国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む13
前回の記事の続きです。
この本と並行して、小説家・高井有ーの『真実の学校』(1980年)を読んでいます。『真実の学校』は、北方性教育運動とその弾圧を背景とした小説で、成田忠久や佐々木昂(太一郎)といった実在の人物が本名で登場するので、この時代の状況を具体的に想像するのに役立っています。
また1930年代以降の哲学や思想界の状況を知るために「フランクフルト学派」についての本も読んでいます。日本でマルクス主義者が弾圧されているころ、欧州・ドイツでもマルクス主義も含めて研究していた、後に「フランクフルト学派」と呼ばれる研究者たちがナチスによって弾圧され、亡命を余儀なくされています。
17 青写真の波及(152p〜160p)
この章で国分は、1940年の2月に特高警察官・砂田周蔵が村山俊太郎を検挙した際につくりあげた訊問調書の骨子が、その後に検挙された多くの小学校教師たちの調書に転用されていくさまを描きだしています。
それは国分自身の取り調べにも使われたり、北海道綴方連盟事件とよばれる五十数名の大量検挙の際にも使われました。東北・北海道だけでなく、茨城、鳥取、長崎など、特高によって検挙されたり目をつけられたりした教員の名前や、その調書の一部を紹介しています。
この章に紹介されている検挙された教員のなかには、弾圧によって直接・関節に亡くなった教員も含まれています。また、戦後「生活綴方事典」の編集に協力した教員も多数いるので、彼等の残した手記や原稿をもとに調書が再現されています。
各調書にはどれも「受け持ちの子どもたちに、プロレタリアリアリズムの方法による綴方を書かせることによって階級意識の持ち主にし、コミンテルン(国際共産党)や日本共産党の目的遂行に資する行いをしたもの」といった趣旨のことが書かれています。これらの調書の骨子をつくったのが砂田周蔵だったというわけです。
砂田はこの「手柄」によって、警部補から警部、警視、警視正へと昇格し、やがて思想取り締まり総本山である内務省警保局思想課の左翼主任係へと出世するのです。
18 南の枝は北の枝は(161p〜169p)
この章には、1943年(昭和18年)9月に、当時の文部省教学局がつくった「思想研究特輯・生活主義教育運動の概観」という極秘文書が紹介されています。以下に引用します。
このような文部省による全国規模にわたる思想・対策指導に影響を与えたのは、砂田が取り調べの過程でつくりあげ、でっち上げた「調書」であり、砂田はこのような文部省の文書をどのように読んだのであろうかと、国分は嘆息をもらすような筆致で書いています。
一方で国分は、砂田のような特高警察官に理不尽に被疑者や被告とされたものや、裁きを受けるもののもっているべき権利意識について、「おどろくべき乏しさがあった」と回想しています。この記述は、この本の第一章、冒頭にある「肉体と精神のあざ、弱点といってよい部分」という記述に通じるものです。
これ以後の章では、雑誌『生活学校』や、教育科学研究会の活動についての取り調べのようすが書きとめられていきます。