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たくまない表現・・・デジタルとアナログのはざまで①

 わたしは、2020年以降、校内のICT担当として、児童の一人一台端末(GIGA端末)の推進にかなりの時間を割いてきました。子どもたちは、端末で書いたり(打ったり)、表現物を作ったりするのがあたりまえになってきました。ICTを活用して子どもたちがさまざまな表現を楽しんでくれたらよいと思っています。以下の記事を以前書いたのでの、こちらもぜひ読んでみてください。


「巧みになり過ぎる」子どもたちの表現


 さて、わたしのクラスでもキーボードでの文字入力やCanvaなどのデザインアプリを児童がかなりの割合で使えるようになってきているのですが、キーボード入力やアプリのAI機能などによって、子どもたちの表現が巧みになり過ぎる傾向があります。それは内容が巧みという意味ではなく、見かけが巧みということです。

 それはどういうことかというと、手書きだと、かなりの児童が文章を書く際に漢字を間違えるのですが、キーボード入力ではひらがなを漢字に変換する機能があるので、適切な漢字を選ぶことができれば、間違えがなくなっていきます。なかには小学校では習わない漢字をすすんで使って単語や文章を書く子も出てきます。例えば、手書きなら「花だん」と書くところを、「花壇」と書いたり、「あきらめない」を「諦めない」と書いてきます。

 文書作成ソフトにはガイド機能もついていたりするので、「てにをは」といった語句と他の語句との関係を示す言葉の間違いも減るかもしれません。そういったテクノロジーを使って書かれた子ども文章が、巧みになり過ぎると感じるわけです。

 またCanvaなどのデザインアプリを使うと、それまで画用紙などに書いていた係や当番のポスター、学習成果をまとめた発表資料などが、まるで大人が作ったのかと思えるくらいの完成度で作られます。これは「テンプレート」というあらかじめ形式が決められている一種の枠を使っているのと、文字を入力すると勝手にデザインを提案してくれるAI機能を活用しているからです。これも、最新のテクノロジーを使って書かれた子ども表現が、巧みになり過ぎる一因です。

 子どもたちは、自分の書いた文章や表現物が、メディアや街でよく見かけるような完成度に仕上げられることを喜びますし、デジタルデバイスやアプリを使いこなせるようになることが一つの自信につながっているようです。

「巧まない(たくまない)」表現 

 デジタルが子どもたちの表現を見かけのうえで巧みにしていくとすれば、アナログの魅力は「巧まない」ことにあると感じます。「巧まない」とは、最近あまり使わない表現ですが、辞書にもあって「言葉や行動に自然とあらわれる。」という意味です。

 この、たくまない表現のほうが魅力的に感じるのは私だけでしょうか? キーボード入力されたり、デザインアプリで作成された表現物より、手書きで書かれた表現物のほうが、むしろ伝わる情報量が多いし、個性的であるとさえ思えてくるのです。

 キーボード入力の場合、文字は「明朝体」や「ゴシック体」などに標準化されますし、デザインアプリだと「Canva風」だったり「パワポ風」に標準化されていきます。はじめは目をひいていたデザインアプリで作成された表現物ですが、どの児童もそれをあたりまえのように使うようになると、逆に目をひかなくなってしまいました。

たくまない表現から子どもを知る教師の伝統的スキル

 1952年に発行された国分一太郎著「新しい綴方教室」という本には、【綴方は、たくまない表現】という印象的なことばが使われていました。当時は、パソコンなどありません。鉛筆に日記帳、鉛筆に原稿用紙、しかも品質のよくない紙と鉛筆です。それらで書かれた小学生の「アナログ表現物」を、国分一太郎がどう読み取っていたのか、以下に引用します。

