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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む11

前回の記事の続きです。やっと本書を半分読み終わったというところです。

14 コミンテルン

 砂田は、前回の取り調べと同様に、国分が直接返答したことを書くのではなく、砂田の知識を披瀝するように調書を書いていきます。
 日本共産党の二七年テーゼについて聞かれ、すらすら答えられるほど覚えていない国分がもじもじしていると、砂田は

「帝国主義戦争反対、中国革命介入反対、ソ連邦擁護、植民地独立、議会の解散、君主制廃止、十八歳以上の男女普通選挙権、集会の自由、結社権、団結、その他言論出版の自由などであります。こうだな。」

 と言いながら罫紙に書き込みます。国分はこのように書かれていく調書を回想しています。

「知らないものを、あたかもよく知っていたように書かれるのを見ながら、『しかたがない。しかし、おれたちは、これとは関係ないのだから』と心のうちにおもい、砂田のするままにまかせていたことが、じつはそのときのわたくしの弱さと思いちがいなのであった。それがすぐさまハッキリするのに・・・・・・。」

 砂田は続いて、共産党が昭和十年ごろになくなってしまったにも関わらず、1935年7月〜8月にモスクワで開かれたコミンテルン第七回大会に日本から「岡野」という人物が参加していたことを知っていたかどうか、国分にたずねます。ちなみに、この岡野は共産党幹部の野坂参三が偽名として使っていた名前です。これについて当時の国分は、まったく知る由もありません。しかし砂田は、

「壊滅したように伝えられる日本共産党が、地下のいずこかになお存在していること、そしてそれが国際共産党と連絡していることを確信したのであります。」

 と調書に書きつけます。国分はその落胆をこう表現しています。

「ここでも、ついにわたくしは、あり地獄の穴におちた小虫のように、特高の手にずるずるとひきずりこまれてしまったのだった。」(131ページ)

 1935年にひらかれた第七回コミンテルン大会で採択された「反ファシズム統一戦線」は、労働者階級の団結を基礎として、農民、勤労市民、インテリゲンチャ、そのほかの戦争の脅威に反対するすべての階級、階層をひろく結集することをめざしたものでした。当時、ドイツではヒトラー政権が誕生しており、侵略戦争の脅威が高まっていました。

 この「統一戦線」は、治安維持法が禁止する「日本共産党の活動」や「共産党を支援する目的」と解釈することには無理があり、むしろ市民的な自由や民主主義、人権をまもる試みのように今からすると思えます。そうなると、「統一戦線」を治安維持法に適用したとすれば、それは「同法が民主主義・自由主義へ適用されたことを意味することにほかならなかった」と、国分は奥平康弘の『治安維持法小史』の一節を引用して回顧しています。

 しかし当時の国分には共産主義はもちろん、民主主義すらも強く意識されたものではなかったと語ります。

「わたしくしたちーー普通の小学教師たちといってもよいーーに、からだと魂のしんそこから、自覚的に『民主主義』というものを求める意識はなかったのではないか。(中略) つまり「国家権力」に対する「人民の力」への確信がなかったのであろう。」(133ページ)

 この章では、国分らが意識しているかいないかにかかわらず、今でいうところの民主主義的な活動でさえも「治安維持法違反、国際共産党=その支部日本共産党の目的遂行に資する行為」として、でっちあげられていく・・・そんな特高警察・砂田のやり口がはっきりと示されました。

 治安維持法の解説などを他書で参照すると、治安維持法で検挙された人のほとんどは、「結社の目的を遂行する行為」の適用であり、このあいまいな犯罪類型をつかい警察は弾圧対象をひろげたと書いてあります。政府の統計では、治安維持法による送検者は7万5681人、起訴は5162人とあります。送検に至らない逮捕者を含めれば数十万人にのぼる人びとが同法の弾圧で苦しめられたようです。

 砂田は1943年には内務省警保局思想課左翼係主任に出世し、東京に出ています。山形での大量検挙が実績となったのでしょうか。

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