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日常用語とはちがう哲学用語・・・「認識」


 以前書いた記事で、生活綴方的教育方法とは「新しい認識を子どもたちのうちに着実に育てようとする方法であり、態度である」と紹介しました。この「認識」という用語の理解を確かめようというのが、この記事の目的です。

 


認識の発達=感性的・悟性的・理性的認識


 日本作文の会編集の生活綴方事典(1958年発行)は、「認識の発達」の項目に、その用語をイコール(=)で結んで「感性的・悟性的・理性的認識」と明記しています。これらは哲学用語なので、原書を読んだり、語源を確かめたりしないと深くは理解できないと感じます。当時の教師は理解していたのでしょうか。理解していたとすれば、どのように学習を進めていたのか気になります。
 生活綴方事典の「認識の発達」の項目を担当したのは小川太郎です。東京帝国大学(いまの東京大学)を卒業し、神戸大学教授を務めた教育学者です。


上記「事典」には、以下のような記述があります。

「認識を感性的・悟性的・理性的認識の三種類ないし三段階に分けることは、歴史的にいえば、ヘーゲルから出て、ウシンスキーにもマルクス主義にも見られる考え方である。しかし、最近日本でこうしたことばがつかわれるようになったのは、毛沢東の「実践論」の翻訳が出たのがきっかけとなっている。そしてそこでは認識は感性的・理性的の二種類・二段階に分られていて、悟性的という概念は見られない。」
 
 ヘーゲルやマルクスの著作にくらべれば、毛沢東の「実践論」は読みやすそうです。当時は、資本主義と社会主義・共産主義という考え方の違いによって、国家が対立している時代です。それらの考え方のもとになった哲学や思想書を読むことが、教養の一つだったのでしょう。

おたまじゃくし(カエル)と認識の発展

 「事典」では、おたまじゃくしとカエルの関係を例に「認識の発展」について説明しています。「発展」と「発達」の用語が混じって説明されていますが、その明確な区別については事典には書かれていません。

「(1)乳児がそれを見たり、手をふれたりしているときには、その感覚・知覚には両者はまったく同じものとしては映っているわけではないが、両者を比較してその特徴によって区別するということもない。」

「(2)幼児になるとおたまじゃくしは水のなかだけにおり足がないが、蛙は陸にもいてとぶことができ足があるというような特徴で、両者をはっきり区別するようになる。そこには水との関係や陸との関係の認識もはいってくる。」

「(3)学校でおたまじゃくしを飼う学習をするなかで、子どもは前者の尾が短くなっていき、小さな足が生えてき、水の上へ顔を出すようになり、やがて陸に上がってとぶ蛙になることを知る。つまり、おたまじゃくしが蛙になること、区別された両者が実は同じものの変化の段階であることを知る。」

「このような(1)から(3)への発展が、感性から悟性へ、悟性から理性への認識の発展である。認識は理性的認識まで進まなければならないが、そのためには比較し区別し関係づける認識が必要であり、そのためには個々の現象をありのままに知覚することが必要である。」(『生活綴方事典』、88p.)

 生活綴方は、子どもが身の回りの自然や社会の事物を、ありのままにとらえ、正直に書くことを励ます過程や、そうした過程を経て書かれた作品です。そのような方法をとる理由は、認識の発達の入り口である「感性的認識」に立つためと言えそうです。そして、感性的認識から理性的認識への飛躍にとって、作文は大切な役割を果たします。

「作文のなかに出てきた事がらや問題を、教科のなかでの体系的で組織的な認識の教育に結びつけることであり、また逆に、教科のなかでえられる体系的で組織的な認識を作文にあらわれた日常的なときどきの事がらや問題と結びつけるという方法によって」(『生活綴方事典』、90p.)感性的な認識から理性的な認識との連続をつくり、その理性的な認識を豊かな内容のあるものにするのが生活綴方なのです。

 学問的・科学的に正しい知識に基づいた体系的な「教科の教育」と綴方が結びつくことで児童の認識は発達する、と私は「事典」のこの項目の内容をとらえました。

認識・感性・悟性・理性という翻訳語

 日本語でふつう「認識」というと、「個人的見解」とか「その時点の理解」という意味でとらえることが多いです。この「認識」という用語が、理解を難しくしているように思います。
 『語源から哲学がわかる事典』(山口裕之著、日本実業出版社、2019年)を参照すると、難しく感じていた哲学用語の一面が見えてきました。


 哲学では「認識」を「学問的に正しい知識」と捉えます。ギリシア語で「正しい知識」のことを【エピステーメー】と言います。エピステーメーは、science(サイエンス)の語源になりました。英語ではこの「正しい知識」をknowledgeと呼び、日本では「認識」と訳されました。
 つまり「認識」とはknowledgeであり、scienceなのです。こう捉えると、「サイエンスに基づいた知識」と言い換えることができます。

 英語で「感性は」はsensibilityと訳し、「悟性」はunderstanding「理性」はreasonです。

 英語訳をみると、日本の哲学用語にむずかしい印象をもちます。悟性なんて、日常生活で使いません。西洋の語彙を日本語に訳すさいは、それはそれで並々ならぬ苦労があったのでしょう。
 

まとめ

 1950年代半ばに教育界で使われるようになった「認識の発展」や「認識の発達」といった用語は、哲学用語からきていることがわかりました。認識は、個人的な見解や理解という意味ではなく、「学問的・科学的に正しい知識」という意味でとらえるべきだということもわかりました。そして、当時の「認識の発展」という用語の使用が、マルクス主義や毛沢東の影響がありそうだということもわかってきました。生活綴方事典には、以下のような記述もあります。
「社会の法則の認識を切実に求めさせるところまでつれていくことは、作文教育にできることであり、またしなければならないだろう。山びこ学校の子どもたちのすばらしい成長は、そうした理性的認識の入り口にまでほんとうに達しているという点にもあったということができる」

 「認識の発展と『山びこ学校』」という切り口で、また記事にする必要が出てきてしまいました。「山びこ学校」が出版されたのは1951年です。この時代の教師たちが考えていたことや、教育学者の評価を知りたくなってきました。学ぶべきことがたくさんありそうです。


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