国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む③
前回の記事の続きです。
2 ひき咲かれる手記
1941年10月13日の昼過ぎ、東京から山形署まで移送されてきた国分は、山形県の特高係主任・砂田周蔵警部補から以下のように告げられます。
「君を北方性生活主義綴方運動と、雑誌『生活学校』編集グループを中心とする生活主義教育運動の件で、治安維持法違反としてしらべる。昭和9年から、君が学校をやめさせられる昭和13年3月までのことだから、新治安維持法ではなく、旧治安維持法でしらべる」
国分はこのとき盟友の村山俊太郎が検挙されていたので、覚悟はしていたようです。しかし、どういうことで治安維持法違反の疑いをかけられたのでしょうか。国分が砂田に問うと、砂田は「それは、これからの取り調べでハッキリする」と答えます。
治安維持法は1925年に制定された治安立法です。治安立法とは、ある支配階級がその支配秩序を維持する目的で、国民の民主的権利を制限するために制定する法律です。治安維持法は「国体の変革」や「私有財産制度の否認」を目的とする結社やその加入、宣伝、財政援助等を取り締まることを目的として、終戦の年まで運用されました。
成立当初は共産主義の運動や思想を主な取り締まりとしていましたが、1928年に最高刑を10年から死刑に引き上げ、さらに「結社の目的を遂行する行為」のいっさいを禁止するように変えられました。治安維持法で検挙された人のほとんどは、この目的遂行罪の適用だったといわれています。どのような人がどのくらい検挙されたのか、運用の全体像はいまもわかっていないそうです。
(NHK「ETV特集」取材班著、荻野富士夫監修『証言 治安維持法「検挙者10万人の記録」が明かす真実』、2019年、NHK出版)
砂田に「手記」を書かされる国分
国分は山形署の一室でザラ紙を渡され、昭和8、9年ごろから13年ごろまでの日本の教育を、どう考えていたのかを書くよう砂田から言い渡されます。
国分は、そのころ担任した子どもたちによく言いつけていた「一に身体二に仕事、三に勉強四に遊び」といった内容や、本の勉強以上に生活の勉強が大事だと指導していたこと、そのための仕事として、生活表現の綴方、現実の事物に即して書く綴方を大事にしたことなどを「手記」に記しました。
受け持ちの子どもたちに常々かしこくならなければならないと言い、貧しい東北農村の子どもを「文化の野蛮性」からぬけださなければならないと思っていた国分は、雑誌『生活学校』が紹介するような読み物をまずしい財布をはたいて書い、子どもたちに読ませていました。
そのような5年間にわたる回想を少し理論づけした「手記」を2日間かけて完成させた国分は、砂田警部補に届けます。その手記を砂田はこう言ってビリビリに裂き、屑かごに放り込みます。
「このウソツキ野郎!」「こんなのはみなデタラメだ」
こういってから砂田は、前年に捕まっていた村山俊太郎の尋問調書を引き出し、示します。国分が戦地の中国に行く前に村山にあてた手紙の内容も、砂田はとうに知っていました。
砂田は国分が中国での広州での経験をもとにして書いた本『戦地の子ども』を、厭戦思想をあおるとして発禁処分とするよう取り運んでいることをちらつかせます。砂田は再度、こう言って「手記」を書くよう国分に命じます。
「いいかね。だから、こんなウソの手記でないものを、もう一度書くんだね。・・・・・・いや、それよりも、このつぎは、生い立ちおよび思想傾向の推移として、君がどうして共産主義者になったのかを、年代別に正直に書いてもらうからね。その方を先にした方がよい。教育のことについては、そのあとにたずねることとするから」
国分は、生い立ちなどどのように書いたらよいのか迷います。そして先につかまった村山俊太郎の調書にはどのようなことが書かれていたのかを案じていました。