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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む⑥

国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む①
国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む②
国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む③
国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む④
国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む⑤

 以上のように読書ノートをつけてきましたが、本書第六章、第七章「『東北農村について』(一)(二)」は、とりわけ重要に感じます。それは「なぜ東北地方の教師たちが多く検挙されたのか」という問いに一つの回答を与えてくれそうだからです。

6 「東北農村について」(一)

 国分は、砂田から「東北農村について」という手記を書かされます。

東北地方の自然的・地理的条件


国分は、東北地方の自然条件の厳しさについて書いています。

・気候は寒冷、多雪の土地。暖かい土地でやるような二毛作、三毛作はできない。

・山地が多く、耕地面積が少ない。そのうえ「山背」と呼ばれる、寒流の上を通って吹いてくる風が冷害をもたらす。

・多雪のため、農閑期にある道路工事・建設などの賃金労働も稼働ができる日数が減り、賃金が低くなる。

・雪害があり、電線の維持費が電気代に上乗せされ、電気料金が高い。家に電灯一つしかない家もあり、快適に勉強できない。「料金滞納のため、電灯を切られた」「うす暗いところで、ワラ仕事などをさせられるので視力が低下した」と綴方に書いたり、ぐちをこぼしたりする子がいる。

・津波の襲来で、工場や機械といった資本蓄積が思うようにいかない。

・交通の不便さから流通経費が高くなり、ほかの地域から送られてくる商品の価格は実質的に高く、逆にこの地域で生産された商品の他地域への販売価格は実質的に低くなってしまう。

このように東北地方の自然条件や天災によって、農業の問題、工業の問題、流通の問題、消費生活、ひいては子どもの生活の問題があることが示されています。

東北地方の歴史的・政治的・経済的条件

続いて、国分は、東北地方の歴史的・政治的・経済的条件について書いています。

・武家政治の時代は、各地の藩政に対する幕府の封建的抑制が強く、藩主の藩民に対する施策にも、民力を伸長させる点で見るべきものがすくなかった。

・明治新政府になってからは、奥羽諸侯が幕府軍に味方したということで、極端な差別待遇を受けた。

・新政府の重要施策や事業は、東北を飛び越えて北海道にもちこまれた。

・地租改正による地租の全国的課税標準は、生産性の低い土地である東北地方の人々にいちじるしい不利を与え、地租を納める地主は高い小作料を耕作農民から取ることになった。

・5割を上回る山林が新政府の官有林に編入され、山村民は、薪や木炭、山菜やキノコなどの日々の糧のもとを奪われた。地元の自治体は山林への課税が不可能になった。

・東北地方が全国他地方に比して、自分の土地をもたない小作農が多い。しかも他地方にくらべて、大土地所有者から田畑をすこしずつ借りて耕作している割合が高い。そうして地主と小作の間に、隷属状態のような関係があった。


 このような特徴について国分は、河北新報社が昭和11年に発行した『河北年鑑』のことばを引用し「米をつくり米を食いえない農業をする」と言わしめる状況であったと説明しています。このような状態なので、東北農民は、貧乏な生活にあえぎ、不作どころか豊作のときでさえも、自分の娘を身売りせざるをえませんでした。その時代の農業従事者は全体の約6割でした。東北6県の人口が約700万人なので、400万人以上が厳しい条件下で農業をしていたことになります。

 このような赤字経営の農家は、どん底の生活になります。自分たちが生きるために、子どもを無賃労働者にかりたてて、学習の権利を奪い、「文化的野蛮の状態におとしいれた」と国分は評します。東北の教師たちは、これらのことがらを受け持ちの児童の日々の姿に見いだし、たえず心を痛めていたのです。

そんな土地に1933年(昭和8年)に三陸大地震・大津波、1934年(昭和9年)には、凶作・飢饉が起こります。凶作に関していっそう考えることになった・・・そのような内容を国分は「手記」にしたためます。

砂田の殴打

 手記を書いている国分のもとに砂田がやってきて、しばらく手記を読み続けたかと思うと、それを机の上に投げ出し、いきない国分のほおを左右にはげしくたたきつけます。

 そして国分の考え方は「労農派」であって、国分たちがそんな考えではなかったと言い切る証拠があると、どなり声をあげます。その証拠とは国分が、山田盛太郎(もりたろう)の『日本資本主義社会の分析』を読んでいたことでした。

 この『分析』には「近畿型」の農業に対する「東北型」の農業についての記述があり、東北農村についての勉強をしたいと考えていた国分には格好の書でした。その本を村山俊太郎に貸していたことが、砂田に殴打されるきっかけとなったのでした。

 砂田が部屋を出て行った後、国分の世話係である斎藤巡査部長から、砂田が実は農民出身で18〜9歳のころに農民組合運動にも参加したことがあると聞かされます。

7 「東北農村について」(二)

 いよいよ「東北農村について」の訊問調書をつくる日がやってきました。
東北農村についてどう考えていたかについて問われた国分は、すぐに答えられません。すると砂田は、手元に置いた2冊の本・・・山田盛太郎の『日本資本主義社会の分析』と平野義太郎の『日本資本主義社会の機構』をコツコツと叩きながら、こう切り出します。
「いいかね。君たちが読んだここにあるこの本に書いてあることを言えばいいんだよ。ちゃんと、そう考えていたはずなんだから。」

 と言い、国分が口頭で答えていないにもかかわらず、書物に国分が赤線を引いていた部分を調書の「答え」として書いていきます。国分は砂田のあまりの強引さにとまどい、だまってしまいます。砂田が連ねていく文言に圧倒されるなかで、「そう考えていたような気もするが、それほどまでにはと疑う思いにもなるようなことがら」が、国分の目の前で公文書に書かれていきます。

 砂田は「労農派」と「講座派」といった当時の論争を示し、国分を無理やり講座派であったと強引に「色付け」ようとします。国分はこれらの論争を大学で学んだわけではなく、学問として追究していくようなものでもありませんでした。
 岩波書店から合法的に刊行された本や、そのほかの雑誌に掲載された論文を、目の前の子どもの現実をどう考えたらよいのかと模索するなかで読んだ、というものでした。そのなかで、労農派か講座派かというどちらかの立場に立つというわけではなかったと国分は述懐しています。

 こうして書き上げた「砂田」の訊問調書に国分は署名と拇印をおします。その瞬間国分は「なにか深い穴の底にひきずりこまれたような」感覚を覚えます。そのときの国分には、この署名捺印の重大さが分かっていませんでした。

 あとになって、国分はこの著作を書くにあたり当時の論争を調べました。そして講座派の理論は共産党の戦略に学問的根拠を与えたと評価されていることを知ることになります。

 砂田だけでなく当時の特高警察は、くわしく正確なことを知らない小学校教員などに対して、自覚的意識のない内容をでっち上げ、勝手に調書を作り上げていきました。

 砂田はこのようにして調書を取り終え、次回の取り調べについて予告します。
「それでは、このつぎは、君たちが、生活綴方のうえでめざしていたプロレタリア・レアリズムのことについて、こまかく聞かせてもらうべなっす」

 国分は取り調べでの砂田の様子から、「なにか情熱的」とさえいってよいほどの感じ」をうけとります。それは「異常なふんい気」でもあったと回顧しています。
国分の興味は、砂田の素性へと向かいます。

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