかいやなことはあたりまえだと思っている。」と書いたうち、最初に出てくる【私たち】のなかに、令和に生きる私や私たちも含まれるように強く感じてきます。
この【私たち】の範囲を、どれだけ拡げられるか。日本人だけではなく、隣国の人、ロシア、ウクライナ、イスラエル、ガザ・・・こういった人たちも【私たち】の括弧に入れて考えていかなければならないと思うのです。
この綴方にもし足りないものがあるとすれば、戦争の加害性の問題です。「私のような立場におかれている人が日本にはうんとたくさんいることを思う」と俊一さんが書いていますが、これは社会科の学習や学級での話し合いを通して出て来た考えかもしれません。学習として家族の暮らしを考えたときに、家計を支える働き手が、しかも父親がいないのは大きな影響を与えるという認識に至ったと考えられます。一方で、「日本には」という認識で終わるのではなく、日本が加害を与えたアジア各国や、世界大戦で大きな被害を受けた各国にも俊一さんと同様な境遇の人が大勢いたにちがいありません。
せまい「私たち」という認識を、戦争のかなしみを引き受けているすべての人を含む「私たち」という認識にまで発展させるのが社会科の役目です。今、もし社会科の学習でこの綴方を読むときは、この綴方と並行して、日本が被害を与えた国の生徒の綴方も読むべきでしょう。ホロコーストの体験談も読むべきかもしれません。私はそういった綴方を探してみようと思いました。