 つぎには、家でかいてきた、かれらの綴方用せんなり、原稿用紙なりをみようではないか。それは、農村などの場合、昔も今も、同じことであるだろう。
 三平は、きっと、板の間にはらばって、鉛筆をなめなめかいたのであろう。ところどころに、ポコリポコリと、鉛筆の先が、床板のあなにはまりこんだあとがある。清子は、きっと、机の面がわりに、例によって、お盆の裏を下じきにしてかいたのにちがいない。なかなかきれいにかいている。おや、これは、またしても、土間のワラ打石の上でかいたのにちがいない武雄のものだ。すぶとい鉛筆のあとが、まるで、ひけどきの蚕のように、四角のワクの中を、のたうちまわっている、そしてらんぼうな字。いつも、ナベのフタをさかさかまにして、その上でかくという元吉の紙には、そのナベのフタのまさめのあとがのこっているではないか。青ぱなをおとしたらしい正雄の紙。ジャガイモのにつけでもかじりながらかいたらしいマサエの綴方、じいんと醤油のあとが、まるく紙面ににじんでいる。ああ、いつも火ばしの先で穴をあけて、ワラぎれでとじてよこす繁治の長編もの。それとは反対に、母親に、モメン糸で、右上のすみを、きれいにとじてもらった久子の用せん。おお、またあったぞ、これは、春雄のにきまっている。めし粒ではりつけたところに、つぶれない黒い麦粒がおまけにくっついている。そして、紙面が、手あかで、うすぎたなくよごれた二、三枚。ボロぞうきんのきれはしをひきちぎって、とじたらしい雪子の用せん。ああ、また弟か妹に、途中でひきさかれたらしい金助の三行綴方。だれかに、はな紙のかわりに、もみくちゃにされて、ブリブリおこりながら、しわをのばしてきたらしい安治の紙。なんべんも、ケシゴムで削りつづけたので、ところどころに、すかしのできた、つつましがりやの宗吉の原稿用紙……。
 机もなく、茶ぶだいさえなく、電燈はただひとつ。荒むしろの上、古たたみの上、板の間の上にはらばいながら、あるときは、土間のワラウチ石の上でさえも、かきつづけてくるかれらの作品。忙しいうちの人々と、やかましくさわぎまわる弟妹たちのうるささの中で、よたよたの字、力をこめた字、きたない字、むぞうさな字、ぞんざいな字、あるいは、きちょうめんな字で、かき綴った綴方というもの。けれども、それも、なれれば、平気で、しかも、たのしい思いでかきつづけてくれる魂のうごきのあらわれ。じっとおちついて、思索に思索をこらして、構想に構想をねって、一語一語にも細心に気をくばって、表現さんまいの境地で、かき綴るのなどではないかれらの表現。まずしい学習環境と、ひどい条件の中で、とにもかくにも、まとめてくる綴方というもの。住宅難にくるしむ都会などでも、そこにはまた、そこらしいおもむきが加わるであろう。また、めぐまれた環境にくらす子どもならば、それは、それなりに、かいたものの上に、なにかをあらわすであろう。これが綴方というもの……。
 それだからこそ、綴方は、たくまない表現であり、子どもらしい、すなおな文章となるのであろう。その真剣さが、ダメならダメなりに、すぐれていればすぐれているなりに、よみとられるおもしろいもの。たとえ、その内容はよまない先でも、紙にあらわれた匂いと、字づらに現れた表情と、ただそれだけでも、かれらをとりまく家庭のありさま、勉強に対する家庭の関心、それの生活程度も、文化的水準も、また本人の学習生活への意欲も、学習の結果も、あるときは学校での勉強の学校外における効果のあらわれをも、おぼろげには、つかむことのできる性質のもの、それが綴方……。

国分一太郎『新しい綴方教室』5〜7ページ、昭和27年、新評論

 「紙にあらわれた匂いと、字づらに現れた表情」から、これだけの情報を読み取る国分のスキルには驚かされます。国分は同書で、綴方は、「かれらの表現する生活をみる」とも書いています。

 アナログ表現物を長年読んできた教師は、その内容だけでなく字面から子どもたちの生活を読み取るスキルを身につけてきたし、字面から生活を読み取ろうとする心がけが教師のあるべき姿だったのでしょう。デジタルの表現物からは、「紙にあらわれた匂いと、字づらに現れた表情」を読み取ることはできません。とすれば、国分のようなスキルも令和の教師から失われていくでしょう。

 わたしは、子どもたちの「生活をみる」ために、あえてアナログの日記・作文帳を使っています。それでも、パソコンで書きたいという子もいるので、パソコンか手書きかを選択できるようにしています。

 なかにはキーボード入力が熟達していても、手書きを選ぶ子がいます。「そのほうが気持ちがこもるから」と言っていました。その子は、きちょうめんにていねいな字でマス目をうめてきます。

 同じような手書きを選んた別の子は、「思いついたときに、すぐに書けるから」といって、いつも流れるような勢いのある字で日記を書いています。ある日の日記は、漢字もあまり使わず、書きなおしは少なく、ぐいぐい書いていることがわかり、そのときの感動が筆を先へ先へとすすませたことが伝わってきました。その内容は「日本被団協のノーベル賞受賞から考えたこと」でした。



 デジタルとアナログのはざまで考えたことを、これからも記事にしていきたいと思います。


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