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人魚歳時記 葉月後半(8月16日~31日)

16日
夜中に大雨が降りだしたので、祖霊たちは無事に帰る事ができるのか、なんて思ったりして。どっこい朝、目が覚めれば肌寒く、夜明けも遅くて薄暗い。台風の裾で降っていた雨は、祖霊どころか夏を持ち去って行ったのか。

17日
夕方、明るいうちにお風呂に入っていると、窓の外でカナカナカナとヒグラシが鳴きだした。湯を繁吹かせる手を止め、目を閉じると、ぬるい湯の中にカナカナカナが染みこんできて、私の体が少し浮いた。

夏の夕暮れ

18日
満開の百日紅の向こうから、巨獣のごとき白銀色した夏の雲が、町に被さろうとしている。あぁ、残暑。

19日
種を蒔いたおぼえもないのに、朝顔が咲きだしている。

20日
下着どころか、太ももの裏まで汗でしんなり湿っている。かなわないなぁ……と、残暑が苦しく、たまらず目を閉じると、トイレの裏の笹薮から、秋の虫の声が聞こえてきた。

21日
斎場帰りに見る田は、いつになく緑濃し。

22日
引きこもっていたのに、腕や首は日焼けしている。お腹やお尻は蝋のようで死人みたい。陽を浴びて肌目も荒れた腕を体の前に持ってくると、それぞれが別人の体みたいで不思議だ。脱衣所の鏡の前で、入浴も忘れ、珍しい物でも見るように、自分を飽きずに眺めている。

旺盛な緑

23日
ボートから湖をのぞき込むようにして、グラスの中を見た。氷の入り江で炭酸が弾けている。顔を近づけると、飛沫が飛んできて、キッスされた夏の午。

24日
早朝、とある古いお宅の前を通ると、老婆が庭の菜園で、反らした指の先でキュウリの蔓をネットに巻きつけている。息をつめて、集中している。なので無言のまま通り過ぎると、襖を開け放した家の中から、ビブラートのかかった誰かの鼻をかむ音が盛大に聞こえてきた。

25日
道を歩くと、モカシンシューズの紐がほどける。鼻をかんだティッシュがバッグから飛び出す。そのバッグの斜め掛けの肩紐に擦れてブラウスのボタンが外れていた。ヘアクリップから髪が外れてばらけてくる。私は、私の身を被うそれらの訴えを聞き入れて、涼しい部屋に戻る。

26日
家の裏で、朝から草刈り機の音が響く。昼の休憩を挟んで午後遅く、ようやく音は止み、外に出ると、青臭さが周囲に漂っていた。

27日
八月最後の日曜の朝は、浅葱色の空にいぶし銀の雲。見ていると、すぐそこまで海が来ているような錯覚を覚える色の空。久しぶりに涼しい。気が抜けたように人がいない。誰もいない。人が死に絶えた町を歩いているようで、前方から何かが来たら怖いなと、ふと思った。

草むらの中の小さな和平

28日
草をむしっていたら、アゲハ蝶が落ちていた。片翼が真っ二つになって、死んでいた。夏も終わり……と、告げられた気がした。

29日
もらいすぎて、もてあまし、とうとう野菜室の中で白カビが浮かんできた胡瓜を捨てる。田舎だからゴミ捨て場が遠いのを呪いながら歩いていると、風が吹いて、シャツと素肌の隙間をひやりと抜けていった。ゴミを捨てていると、隣の神社から桜の葉が散る音がした。

30日
8月に覚えた花の名――地獄ソバ。ドクダミのことで、根が地中深く地獄の近くまで伸びていくのでそう呼ばれるという。


空に紡ぐ

31日
昔暮らした家の向かいに、猫好きのお婆さんがいて、私がこちらに越してからは、折に触れて絵手紙をくださる。私も返事を出してペンパル関係を築いていたが、やり取りはこの夏ついに途絶えた。
『私も九十になり』と書かれていたのは三年前。
酷暑だし。
空を見ると夏の雲が盛大だ。

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